第一章・E
十月十二日(水)午後四時三〇分
第二生徒会室
夕陽の眩しさに、目が覚めた。いつの間にか眠っていたらしい。無理をしすぎたのだろうか。否。自分など、まだまだ怠けているくらいだ。もっと――頑張らなくては。
ミライは席を立ち、躰を伸ばす。
伸ばしながら、窓の外を見る。
随分と、日が暮れている。整然と片付けられた室内は、濃い蜂蜜色に染め上げられている。棚も机も、その上の資料も、新聞記事も――それを眺めている、ミライ自身も。
全てが、均一に。
ふと、軽い目眩を感じる。
陽が傾く。
陽が差し込む。
橙色に支配される室内。
全ての境界が、失われていく。
自我が、存在が、個性が――溶け合ってしまう。
生物も無生物も有機物も無機物も――自己も世界も――全てが渾然一体、極彩カオスとなって――混ざり合ってしまう。
――馬鹿馬鹿しい。
まだ寝惚けているらしい。ミライは己の妄想を振り払うようにして、遮光カーテンを閉める。何が自我だ。何が存在だ。何が――個性だ。そんなモノに頭を使う暇など、今の自分にはない筈だ。思春期の中学生じゃあるまいし、自分が何者か真面目に考える方が、どうかしている。ミライは、ミライだ。三年五組の委員長で、学年トップクラスの秀才――客観的な立場から見れば、今のミライにはその程度の個性しかない。勿論、主観的な観点を加味すれば、もう少し別の価値も出てくるのだろうが――それ自体に何の意味もない。各々の目に映るミライ像など、千差万別だ。
外向的でオシャレで洗練されている――
気障で見栄っ張りなナルシスト――
他人にどう見られているか全く興味がないと言ってしまえば、それは嘘になる。だが、かと言って自分に注がれる視線の全てに注意を払っていられる程、ミライは、暇ではない。
溜息を一つ吐き、ゆるゆると頭を振る。どうやら、本格的に疲れているらしい。今日は早めに帰った方がいいのかもしれない。明日からは、さらに忙しくなる。さっさと用事を済ますことにしよう。
部屋の時計を確認すると、ちょうど四時半。約束の時刻だ。その刹那、コンコンと部屋をノックする音が響く。
「開いてるよ」
椅子に座り直し、ミライは鷹揚に答える。
「――失礼します」
おずおず、といった感じで扉が開かれ、その影から一組の男女が顔を覗かせる。一緒にいる人間を押しのけるようにして部屋に踏み込んだのは、長身の少女だった。胸まで届く漆黒の長髪で、大きな瞳が印象的。目力が強く、視線を合わせただけで射すくめられてしまいそうになる。ミライを睨み付ける訳がないから、それはきっと、ただ単に緊張しているだけなのだろうけど。
「失礼しまーす……」
その後ろからヒョコヒョコとついてきたのは、またしても長身の少年。前に立つ少女とは対照的に、その目は細く、開いているのか、見えているのかすら判然としない。ただ、そのせいか常態でも笑っているような印象を受ける。その、のほほんとした緊張感のなさも、少女とは好対照。聡明さを感じさせながらも、良く言えば素朴さ、悪く言えば垢抜けなさを残す顔立ちをしている――ここだけが、二人に共通している点か。
――否、もう一点、二人に共通している点がある――が、今ここでは追及しないでおこう。その理由は、分かりきっている。そんなことは、どうでもいい。今大切なのは、目の前にいる二人の個性だ。
先に入ってきた少女が、二年十組副委員長、ハルカ。
後に入ってきた少年が、同クラスの委員長、アオイ。
この二人が、今回の客人だ。
「悪ィね、忙しいトコ呼び出したりして」
「――いいえ」
幾分固い声で、ハルカが応える。やはり少し緊張しているらしい。
「別に忙しくなんかないですよー。気にしないでください」
対するアオイからは、微塵も緊張感が感じられない。その対比が、だんだん面白くなってくる。
「えっと、多分初対面だけど、オレ、自己紹介した方がいい?」
「いえ――ミライさんですよね。存じてます」
「俺も知ってますよ。有名人ですもんね」
「あ、そうなんだ。なら、自己紹介はいいね」
ここでくどくど世間話するような、野暮ったい真似は好きではない。全てはビジネスライクに、スマートに済ませたい。相手が自分を知っているのをいいことに――それは当然のことなのだが――さっさと本題に入ってしまう。
「君たちは――『SRS』って、知ってっかな?」
「エス――え? 何ですか?」
「んー、二年では、まだ習ってないですねえ……」
と、ハルカ、アオイが応える。さっきから思っていたのだが、ミライの言葉に対して、先に反応するのが副委員長のハルカ、というのが面白い。それだけハルカがせっかちなのか、それともアオイのテンポが遅すぎるのか――恐らくは両方なのだろうけれども。
「違うよ。別に授業で習うようなことじゃない。この学校の、公認組織だ。『Student Rescue System』の略――だったかな? ま、正式名称なんてどうでもいいや。略称だけ覚えてくれればいい。一部では『裏生徒会』なんて言われてるけどね」
「それは、どう言う――」
と、これもハルカの言葉。
「だからさ――学校生活送ってると、色々と困ることがある訳じゃん? 親にも先生にも、勿論友達にも相談できないような、トラブルの類。そういうのを聞いて、できる範囲で力になって、解決しようじゃないかってのが、『SRS』の活動だよ」
「へぇ……」
「それは、例えばトラブルシューター的なことですか?」
感心しているハルカの横で、十組委員長のアオイが、思いの外に的確な相槌を打つ。やはり、のんびりしているだけで、決して頭が悪い訳ではないようだ。
「そう。勿論、警察沙汰になるような、深刻なトラブルはNG。もっと個人的な、些細なトラブルが専門。ま、中にはストーカーとかイジメとか、割と深刻なのも混じってるけど、そのくらいなら、俺らにも何とかできる。『SRS』は、そういった個人レベルのトラブルシューターを専門とした、少数精鋭の組織って訳」
「へええ……」
「少数精鋭って、具体的には何人おられるんですか?」
またしても、長身の副委員長は感心するだけ、先を促すのは糸目の委員長に委ねられる。一応、資料で二人の個性は分かっているつもりだったが、面と向かって話をすると、より各々の個性が分かって面白い。当たり前の話だが。
「今のところ――十四人、だね。ここにメンバーの一覧があるけど――まあ、見ての通り、この学校を代表する有名人揃いだ」
言いながら、机の上に置かれた資料の一つを二人の前に差し出す。
ハルカは、大きな目を更に大きくして驚いている。
アオイの方は……まあ、驚いているのだろう。だが、どうにもリアクションが薄くて、反応を掴みづらい。
「驚いた? ま、そうそうたるメンバーだよね。学業優秀、リーダーシップに溢れ、かつカリスマ性のあるメンバーのみが、『SRS』に選出されるって訳。馬鹿にゃトラブル解決なんかできない。信頼のない人間に相談を持ちかける生徒なんていない。……だからこそ、『SRS』には能力、人徳共に優秀な――いわゆる学校の有名人ばかりが選ばれる。って言っても、そういう人達はたいがい多忙だからねェ。参加不参加は自由意思。各々の余裕のある時のみ、参加してくれればいいってことになってる」
「…………」
今まで驚くばかりだったハルカの瞳が、不意に輝き出す。何かを察したらしい。
「特進クラスの人達は一人も参加してないんですねー」
その隣で、アオイが嫌なことを言う。
特進クラス――一流大学への進学を目標に、三年生の中でも成績に特化した連中だけを選抜した、特別なクラスのことである。ミライの所属する五組とは隣接しているが、あくまで六組ではなく、『特進クラス』という呼ばれ方をする。
ミライは、そこの連中のことが大嫌いだった。
高慢で自分本位で、常に自分たちが学校の中心にいると信じて疑わない。特進クラス以外の連中を見下している節もある。実力だけを言うなら、ミライだってほとんど遜色はないのに、である。
「……特進の連中が参加する訳ないじゃん。奴らは、自分のことにしか興味ないって」
できるだけフラットな口調を装ったつもりだが、口にすると、どうにも刺々しい。奴らに対して対抗意識を持っていることなど、死んでも気取られたくないのだけど……。
まあ、そんなことはどうでもいい。
「話を戻すよ。君らは知らなかったみたいだけど、『SRS』ってのは、別段、秘密裏に行動してる訳じゃないんだ。ただ、存在や行動を声高に公言してないだけ。知ってる人間はちゃんと知ってる。だからこそ、クラスや部活でのトラブルにいち早く対応できる。一覧みりゃ分かるだろうけど、メンバーは各学年の各校舎にまんべんなく散らばる形になっている。一カ所にばかり固まっていたら、一部の生徒のSOSに気付いてやることができなくなるからね」
この学校は俗に言うところのマンモス校という奴で、敷地面積が馬鹿みたいに大きく、校舎の数も多く、それに比例するように、クラス、生徒の数も多い。一通りの資料は揃っているが、その資料を参照せずに、どこのクラスにどんな生徒がいるか、正しく把握するのは不可能に近いと言ってもいい。
「とは言っても――人手は、多いに越したことはない。と言うか、ぶっちゃけ、十四人じゃキツいんだよね。俺ら三年は受験も控えてるし、いつまでも学校の仕事ばかりにかまけている訳にもいかない。常に新しい人材を発掘する必要がある……」
そこでミライは、わざとらしく間を置く。足を組み、膝の上で両手の指を組み合わせ、ゆっくりと二人を睨め上げる。
ここからが本題だ。
「そこで――君たちに、白羽の矢が立った」
「やります! やってみます!」
と、今まで無言で話を聞いていたハルカが、身を乗り出して声を張り上げる。
「私、やります! やらせてください!」
即答もいいところだ。その勢いに、ミライは若干引いてしまう。
「ああ、うん、早いね……。君は引き受けるだろうと思ってたけど、その早さに驚いたよ……」
「だって面白そうじゃないですかっ! まだよく分からないけど、私、やってみたいです!」
副委員長のハルカは人一倍好奇心が強く、何事にも積極的だ。何にでも首を突っ込みたがるのが玉に瑕だが、押しが強くバイタリティーがあるため、周囲からの信頼も厚い――と聞いている。正直、彼女に関しては心配していない。
問題は、その横にいる委員長・アオイである。興奮するクラスメイトを横目に、あくまでフラットな態度を崩そうとしない。
「アオイ君、君は、どうするよ」
「俺は……うーん、どうしましょうかねえ……」
委員長は、どこか消極的だ。そしてそれが、アオイという男の個性でもある。いつ如何なる時でも温厚で、おっとりのんびりマイペース。開放的な性格をしているため人付き合いは得意だが、いけいけドンドンの副委員長と比べると、地味で大人しい印象が拭えない。
「いや、資料見たら、二人ともここ最近急激に成績が伸びてるし、それ以前に、二人ともクラスの中心人物だ。顔も広いし、信頼も厚い。君らならメンバーに誘っても大丈夫だと思ったんだけど――気が乗らないなら、無理にとは言わないよ? もうすぐ文化祭だし、君らも忙しくなる。第一、隣のクラスにはサエって言う、突き抜けて優秀なメンバーもいるしね」
二人が所属する十組の隣、二年九組には、『サエ』という、傑出した能力と個性を有するメンバーが在籍している。学年トップで資産家令嬢、おまけに学校でも有数の美少女という、類い希なる存在だ。勿論彼女も『SRS』のメンバーで、二年生ながら、すでに主戦力となっている。実際、あの辺りのトラブルは彼女一人で担当しているようなモノで――さすがにそれでは負担だろうと思って、今回アオイとハルカを選出したのだが……。
「ううん……」
アオイは、まだ逡巡している。
「ま、今すぐ答えを出す必要はないよ。君の決心がついたら、直接俺に言ってくれりゃいいいから」
ならば、今回はこれで終わりだ。ミライとしては、ハルカを獲得できただけでも充分だと、そう思っていたのだが――
「別にいいんじゃないですか?」
横から、当のハルカが口を挟む。
口の端に酷薄そうな笑みを浮かべ、アオイの方を向く。
「アオイ、ミライさんの言う通り、これから忙しくなるだら? じゃあ、やめときん。別にアンタなんおらんでも、私がしっかり――」
「や、誰もやらんなんて言っとらんよー?」
迷っていたアオイが、挑発的なハルカの台詞を受けて、その態度を一転させる。意外な展開だ。
「あ、ミライさん、俺もやります。『SRS』、でしたっけ? 俺でいいんだったら、喜んで受けますよー」
「ちょ、アオイっ! さっきまで迷ってたじゃん! 別に無理せんでいいだに!? 私一人でも、充分にやってけるしっ!」
「委員長は、俺だよ?」
興奮するハルカに対し、アオイの言葉はどこまでも静かで、穏やかで、フラット。だけど、有無を言わせない迫力が、確かにある。
「副委員長のお前が受けるのに、委員長の俺が辞退する訳にはいかないじゃん?」
「…………ッ!」
下唇を噛んで俯くハルカ。どうやら、勝負あった、らしい。
「ん……じゃあ、取り敢えず、二人ともOKってことでいい?」
「いいです」
「…………」
珍しく、アオイの方が先に答える。ハルカは未だに俯いたままだ。何だか、不穏な空気を感じる。この二人、どうやら良好な仲とは言い難いようだ。ハルカはアオイに対する対抗意識が見え見えだし、アオイはアオイで、穏やかではあるものの、クラスのリーダーとしてのプライドがあるらしい。
これは、面白い。
ミライは二人に分からないよう、微かな笑みをこぼす。委員長と副委員長が不仲なこと自体は、珍しいことではない。どこのクラスでも、普通にあることだ。しかし、その二人が揃って『SRS』のメンバーに選出されたのは、これで二件目。ちなみに一件目はミライの所属する三年五組だ。委員長のミライのほか、副委員長のゴウもSRSに参加している。
ともかく――これからどうなるか、なかなか興味深い。もっとも、ミライとしては、後輩とは言え余所のクラスに干渉するつもりは一切ない。そういったベタベタした付き合いは好みではない。
――もちろん、仕事絡みとなれば、話は別だが。
「うし。じゃあ、今回は参加不参加の意思確認だけ――にしとこうかとも思ったんだけど、一応、今俺が追ってる案件を耳に入れておこうかな」
机に広げられた『SRS』関連の資料をさっさと片付け、ミライは自分の鞄から数枚のプリントを机の上に置く。
「案件、ですか?」
俯いていたハルカが顔を上げる。すでに復活済みらしい。切り替えが早いのはいいことだ。
「そう。これから君らにも手伝ってもらうことになる――『SRS』としての、初仕事だ」
「へえ。どんなですかー?」
のんびりとした感想を漏らしながら、アオイが首を伸ばす。
「……最近、校内の至る所で、妙な噂が流れている」
「噂――」
「そう、風聞、口承、都市伝説の類だ。誰も知らないのに、誰でも知ってる――そんな、ふざけた話が、この校内限定で起きている。噂は噂。下らないと切り捨てるのは簡単だけど――校内限定、というところが気になる。『SRS』としては、見過ごせない」
ミライは足を組み替え、トン――とプリントを指で叩き、二人の顔を見る。
「君ら――『裏山の魔術師』って、聞いたことない?」