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後編

 引っ越しは、二日後に決行した。

 荷物はレンタカーで軽トラックを借りて運ぶことにした。これもすべて節約のためだ。


『二ノ塚マンション』に着いて、僕はたちまち後悔してしまった。エレベータがあるにしても、五階まで全て運ぶのはかなりの重労働だ。

 荷物は、いかにも強敵そうな冷蔵庫と洗濯機を筆頭に、他には液晶テレビ、ミニコンポ、テレビ台と本棚兼用のラック。ふとん、テーブルなど。あとは数個の段ボール箱に詰めた着替えや食器その他。

 これでも出来るだけ減らしたつもりだった。果たして一人で、今日中に終わるのだろうか。


 部屋に入るとまだ甘いにおいが充満していた。ただ、前とちがってむせかえるような強烈さはない。いくぶんおとなしく、あまり気にならない。


 重すぎる冷蔵庫をなんとか運び込んだ時点でくじけそうになった。しかし、誰が助けてくれるわけでもない。一人で半泣きになりながら作業を続けた。


 腰は砕け、膝は笑い、握力など皆無――

 なんとか全ての荷物を運び込んだ時には、すっかり夕方になっていた。

 段ボール箱などの細々したものは、明日でいいや、と六畳間に積み上げた。


 とにかく疲れたし、汗もたくさんかいてしまった。すぐにでもシャワーを浴びたかったが、思案の末、その前にコンビニ行って、夕飯を買った方が得策と判断した。

 コンビニまでは片道五分くらいかかる。この暑さでは、シャワー浴びてもその後コンビニに行けばまた汗だくだ。

 僕は疲れた自分自身の体にあとひと踏ん張りだ、と励ましの声をかけ、部屋から出た。


 丘の斜面にあるマンションは、結構坂道の昇り降りが億劫だった。長く住むなら自転車とか原付欲しいな。

 コンビニの袋をぶら下げ、そんなことを考えながら僕はマンションに戻った。

 ダイニングの真ん中にぽつんと置いた小さいテーブルに袋を置く。中には買ってきたお菓子やジュース、ビール、おにぎりなどが詰まっている。

 残念ながら、冷蔵庫はまだ使えない。引っ越しなどで傾けたりしたら、三時間くらいは電源を入れてはいけない。仕方ないので、冷房を強めにかけてから風呂場へ向かった。


     *


 ユニットではなく、風呂トイレ別と言うのは嬉しい。脱衣所を兼ねた洗面所も広く、ちょっとだけ贅沢な気持ちになれる。


 鏡に映った自分自身を眺めた。

 後ろが、気になる。

 初めての部屋というのは、慣れるまで緊張や不安がつきまとったりして、あれこれ余計なことを考えてしまうのだろう。未だに再就職先が決まっていないことも、孤独や焦りや心細さを強く感じさせるのだろう。


 つい、どこかで見たり聞いたりしたホラー映画や怪談、都市伝説などが頭をよぎる。

 ふとした時に何か気配のようなものを感じるのは、そのせいだ。きっと。


 目の前の、浴室の扉を開けるとそこには何かがいる、なんてあるわけがないのに。

 ……。

 僕はちょっとだけ気合いを入れて、勢いよく浴室の扉を開けた。


 ぴしゃっ

 水の垂れる音が聞こえた。

 見ると、シャワーのハス口から水滴が垂れている。

「なんだ、水か」ほっと胸をなでおろした。


 ハス口から垂れた水は床を濡らし、排水口に向かって細くゆっくりと流れていく。

 その排水口が、汚れていた。髪の毛が絡まっている。

 ただ、それほど多くはない。これは清掃の手抜かりにちがいない。

 そう言えば、下見したとき、風呂場のチェックを忘れていた。あのとき気づいていれば、佐藤社長にお願いしてきれいにしてもらえたのに。


 シャワーで汗を洗い流し、すっきりした気分になって体を拭いていると、物音がした。


 浴室でもない、自分が今いる洗面所でもない。

 風呂場の外、つまりダイニングの方からだった。


 がさがさっと、何かが擦れるような音。それに、重い物がフローリングの床を転がるような音も時折混ざっている。


 何かが、いや、そんな表現ではいけない。誰かがいる。誰かがここに侵入して、何かをしている。


 どこから入ってきたか、それはもちろん、ドアしかない。

 コンビニからの帰り、鍵をちゃんとかけたか、ひどく記憶が曖昧だった。疲れてへとへとだったので、うっかりかけ忘れていたかもしれない。


 とにかくこのままではいけない。着替えはまだ段ボール箱の中だったことを思い出し、内心舌打ちしたが、この際仕方ない。腰にタオルを巻いて、風呂場から出た。


「誰だ! 何をしている!」

 出来る限り大声で叫んだ。

 しかし、誰もいなかった。洗面所で躊躇している間に、逃げられてしまったのかもしれない。

 玄関に行ってみると、鍵はしっかりとかかっていた。

 どういうことだろう?


 ダイニングに戻ると、ちょっとした異変に気付いた。

 テーブルの上に置いたはずのコンビニの袋が、床に落ちていた。袋は空っぽで、中に入っていたはずの食べ物、飲み物が周囲に転がっている。ただ転がっているだけで、封も破られていないし、概ね無事のようだった。


 ただ一つだけ、大好物のチョコレート菓子「きのこの野山」の箱がつぶれていた。拾い上げてみるとその箱には数本の髪の毛が絡みついていた。


 何か変だ。

 変なことは分かるけど、これ以上考えてはいけないような気もする。


 とにかく掃除機をかけ、気味が悪いので「きのこの野山」は捨てることにした。

 今日はさっさと食べて、寝てしまおう。畳の部屋は段ボール積んであるし、今夜はダイニングの床にふとんを敷くことにした。


 夜中――。

 ふとんに潜り込んで、余計なことは考えず目を閉じ、ひたすら眠ろうと努めた。


 どん、と何かが落っこちるような音が聞こえた。

 たぶん、気のせいだ。今日は疲れたから――えっと、空耳? 耳鳴り? なんでもいいけど、とにかく気のせいに決まっている。気にするな。寝てしまえばいい。


 どん、と今度は壁に何かがぶつかるような音がした。

 そうだ、畳の部屋に積んだダンボール箱、ちょっとバランスが悪かったよな。今頃倒れちゃった、ということだ。気にするな寝てしまおう。


 どん、ともう一度、何かが壁にぶつかるような音がした。

 そうか、壁か。あれは段ボールじゃない。隣だ。隣の住人が、こんな夜中に転んだか、壁を殴ったりしているんだ。気にすることはない。寝て――


 パシッ

 な、なんだよパシって!

 もうわけがわからない。でもあれは断じてらっぷ――もとい、あれは、きっと、えっと……。


 ごろごろ。

 何かが、転がる音がした。

 聞き覚えがあった。風呂場で聞こえたのと、同じ音だった。

 幻聴ではない。かなり近い。このダイニングの床を何かが転がっている。


 お願いだから、もう勘弁してください。僕は泣く寸前だった。

 音は近づき、遠のいていくことを繰り返している。たまに、どん、と壁にぶつかっている。時折「ぐひゅ」と変な音を発しながら、また転がる。

 この場から今すぐ走って逃げだしたい衝動を、必死に抑え込んだ。


 しばらくすると、音が絶えた。

 終わったのか? 消えたのか? 去ったのか?

 全神経を耳に集中させて、周囲の様子を窺った。やはり何も聞こえない。


 僕はゆっくりと、閉じていた両目を開いてみた。

 それは、いた。

 黒い塊、黒い球状の何か。黒いモノ、としか言いようのない物体が、僕の視界前方一メートルほどの距離にあった。


「ひっ」

 思わず微かな悲鳴がこぼれてしまった。

 その声に反応するかのように、黒いモノが再び動き始めた。

 必死に両手で口を押さえ、なんでもいいから祈った。


 黒いモノは転がる。しかし、さっきとは様子がちがう。明らかに、少しずつこちらに近づいている。

 咄嗟に目を閉じ、僕は寝た振りをした。何も見てない。何も聞いてない。何も知らない。


 気配でわかった。やがてそれは、僕の枕もとに辿り着いて、静止した。


 耳元で声がする。

「あなた……ちがう。あなた……だ、れ」

 寝たふりを続ける。

「お……き、て。ねえ」

 これは夢だと思いこむことにする。でも全身の震えが止まらない。


「ね、ねえ………おか、シ、ち、ちぃヨ……」

 もうだめだ、限界だ。

 僕は、気を失った。


     *


「あの人、何日持つと思ってるの?」

「あの人? ああ、安森さんのことか」

 佐藤不動産社長、佐藤康則は、言われるまでその人物のことをすっかり忘れていた。


「気になるんだったら、様子でも見に行けば? たまきちゃん」

「お断りよ、この件に一切関知する気はないわ」

 佐藤からたまき、と呼ばれた女は、客のいない不動産の接客用カウンターで、冷たい麦茶をすすっていた。


「えーっと確か、賃貸契約してから今日で四日、てところか。入居がいつか分からないけど、それなりに持ってる方じゃないか? 何せ、最長記録は十日なんだし。そろそろ苦情なり悲鳴なり、怒鳴り込んでくるなりあってもおかしくないね」

 がははは、と佐藤社長は弾力豊かな腹を大きく振動させた。


「忠告だけはしておくわ。あの人、かなり小心者よ。何があっても知らないからね」

「それは困るなあ――ねえ、たまきちゃん」

 佐藤は両手を合わせてお願いのポーズを取った。

「お断りします」

「はいはい、じゃあ、あとで澤田さんにでも見に行かせよう」

「わかったわよ、行けばいいんでしょ! 報酬、弾んでよね」

「またまた、たまきちゃんだって、情報収集したいくせに」


 ふん、と顔をそむけ、たまきは立ち上がった。佐藤社長に向かって右手を突き出す。車のキーを寄越せ、といういつもの仕草だ。

「あれ、もう行くのか? 随分気が早いな」


「言ったでしょ、小心者だって。最悪気を失うわ、あの人。夜中に気を失って、そのまま目覚めず、この猛暑の中、エアコンもつけず窓も開けずに、あの日当たりの良い角部屋で伸びたまんまになってたら、どうなると思う?」

「う」さすがに佐藤も少し動揺し、いそいそと車のキーと、マンションの合鍵を取り出し、たまきに渡した。


「行く前に教えて欲しいことがあるわ」

「うん? なんだい?」


「あの人――安森だっけ。どうしてあの部屋を薦めたの? 安森の何が気に入らなくて、怖い目にあわせようと思ったわけ?」

「うーん、それはねえ、何と言えばいいかな……」

「それに安森は、三原さん、だっけ……随分とお世話になっている人の紹介なんでしょ。こんなことして大丈夫なの?」


「だからさ、その三原さんからの依頼なんだよ。安森の小僧を懲らしめてくれってね」

「へ……」

 たまきは口をぽかんと開けたまま、一瞬だけ固まってしまった。


「……安森って何かやらかしたの? 恨みを買うようなこと。あんなに若いのに」

「いや、何もしてないよ。どうやら、彼の父親がちょっと、三原さんとただならぬ因縁があったみたいでね。虎視眈眈と復讐の機会をうかがっていたそうなんだが、つい先ごろ、安森父は亡くなってしまったらしい。で、やり場のない怒りの矛先が、安森息子である彼に向けられた、と。まあ、とばっちりもいいとこ――」

「最低ね、悪趣味ったらないわ。そんなことに手を貸すここの社長はもっと最低ね!」

「だから、あの部屋にしたんだよ。あそこは今まで一度も住人への直接的な危害はない――って、ちょっと、たまきちゃーん」

 佐藤の弁解に一顧だにせず、たまきは出て行ってしまった。


 佐藤は頭をぽりぽりと掻きながら呟いた。

「ああいうところは、ホント母親そっくりだな……」


 およそ三十分後、たまきから電話連絡が入った。

 安森は無事だった。ただ、夜逃げの準備の真っ最中だったとのこと。

 指示を仰ぐたまきに、佐藤は苦笑しながら言った。

「逃げる必要はないよ。今度はちゃんとしたところを紹介してあげるから、ここに連れておいで」



 双塚市にある『二ノ塚マンションA棟五〇一号室』は、女性が住んでも何も問題ないが、男性が住むと必ず奇怪な現象が起きる。二〇一二年現在、その謎はまだ解明されていない。


お読みいただきありがとうございました。初めての(広義の)ホラー、のつもりだったんですが、なかなかどうも難しくて、よくわからないものになってしまいました。

なお、このお話は、現在連載準備中の中長編『芍薬の部屋』という作品の前半部分のエッセンスを一部抜き出して、つぎはぎして全く別の短編として再構成したものです。

原型である『芍薬の部屋』は、8月下旬頃より連載開始予定です。

同じマンションの部屋を巡るお話となっており、若干立ち位置は異なるものの、佐藤不動産関係者は全員登場します。

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