第五章・N
十月二十一日(金)午後二時十分
二年七組教室
主題を見極める必要がある――。
ヒトナリは、静かにそう考えていた。
何が起きているのか。
誰が動いているのか。
何を調べるべきなのか――それこそが、肝要なのだ。
ヒトナリはずっと、『裏山の魔術師』について調べていた。少し前から校内で流布しているという、意味も由来もよく分からない怪しげな都市伝説――それを持ち込んだのは、十組委員長・アオイだった。最初は全く食指の動かなかったヒトナリだが、ふとしたきっかけで、自分がそれに遭遇していたと思い出し――調査を開始した。
しかし。
『魔術師』云々は、状況を構成する一要素にしかすぎなかったのだ。ヒトナリたちが調査をしているのと全く同時進行に、様々な人間が様々な思惑で様々な動きを見せていた。
三日前の女神像ホールで、ヒトナリはそれを知った。
事態を収束させるには、てんでバラバラに散っている全ての情報を、皆で共有する必要がある――そう提案したのは、三年五組に在籍するユカという女生徒だった。
全くその通りだと、ヒトナリも思った。
彼女、多少感傷的になりすぎるきらいはあるが、かなり冷静な判断のできる人物だ。あの場のサエの発言で、全ては文化祭終了まで、おあずけになってしまったが――ヒトナリは、諦めがつかない。
せめて、あのユカという女生徒と個人的なコンタクトが取れれば――サエが場を取り仕切る中、ヒトナリはそんなことを考えていた。
だが――場がお開きになる寸前にユカが漏らした一言で、ヒトナリは完璧に混乱してしまった。ヒトナリだけではない。アオイ、ハルカを含めた十組の人間も、ユカの隣にいたケンという先輩も、マサも、そしてサエまでもが――皆、一様に驚いていた。
それだけの破壊力が、あの一言にはあった。
結局、イズミが半ば無理矢理にユカを引っ張っていくことで、強引にその場はお開きになった。あの発言の真意など、全く分からぬまま、である。
しかし、時間が経った今になって、ヒトナリはある確信を抱き始めていた。
あれは、魔術師の仕業だ。彼女はある一点において、重大な記憶障害に陥っている。それがあまりに限定的なので、今までは違和感を抱きつつも、日常生活に支障がなかったのだ。
つまりは、彼女も被害者なのである。
主題を見極める必要がある。
サエが皆の前で宣言してしまった以上、文化祭が終わるまで、表だった行動はとれない。しかし、考察するのは自由だ。
ヒトナリは考える。
何が起きているのか。
誰が動いているのか。
何を調べるべきなのか。
ユカの次に問題となるのは、アオイの挙動である。奴は、言うまでもなく十組の委員長である。その十組は何かを隠していて、それには件の魔術師が絡んでいる。そしてそれを、SRSメンバーであるサエが暴こうとしている――。この流れからすると、アオイの行動は明らかにおかしい。ヒトナリに都市伝説『裏山の魔術師』を持ち込んだのは、他でもないアオイ本人なのである。これは明らかに矛盾している。
しかも、マサの話によると、アオイとハルカもまた、それぞれがSRSメンバーなのだと言う。ハルカの弁では、入り立てで何も仕事をしておらず、他のメンバーとの縁も薄い、ということだったが……少なくとも、それが場の混乱に拍車をかけたのは間違いない。アオイもハルカも個人プレーがすぎる。ハルカの方は一応、サエの策略にはまった、ということで一応の結論は得たのだが、アオイの方は依然謎のままだ。本人に直接問いただしたい所ではあるが……それも、文化祭終了まで待たないといけないのだろうか。
目の前のフルーツ盛り合わせを口に運びながら、一息つく。
結局、何をどう考えたところで、動きを封じられていることには変わりがない。サエの情報収集能力は図抜けている。コソコソ動いたところで、筒抜けだ。彼女を敵に回したくはない。やはり、文化祭が終わるまで大人しく待つのが一番の得策なのだろう。
それにしても、ここのフルーツは絶品だ。甘すぎず酸っぱすぎず、果実の持つ瑞々しさが極限まで引き出されている。ただ皮を剥いて皿に盛っただけの代物が、こんなにも美味いだなんて。大して食欲もなく、普段果物と言えば林檎くらいしか口にしないヒトナリだが、これならいくらでも食べられる。さすがは七組。商品の質が高い。
……と、まあ、それはいいのだが……。
正面を見上げたヒトナリは、首を傾げる。
――あれは、何なんだ?
今、ヒトナリはフルーツパーラーを出し物としている二年七組の教室に遊びに来ている。今日は文化祭二日目――初日は図書委員会主催の古本市で忙しく、余所の出し物を見て回る暇などなかった。二日目の今日になってようやく余裕ができたから、何かと因縁のある七組がどうなったかと、様子見がてらにやって来たのだが――。
前述の通り、提供される商品に関しては、文句のつけようがない。素材がいいのだから、クオリティが底上げされるのは当然の道理と言えるだろう。
それはいいのだけど。
問題は、店舗の装飾にある。ヒトナリは眼前にそびえる巨大なオブジェを視界に捉え、呆れと感心を半々に混ぜ込んだ溜息を漏らす。
青紫をベースに、所々にグリーンがアクセントして入った、巨大なロボットである。
――否、『汎用人型決戦兵器』の『人造人間』、だっけか。とにかく巨大で、上半身の胸像が店舗となっている教室の前半分を殆ど覆ってしまっている。その姿は、神々しいと言うか、禍々しいと言うか――とにかく、圧倒、の一言に尽きる。三日前まで、この空間は無数のぬいぐるみに支配された『ラブリー&ファンシー』な空間だった筈だが、今はその世界観を百八十度変換させてしまっている。どこぞの研究所のような雰囲気だ。
ふと、視線を感じて教室後部の扉を振り返る。
そこには、驚愕の表情で固まっている、ラテン系で彫りの深い顔立ちをした少女が棒立ちになっていた。サイコ――という名前だっただろうか。三日前の女神像ホールにもいた、顔の作りとは裏腹に、大人しい性格の少女である。いつもハルカと一緒にいるイメージが強いが、今は一人で行動しているようだ。
それにしても――さっきから、出入り口に突っ立って微動だにしない。恐らく七組の様子が気になって見に来たはいいが、前面の巨大オブジェに圧倒され、フリーズしている――そんなところだろう。
「……あ」
じろじろと見ていたのがよくなかったのか、向こうも視線を感じたらしく、期せずして目が合ってしまう。表情の変化から察するに、向こうもこちらの顔を覚えていたらしい。何か声をかけるべきだろうか。逡巡している間に、彼女は踵を返していなくなってしまう。避けられているらしい。仕方のない話だが。
「あ、ヒトナリ、来てくれたんだ」
サイコに気をとられていたせいで、ジュリが近くに来ているのに気が付けなかった。外はねの髪は相変わらずだが、服装はシンプルなエプロン姿である。見合っていると言えば、見合っている。ただ、相当に疲れているように見える。目の下のクマが、尋常ではないことになっているからだ。
「どう? うちのフルーツ、美味しいら?」
声にも、いつもの張りがない。
「美味しく頂いてるよ。それはいいんだが、お前……」
「うん?」
「寝てないのか」
「うん。二徹」
二日寝てないという事実を、何てこなしに告げてくる。
「……あれのせいか?」
正面のオブジェを指し示す。
「時間なかったけど、中途半端なモノ作っても意味ないからね。妥協はしたくなかった」
確かに、物凄い完成度だ。三日前のあの騒動から急ピッチで作り上げたとは思えない質の高さである。
しかし。
「いや、凄いのは確かに凄いんだが、お前……」
「ん?」
「あれは、何だ?」
「何って――」
そんなことも知らないのか、という顔で作品タイトルを口にする。
いや、その位は、ヒトナリだって知っている。
九〇年代に社会現象を引き起こした、エポックメイキング的なアニメ作品である。聖書や精神世界を取り込んだ世界観に、時にグロテスクとも思えるストーリー展開で、この作品によって新たなアニメブームが到来しているとも言われている。
今、目の前にあるのは『初号機』と呼ばれる型で、メインでありながら最も謎が多いと呼ばれているモノだ。
謎と言えば、ジュリ率いる七組の連中が、何故唐突に、これにプラン変更したのかも充分な謎なのだが。
「やっぱり、インパクトが大事ずら。これは十年以上経った今になっても人気のある作品だし、話題性もあるしっ!」
鼻息荒く、ジュリはそう解説するが――ヒトナリには、別の思惑があるとしか思えなかった。別の思惑とは、つまり――
「……十組に対抗したのか?」
十組があれで、七組がこれ。
結びつけて考えるな、というのが無理な話だ。
「は? 言ってる意味分からんし。対抗とか何よ? は? 十組とか全然関係ないし。全然意識しとらんし」
目が泳いでいる。対抗心を滾らせているのがバレバレである。
「お前、嘘下手だな」
「黙れしッ! 対抗したっていいじゃんけッ! 私らはあんな奴らに負けられんし、女神像を渡す訳にもいかんっちゅうこん!」
濃いクマに彩られた目をギラつかせながら、ジュリは勢い込む。
「大体ね――」
口を大きく開けて、さらに何かを言おうとするジュリ。しかし、それを阻止する一団が現れる。
リュウ、タマネ、モモコの三人である。
リュウは精悍な顔立ちをした中肉中背の男子で、七組の副委員長。
タマネはやや肉付きのいい体格をした、クラスのナンバースリー。
モモコは派手な顔立ちをした、やや垢抜けた少女。
要するに、七組の有力者たちである。この三人は、基本、ジュリと一緒に行動しているイメージがある。取り巻きと言うのではなく、ただ単純にお互いを信頼して行動し合っている――団結力の強い七組を体現するようなカルテットなのである。
「ジュリ、ちょっといいか?」
神妙な顔をして、リュウが口を開く。
よくよく見れば、この三人も目の下のクマが相当なことになっている。どれだけ気合いを入れてあの初号機を仕上げたのだろうか。
「ん? リュウ、何かあった?」
「実は――」
と、ヒトナリの耳を気にしてか、こちらに聞こえないように耳打ちをするリュウ。またもや疎外感を感じてしまう。もちろん、ヒトナリはこのクラスでも部外者には違いないのだけれど。
「分かった。すぐ済ませるで」
にわかにシリアスな雰囲気を漂わせて、ジュリはその場を立ち去る。視線で追うと、彼女は別のクラスの誰かと密談を始めるところだった。相手は、大きな紙袋を抱え、シャツの前を大胆にはだけた、ワイルドな雰囲気をまとう男である。見覚えのない顔だ。
二人は周囲の視線を気にするようにして、巨大な初号機模型の影に隠れてしまう――が、ヒトナリのいる席からは、僅かに二人のやりとりが見えた。ジュリがこっそりと、赤褐色の液体が詰まった瓶を男に渡すところを、ヒトナリは確かに見てしまったのである。
「おい、あれは――」
「何も言っちょし」
リュウに言葉を遮られる。
「いや、でもあれは――」
「お前も六組の有力者ずら? それぞれのクラスにはそれぞれの事情があるもんじゃんけ。立ち入った真似しちょし」
低い口調でリュウが言い切る。横の二人も、真剣な表情でヒトナリを見つめていて――三人に睨まれては、さすがに何も言えなくなってしまう。
「ごめんね。話の途中で」
取り引きを終えたジュリが、何でもない顔をして戻ってくる。
「三人も、ありがと。もう戻っていいから」
言われるままに所定の位置に戻る三人。しかしヒトナリは納得がいかない。
「ジュリ、今のは――」
「リュウたちに言われんかった? それぞれのクラスには、それぞれの事情があるもんずら。無粋な真似しちょし」
驚く程に意思の疎通が取れている。
独立独歩を信条として、別グループの人間のことになど一切興味を示さない六組の人間とは大違いである。
「なるほど。分かった。お前らが裏でワインの売買をしていることは、見なかったことにしよう」
「ワインじゃなくて、葡萄酒ずら」
「いずれにせよ、酒じゃないか」
「需要あるところに供給あるっちゅうこん。杓子定規じゃ世の中渡っていけんら。アンタも大人になれし」
どこか達観した口調で、ジュリはそんなことを言う。言い返す言葉を探すヒトナリの前で、ジュリは棚に並んでいたペットボトルを掴む。勢いよくキャップを外したかと思うと、そのままグビグビと、三分の一程も飲み干してしまう。鮮やかな緑色が目に悪い。
「……それは?」
「ああ、これは三組の商品。特別調合の健康ドリンクで、飲むと元気が出るんだって。客の目の前で商品に手を付けるのもどうかと思うけど、私ももう、体力的に限界だで」
深い深い漆黒の闇を目の奥に秘めながら、ジュリはそんなことを言う。……商品に手を付ける云々よりも、何故三組の商品がここに置いてあるのか、そちらの方が気になるのだが。
「二組の奴ら、商品詰めた箱を担いで校内中を練り歩いてるんだけど、条件付きで、ウチの教室に置くことを許可したのよ」
「条件って何だ」
「ウチのクラス名と店名を、担いでる箱に大きく書くこと。つまりは歩く広告塔ずら。アイツらは売れた分だけしか代金貰わんって言うし、こっちはこっちで、このドリンク置いておくだけでウチの宣伝になるしで、両方得する得々プランって訳よ」
どこまでも抜け目のない女である。
十組に対抗して、短時間で巨大な初号機模型を完成させて。
売り上げを伸ばすために、葡萄酒の販売を秘密裏に行って。
七組の宣伝のために、三組の人間を広告塔に仕立て上げて。
「そこまでするか」
「そこまでするよ。当たり前じゃんけ。理想の結果を目指して、そのために出来る限りの努力をするのは人として当然のことずら!? 当たり前のこん言わせっちょしッ! それに、これで終わりじゃないしッ! 十組の奴らから女神像を奪い返す秘策があるだでねッ! 最後に笑うのは私たちずらッ!」
――この女は、何と闘っているのだろう。
努力しているのは分かるが、明らかにその方向性を誤っている。主題を見極める必要があるのは、ジュリも同じだろう。
――奇跡はそう何度も起きないし、
――少年は、神話にならない。
高笑いを始めるジュリをじっと見つめる初号機を横目に、ヒトナリは小さくかぶりを振ったのだった。
当初は、次に十組主催の女神像ホール屋台村に行く予定だったのだが――取り敢えず、やめておく。先程のサイコの態度を見る限り、十組の他の連中にも邪険にされる危険性が高い。彼らの様子を見るのは、明日でも遅くないだろう。
七組の教室を出たヒトナリは、女神像ホールを素通りする。その隣は彼らの教室だが、今はまるで人気がない。何故かドアは僅かな隙間を残して中途半端に閉められている。しかし、それは本当にちょっとの隙間なので、中の様子を窺うことも困難だ。どうせ誰もいないのだから、構わないのだが。
その隣が、サエ率いる九組、そして彼女らと普段から親交の深い五組、八組合同で行っている喫茶店ブースになる。
まず目に付いたのは、壁に沿って大量に置いてある花輪だった。パチンコ屋の新装開店みたいだ。花輪は全て生花で作られているのだが、どういう訳か九組前に置かれた花輪は、ほとんどの花が持ち去られ、骨組みだけになっているものが目立つ。よくよく観察すると、父兄らしき人間たちが勝手に花輪の花を拝借して持って行ってしまっているらしい。それも、九組のモノだけ。恐らくは何かの縁起担ぎか何かなのだろうが――ヒトナリには理解できない。
五組、八組、九組の教室全てをフル活用して巨大な喫茶店を開いているこの一画ではあるが――やはりと言うべきか何と言うべきか――九組の教室だけが、群を抜いて派手である。何と、電飾まで付いているのだ。ますますパチンコ屋だ。
先程の七組ではないが、努力する方向を間違えているとしか思えない。しかし、店内は割とまともだった。内装は洋風に、そしてシンプルにまとめられている。まあ、ここの連中もモビルスーツが屹立する屋台村や、初号機が見下ろすフルーツパーラーなどと比較されても困るだろうけど……。
唯一不可解だったのは、窓際に置かれた人形だった。奇妙と言うほどではないが、独特のフォルムをしている。材質は布だろうか。黒い頭巾と黒い腹掛けを纏い、露出している顔や手足は真っ赤に染め上げられている。顔には目鼻などないのっぺらぼうで、投げ出された手足には指などなく、鋭く尖っている。頭が大きく、三頭身くらいのところを見ると、乳幼児を模したモノなのだろう。可愛いと言えば可愛いが、変と言えば変である。少なくとも、洋風に統一された店内からは間違いなく浮いている。別にいいのだけれど。
「来てくれただか」
キョロキョロとしていると、腰にエプロンを巻いたマサから声をかけられる。既視感。
「サエの所がどんな出し物をやっているものかと、気になったものだからな」
言いながら、ヒトナリは一番端の席へと、教室全体に背を向ける形で座らされる。
「それに、一度落ち着いてお前と話がしたいと思っていた」
「ふうん……ちょっと、待っときん」
席を離れたかと思いきや、近くで作業をしていた男子数名に声をかけただけで、マサはすぐに戻ってくる。いつの間にか腰に巻いていたエプロンは外され、テーブルの隅に畳んで置いてある。
「仕事はいいのか?」
「休憩扱いにしてもらったわ。オレも、お前と話したかったでな」
断っておくが、別にマサとヒトナリは友人同士という訳ではない。ただ、行き帰りの電車で毎朝顔を合わせる程度の、いわゆる顔馴染みにすぎない。挨拶くらいはするが、会話らしい会話などしない。一緒に遊んだ記憶もない。その程度の間柄である。
そんな相手と話したくなったのは――勿論、三日前の女神像ホールでの出来事が関係している。
「まあ、何か頼めや」
テーブルに置いてあったメニューをずい、と寄越すマサ。
コーヒー、紅茶などのスタンダードなドリンク類、サンドウィッチのような軽食類に続き、割と重めのフードメニューも多彩に揃えてある。
鶏手羽を唐揚げにして甘辛いタレを付けたモノ。
豚カツに味噌ベースの甘辛いタレをかけたモノ。
太くて堅いうどん麺を甘辛い味噌ベースの汁で茹でたモノ。
牛すじのようなモツを甘辛い味噌ベースのタレで煮たモノ。
――だいたい同じ味付けではないか。
どれだけ味噌が好きなんだ。
「オレのイチオシはカレーうどんな。いっちょ頼んでみっか?」
「いや、遠慮しておく。昼は食べてきた」
「そうか……。でも、通常メニューとは別に、VIP専用の高級メニューってのもあるで。八組の奴らが、牛とか海老とか、食材提供してくれたもんでよ。騙されたと思って食べよまい」
「へえ、美味そうだな」
「値段は桁一つ違うけど、別にいいよな?」
「いいわけあるか。却下だ。さっきも言ったが、腹は減ってないんだ。それにそんな経済的余裕もない。俺相手に営業するな」
マサが押し付けてくる豪華な装丁のメニューを押しやり、ウェイターを呼ぶ。
「ご注文は?」
ニヤニヤと笑いながら注文をとっている。確か、マサの友人の一人で、トウカと言う名前だった筈だ。
「……ホットコーヒー」
「オレはモーニング」
無難な注文をするヒトナリを尻目に、マサはさも当然のことのようにモーニングセットをオーダーする。……すでに午後二時を回っているのだけれど、ここはいつまでモーニングタイムなのだろう。
しばらくして、二人の元に注文した品が運ばれてくる。トースト、ゆで卵、サラダ、茶碗蒸し、ゼリー――これが、マサの注文したモーニングセットである。無駄に豪勢だが、この店ではこれが当たり前なのだろうか。一方、ヒトナリのホットコーヒーだが、こちらもカップに注がれたコーヒーとは別に、小皿に盛られた柿の種がオマケとしてついてきている。やはり、これも当たり前のことなのだろうか。それに関してマサは一切コメントをせず、何食わぬ顔をしてトーストに口を囓っている。きっと、これはそういうものだと受け入れなければならないのだろう。言及するのも野暮に思えて、ヒトナリも黙って目の前のコーヒーに口をつける。
「分かってると思うだけどさ――」
先に口を開いたのはマサの方だった。
「十組に関することは、聞くのも言うのもやめりんよ。オレがお嬢に怒られるで」
「分かってる。俺が聞きたいのは十組のことなんかじゃなく――お前自身のことだ」
マサの目を真っ直ぐに見据え、ヒトナリは言葉を選ぶ。
「オレ自身のことって何だん」
「お前はいつから、サエの犬になったんだ?」
敢えて強い言葉を選択した。それで、相手の様子を見る。
「嫌な言い方しんでくれよ……」
マサは露骨に顔をしかめる。若干、疲れているようにもみえる。
「お嬢は委員長だに? オレは、委員長の命令に従っただけじゃん」
「詳しくは知らないが、お前、サエよりもむしろ、ハルカの方が仲良かったらしいじゃないか。しかし、お前はそのハルカを裏切るような真似をした」
「だから」
溜息混じりに反論するマサ。
「オレは九組の人間だ。九組の人間は、誰もサエに逆らえんだ。オレの意思なん、関係ないわ」
「本当は、あんなことなんてしたくなかった――そう受け取って構わないか?」
「好きにしりん」
「サエってのは、そこまで絶対的な存在なのか?」
「お前はアイツを敵に回したいと思うのけ?」
「……思わないな」
「ほれ見ん」
うんざりした顔で、癖のついた前髪を指先でいじくっている。
「ただ、勘違いしんでほしいんだけど……。オレはお嬢に逆らえんってだけで、別に、あの女に絶対の忠誠を誓っとるって訳じゃないだでな」
「どういうことだ?」
「お嬢の取り巻き連中とは違うってことだよ。九組ってのは、大きく二つのグループに分かれとるだ。つまり、お嬢のグループと、コロモのグループだな。ミチカゼやマスミみたいに、派手で押しの強いのはお嬢グループだし、タケやオレみたいに、地道にコツコツやる裏方タイプはコロモグループ。同じ九組でも全然違うだ」
そうなのだろうか。余所から見れば、どちらも大差ないように思えるのだが――当人が言っているのだから、そうなのだろう。
「オレは、ただハルカやサイコと仲がいいってだけで、作戦に利用されただけなんだよ」
頬杖をつきながら、ふてくされたようにそう言う。しかし、彼の台詞はそれで終わりではなかった。
「……まあ、お嬢が凄いのは事実だけどな。忠誠こそ誓ってないけど、ウチの奴らはみんな、お嬢のことを尊敬しとる。それは本当だ」
「わざとらしいフォロー、ありがとう」
背後からの声にヒトナリは飛び上がった。教室全体を背にして座っていたから、分からなかったのだ。
真後ろに、サエが立っていることに。
フリフリと派手な装飾のついたエプロンを身につけている以外は、女神像ホールで見かけたのと変わらない。いや、文化祭だからか、普段より若干メイクが濃くなっている気がする。
「何を驚いているのかしら? ここは九組の教室で、私は九組の委員長よ? 私がここにいることに、何の不思議もないでしょう?」
「お嬢、オレ別にアンタの姿が見えたから、それで慌ててフォロー入れた訳じゃねえでな」
頬杖をついたままの姿勢でマサが言う。なるほど。確かに忠誠を誓っている訳ではないらしい。
「そう? 誰が見ても、そうにしか見えなかったと思うんだけど」
「アンタ、お世辞やヨイショの類、全く通じんじゃん。オレもそのこと知っとるでさ、本当のことしか言わんのだわ」
「それはありがとう」
眉一つ動かさず、マサの台詞を受け流すサエ。いつもながら、超然とした物腰である。
「ってか――この前の女神像ホールの時も思っただけどさ――お嬢、何でそんな喋り方してんの? いつもみたいに喋りん。正直言って、ちょっと気色悪いだけど」
「失礼な人ね。いつもこういう喋り方でしょう? おかしなことを言わないで」
露骨に気分を害した、という顔をしているが――恐らくは、マサの言い分が正しいのだろう。サエはクラス外の人間と話す時は今のような口調だが、クラス内ではもっと砕けた話し方をしているのだ。そしてどうやら、彼女はそれを、みっともないことだと思っているらしい。見栄っ張りのサエなら、ありそうな話である。
「それよりも……俺に何か用か? 聞いていたなら分かると思うが、十組にことについて詮索していた訳ではないぞ?」
サエの登場で少々狼狽していたヒトナリであったが、幾分落ち着きを取り戻した。肘を抱えるような形で腕を組んでいるサエに対して、こちらから先制攻撃を仕掛けてやる。
「あら? 別に、私はそんな心配なんてしてないわよ? 文化祭が終わるまで、このことに関する詮索は御法度――真面目な貴方がその協定を破るとは思えないもの。そうでしょ――」
そしてサエは、ヒトナリのフルネームを口にする。三日前の時は、『六組の人』としか呼んでもらえなかったのに、である。どうやら、ヒトナリのこともある程度調査してあるらしい。露骨な牽制である。
「……じゃあ、何なんだ」
「――時間よ」
低く通る声で、サエはそれだけ告げる。
しかし、それでマサには伝わったようだった。
「いよいよか……」
「ちょっと待てよ。『時間』て何だ? 何か起きるのか?」
やっと落ち着きを取り戻したと言うのに、ヒトナリはまた周章狼狽してしまう。
「面白いショーの始まりよ。九組のみんなは、この店があるから観劇できないけど――さすがに、マサ君には色々とさせちゃたからね。これにも参加してもらおうと思って。マサ君はマサ君で、色々と知りたいこともあるだろうし」
「そりゃどうも」
あまり有り難くもなさそうに、マサは礼を述べる。
「だから待てって。ショーってのは何だ。文化祭が終わるまでは詮索無用と、お前がその口で言ったばかりじゃないか」
「ヒトナリ君って――堅物って言われない? 何もかもがルールに則って行われると思ったら大間違い。向こうが飛び道具を使ってくる以上、こちらも丸腰ではいられないでしょう? 主導権を得たいと思うのなら、手段なんて選んでいられないってことよ」
どうやら、サエは何かを仕掛けるらしかった。しかし、未だ主題さえ掴めていないヒトナリには、これから何が起きるのか、想像することすらできない。
「心配しなくても、ヒトナリ君にだってアリーナ席を用意しておいてあげるから。そこで、全てが分かる。そこで、全てが終わる。こんな茶番――もう、うんざりだものね」
低く、冷たく、張り詰めた声質で、サエは宣言するかのように、そう言う。やはり、ヒトナリには意味が分からない。と言うか、あまりに唐突な展開に、若干ついていけないでいる。
「実はもう動き始めてるんだけど、私たちの出番はもう少し先、かな? その間に準備しちゃいましょう」
言うが早いか、踵を返すサエ。無言でマサも立ち上がる。
「……あ、ちょっと、この人形置いたの誰? 五組でしょう? 九組には置くなって言ったでしょう? 誰か、キンカを呼んで――」
窓際の赤い人形を取り上げながら、先程とは打って変わった声質で、サエは周囲に指示を飛ばしている。それを目で追いながら、ヒトナリも慌てて立ち上がる。まるで心の準備ができていないし、頭の回転も追いついていないが、とにかく何かが始まるらしい。
結局、主題が何なのか見極めることは、できなかった――。




