第二章・E その2
十月十四日(金)午後四時三〇分
二年十組教室の外
そこには、先客がいた。
放課後である。
ユカは基本、彼氏のイズミと下校を共にしている。二人とも帰宅部だ。学年が違うとは言え、大まかなタイムラインはどのクラスの
大差ない。補習でもない限り、下校時間は同じとなる。ユカとイズミは幼馴染みで、家も近所だ。下校を共にしない理由などない。
だけど――今日は、少し違った。
『ゴメン。クラスで大事な話し合いができちゃった。
多分、帰るの五時近くになると思う。
さすがに欠席できないし、待たせちゃうの悪いから、
ユカちゃんは先に帰ってて』
イズミからのメールである。
大事な話し合いと言うのは、確認するまでもなく文化祭の出し物についてだろう。七組とのいざこざについては、今朝ナミやマサヤス、サハリたちに聞かされたばかりだ。
それはいい。仕方のないことだ。ただ――メールの文面からは、言外に『十組の教室には来ないで』というニュアンスが伝わってくる、ような気がする。穿ちすぎだろうか。
この一ヶ月、イズミは自分のクラスにユカが来ることを柔らかく拒絶し続けてきた。今朝乗り込んだ時も、何だか、周囲の空気が妙な具合になっていたような気がする。『上級生が教室内に入って来た』以上の微妙な空気を、ユカは感じ取ったのである。
そこには、違和感があった。
何に由来するのかは、未だに分からない。何か、ひどく不自然なことを、とても自然なモノとして、当たり前に受け取っているような気もする。
これは、一体何なのだろう。
イズミにぶつけたところで、きっと答えてはもらえないだろう。
クラスメイト達も同様だ。イズミ本人が打ち明けないことを、そう軽々しく言うとは到底思えない。
浮気――なのだろうか。
今朝、十組の教室に行くまではそれを疑っていた。クラスメイトの誰かと浮気していて――だから、それで教室に来てほしくないのではないか。本命の彼女と浮気相手をバッティングさせたくないのではないか……。そんな風に、思っていた。
だけど、何だか違うような気がする。
根拠などない。ただ、そんな気がするだけだ。イズミの態度はどこまでも平常運転で、彼の周囲の人間もまた、いつも通りと言えば、いつも通り。珍しく七組に対する怒りを露わにしていたが、あの状況では特に不自然とは言えない。
不自然。
違和感。
確かに、それはあった。
だけど、その所在が分からない。
何もないなら何もないでいい。気のせいならそれに越したことはない。だけど、万が一、あのクラスで何かが起きているとするなら――イズミが何かよからぬことに巻き込まれていたとしたら――その時は、力になりたいと思う。何ができるかは分からない。でも、何もしない訳にもいかないだろう。勿論、全てはイズミの周辺に何かが起きていると仮定しての話なのだけど。
そう考えると、呑気に一人で帰路についてなどいられなかった。
取り敢えず、もう一度十組の様子が知りたい。
かくして、ユカは階段を降りて目の前にある十組の教室へと向かったのだった。
「……見えない」
巨漢が、そこに立っていた。
筋骨隆々の大男である。
実際、身長はさほどでもないのだけど、横幅が広い。決して太っている訳ではない。その体積のほとんどは、ゴツゴツとした筋肉でできているのだ。彼は今、こちらに背を向け、十組教室の扉の前で仁王立ちしている。捲られたブレザーの裾から、丸太のような腕が覗いていて、少し近寄りがたい。妙な威圧感がある。何も知らない人間ならば、間違いなくその場でUターンしてしまうだろう。
何も知らない人間ならば、ではあるけど。
「ねえ、邪魔だってば」
ユカは巨漢男の頭を、軽くはたく。
「……なんだ、ユカか」
「なんだユカかじゃないって。ケン君、こんなトコで何してンの?」
この巨漢、名前をケンと言う。
ユカとは同じ三年五組、しかも隣の席で、クラスの中では一番よく話す。見た目は厳ついが、朴訥・実直で、慣れれば親しみやすい人物だ。問題は、何故そのケンがここにいるか、ということなのだが……?
「そういうユカは、何の用だ?」
「え、私は……その、イズミと一緒に帰ろうと思って」
本当のことを言う訳にもいかず、だいぶ端折って説明した。肝心なことには何も触れていないが、嘘ではない。
「まだ話し合いの途中みたいだ。入っていける雰囲気じゃないな」
教室の扉は曇りガラスになっているため、ハッキリとは見えないが、それでもある程度の雰囲気は伝わってくるのだろう。
「ふうん……それで? ケン君は?」
「…………」
無表情のまま固まるケン。そんな風にされると、巨大な岩壁みたいに見えてくる。もしくは、妖怪ぬりかべだ。
「あの、聞いてる?」
「……いや、何て説明しようかと、考えてた」
「複雑なコト?」
「と言うか……おれ自身、事態を把握できていない」
「はぁ?」
ただでさえ混乱気味なのに、話をややこしくしないでもらいたい。
「あの、順を追って話してよ? ケン君は何をしに、何のためにここに来た訳? 誰かに用なの? それとも、誰かに何か言われたの?」
それなりに交友関係は広い筈なのに、このクラスメイトはどうも口下手でいけない。それ故、ユカが話を引き出さねばならない。今日はこんな役回りばかりだ。
「――噂を、聞いたんだ」
「噂?」
「二年十組が、何か隠し事をしているらしい」
ケンの言葉に、ユカはショックを受ける。
隠し事をしている、という内容にではない。いや、それ自体も充分ショックではあるのだけれど――ユカは、そのタイミングにこそ、衝撃を受けたのだ。ユカは、彼氏であるイズミが何か隠し事をしているのではないかという疑惑に取り憑かれ、今朝、十組に赴いた。結果、何らかの不自然さ、違和感を覚えて、今再びここに戻ってきている。要するに、ユカも、十組が何か隠し事をしているのではないかと、疑っている訳だ。そこに来て、隣の席のケンが、同様の噂が流れているなどと言う。
こんな偶然があるだろうか。
いや、ない。
全ては必然だ。必然であるということは、何らかの蓋然性があるということになる。ユカとケンの疑惑が合致する蓋然性――つまりは、噂の出所が、ポイントとなる。
「ケン君、その噂って、誰から聞いたの?」
「ジュンだ」
「ジュン君? って、ウチのクラスの?」
「他にジュンがいるか?」
そりゃ探せばいるでしょうよこの学校は広いんだから――などという陳腐なツッコミは、しない。
ジュンと言うのは、ユカ、ケンの所属する三年五組のクラスメイトである。地味な印象だが、その実、学年トップクラスの点数を誇る優等生でもある。委員長のミライや副委員長のゴウなどに比べれば、ユカやケンとの交流も多い。あくまでも、そのツートップと比較して、の話ではあるのだけど。
ユカは色々呑み込んで、質問を重ねる。
「何でジュン君がそんなこと言い出すのよ」
「…………」
また、無言だ。
十組前の廊下は無人で、二人が黙ると十組内のざわめきだけが辺りに響く。うまく聞き取れないが、何だかひどく盛り上がっている。
「もしもし? ケン君?」
「悪い。ちょっと考えを整理してた」
それならそれで、何かそれらしい動きをしてほしい。無言で固まるから、石化したのかと思ってしまう。
「ナミが――」
「うん?」
「ナミが、よからぬことに巻き込まれているかもしれない」
「…………」
今度はユカが黙る番だった。
ケンとナミは家が近所同士で、幼い頃から親しくしていた。今でもナミは『ケン兄ィ』と呼んで慕っている。もちろん血の繋がりはないが、ケンの方もナミを妹のような存在として見ているようだ。
そのナミが。
「それ、ホントなの?」
「分からない」
「よからぬことって?」
「……分からない」
「はぁ?」
あまりにも頼りないケンの態度に、思わず声を荒げてしまう。
「ちょっと、ふざけないでよ。何よさっきから分からん分からんって。ケン君は、ナミちゃんが心配でここに来たんでしょう?」
「……そうだけど」
岩山のような躰を強張らせて、ケンは首肯する。
結局、同じだったのだ。
ユカはイズミが、ケンはナミが心配で、ここに来た。十組に来れば何かしら分かるかもしれないという、淡い期待を抱いて。
「だったら、ちゃんと教えてよ。ナミちゃんがよからぬことに巻き込まれてるって、どういうこと?」
「だから」
噂――だったんだ、とケンは言った。
「ナミちゃんに関する噂ね?」
「そうだ」
「それを言っていたのは、誰?」
「だから、ジュンだよ」
ここに来て、話が元に戻る。
「えっと――ん? ちょっと待って。ジュン君がしてたのは、二年十組が何か隠し事してるって噂じゃなかったっけ?」
「同じことだ。十組は何か隠し事をしてる。ナミも関わっていて、それはよからぬことかもしれない」
脱力した。さっきから同じところをグルグル回っているだけではないか。ケンが口下手なのか、ユカの察しが悪いのか。
「じゃあ、さっきと同じ質問。何でそんな噂話を、ジュン君がしていたの?」
「そこまでは知らない。アイツも誰かに聞いたみたいなこと言ってたし……噂の出所なんて、おれだって分からない」
出所が分からない――噂が噂たる所以だろう。
真偽が分からないからこその、噂なのだ。
そしてそんな噂に、ユカとケンは踊らされている。
「……結局、教室に入っていって、本人たちに聞くしかないってことかな……」
「正直に話してくれるか?」
「多分ムリだろうね。鎌かけるとかして、遠回しに探っていくしかないと思う」
「任せた」
「任された」
口下手なケンには難しいだろう。ユカは進んで矢面に立つ。
軽く息を吐き出し、扉に手をかけようと手を伸ばし――扉を開けようとした所で、不意に、その扉が開いた。
ユカは思わず身を仰け反らせる。
何てタイミングだ。
扉を開いたのは、髪を三つ編みにした女子生徒だった。かなり整った顔立ちをしている。特に涼しげな目元と通った鼻筋が特徴的で――若手女優の誰かに似ている気がする。それが誰なのかははっきり思い出せないのだけど。
「ああ、やっぱり、ケン先輩とユカちゃん先輩でしたか」
親しげな様子で自分たちに話しかける女子生徒。
ユカは、反応することができない。
「悪いな、ヨウコ。話し合いは終わったのか?」
固まってしまったユカの代わりに、ケンが口を開く。こちらも、何だか親しげだ。
「いやぁ、さっきやっと目処がついたトコですよ。でも何か勢い付いちゃったみたいで、今盛り上がってます」
当分終わりそうにないですね――と、彼女はのんびりとした口調で続ける。
「イズミやナミに用なら、今は止めた方がいいですよ。まともに入っていけないですから」
「そうか。まあ、急ぐ用じゃないから、おれは構わないんだが……」
ケンがナミを見る。
「え……あ、うん。わたしも……い、イズミとなら、いつでも会えるし……」
しどろもどろになりながら答えるユカ。舌がうまく回らない。
「そうですか、じゃあ――」
軽く一礼をしてその場を去る女生徒。真っ直ぐに廊下を進んでいく。トイレにでも向かったのだろう。
「仕方ないな。取り敢えず、今日は帰るか……」
彼女が登場したことで、すでにお開きの雰囲気になっている。
この扉一枚隔てた向こうに、十組があるのに――自分たちは、それを越えられない。
――いや、そんなことよりも。
ユカは、ぎこちない動きで首を回す。角を曲がったのか、今いた女生徒は、すでに見えなくなっている。
――あれは、誰だ?
彼女は二人を知っているようだった。『ユカちゃん先輩』なんて呼称は、十組の、ある程度親しい後輩しか使わない。
そして、ケンもまた、彼女のことを知っているようだった。
彼は彼女を『ヨウコ』と呼んだ。
ならば、そういう名前なのだろう。
だけど、ユカは知らない。
あんな娘、初めて見た。
何も考えられない。
何も分からない。
頭が虚しく空転するのを感じながら、ユカは木偶のようにその場に佇んでいた。




