第八話
さて、次の日、僕と原田は学校からさっさと帰宅すると、午後五時ごろに駅で待ち合わせ、問題のゴルゴンに向かった。それにしても、吸血鬼といい、ゴルゴンといい、その鎌上浩司という男が出没する店の名前には、一定の傾向が有るようだ。
享に、道順を詳細に教えて貰っていたので、目指すゴルゴンは、比較的楽に見つかった。それでも、変に入り組んだ小路の奥にあったので、たどり着いたときには、六時をはるかに越えていた。
一応、僕も原田も、享ほどではないにしろ、スナックなどで酒を飲んだ経験はある。はっきり言って、至道館の連中は、みんな先生に見つからないように要領良くはやるものの、結構そういう遊びはやっているのだ。そうして、真面目に勉強さえやり、目立つようなことさえしなければ、至道館の先生達も、そういうことは大目に見るのだ。ただし、享みたいに、はっきりと外目に触れるのは御法度というわけだ。
それにしても、そのゴルゴンというのは、一目であんまりまともなスナックじゃないな、ということが見て取れるような店だった。
その入り口には、恐ろしくけばけばしいネオンサインが有るのに、その雰囲気には、妙に人を拒むような嫌な気配が有るのだ。
中に入れば、チンピラや、近頃は珍しくなった暴走族が幅をきかしているのが直ぐに想像できる。なんか、そんな雰囲気の店だった。僕らみたいなお坊っちゃん学校の生徒は、たとえ酒を飲むときにでも無意識のうちに避けて通りそうな、そんな感じがしていた。
入り口の前には、髪をピンクと黄色に染めた女の子が二人、気だるげにヤンキー座りをしながら、煙草をふかしていた。二人とも、アンパンでラリッているもの特有の、何となく焦点の合わない表情をしている。
それでも、何とか意を決して二人で店の中に入って行った。
まだ宵の口だというのに、店の中には、かなりの数の若者達がたむろしていた。男達は、みんな一種独特の、獣のように暴力的な雰囲気を発散しているし、女達も、負けず劣らぬ退廃的な雰囲気を辺りに撒き散らしている。
僕らは、カウンターに座り、二人とも水割りを注文した。下手に格好を付けたカクテルなんぞ頼むより、この方が安全だと思ったのだ。うっかりしたものを頼むと、場馴れしていないことがすぐばれる。
もっとも、そこにいるもの達の雰囲気と比べると、僕らの雰囲気が如何にも場違いなのははっきりしていた。第一、髪の毛が普通に黒い奴なんて、一人もいやしない。この連中と比べたら、享の格好なんて、まともで大人しすぎて、話にならないくらいだ。とにかく、店全体の雰囲気が、ここはアブナイ、ヤバイ場所だぞ、ということを、こっちの五感にはっきりと伝えてくれるのだった。
そのヤバイ連中が、明かに場違いなところに迷い込んできた、二人のシャバの小僧っ子を、一種胡散臭げな好奇の眼差しで見つめていることは、ひしひしと分かった。それで、僕らはボロが出ないうちに、さっさと用件を済ますことにした。
「あの、ここには鎌上さんていう、リードギターを弾く人がときどき来るって話を聞いたんですけど、今日は、まだですか?」
僕が、どうせシャバ僧なのは分かり切ったことだから、いっそ罪のない子羊に徹して、坊っちゃんらしい様子で、カウンターのマスターらしいおじさんに聞いた。
「あん、鎌上? ああ、銀か。あんた達、銀にどんな用なの?」
銀! やった、一発で、大当たりを当てたぞ。確か、あの謎のノートで、ナメクジの取り引き相手になっていたのが、銀、という符丁を持つ男ではなかったか。
僕は、興奮で上擦りそうになる声を必死で押えながら、さらに言った。
「いえ、あの、僕達、前にマッド、っていうバンドのライブのときに、トラで出演した鎌上さんのギターを聞いて、すっかりファンになってしまったんです。で、楽屋まで押しかけて、話を聞いたりしたんですけど、そのときに、鎌上さんが耳にしていたピアスに良く似た物を拾ったもんですから、何か、鎌上さんと、切れない縁でもあるのかなあ、と思って、マッドの連中にここのことを教えて貰ってきたんです。これなんですけど、これ、鎌上さんの物じゃ有りませんか」
こう、前から用意していたセリフを言いながら、僕は問題のピアスを出した。マスターは、それを手に取って、ためつすがめつしながら言った。
「さってなあ、あいつは、確かに銀、なんていうあだ名が付くくらい、銀製のアクセサリーに凝ってるからなあ、確かに銀が付けそうな感じのピアスだけどなあ。おい、誰か、このピアス、見覚えないかい」
マスターが店の中に呼び掛けると、僕達の話に聞き耳を立てていた男達が近寄ってきた。
「ああ、これ、確かに銀のだと思うよ。これ、つけてんの見たこと有るし、最近、どっかで落したっつうてたから、多分銀のだよ」
真っ赤な頭をモヒカン刈にして、鉄の鋲を打ったベルトを、腰や手首や足首など、巻けるところにはどこにでも巻いている男が言った。
「なんだ、銀のファンだなんて言うんなら、少しは楽器ぐらい出来るんだろう。何か、やって聞かせろや。ここには、大抵の楽器揃ってっからよ」
口に、煙草に似ているが、明かに煙草とは違う紙巻きをくわえた男が言った。ガリガリに痩せて、ひょろっと背が高いのに革のジャンパーだけを素肌に羽織っている。しかし、目には、何となく凶暴な光が煌めいている。
僕は、ゴクリと唾を呑み込んだ。胃の辺りが、きゅっと収縮するのが分かる。腋の下には、冷汗が溜る。これは、どうもヤバイ雰囲気だ。膝が、ガクガク笑いそうになりながら、それでも僕はなんとか口を開いた。
「ええ、僕、ピアノなら、なんとか触れますけど、ロックに凝り出したのは最近なんで、あんまりうまく弾けないんです」
「僕の方は、ただ聞くだけの素人です」
原田が、情け無さそうな声で言った。
「ふん、まあ、弾けるだけ弾いてみろや。ゴルゴンに入ってきて、何の挨拶も無しで帰るって法はねえからなあ」
「おいおい、あんまり、普通のお客さんを脅かすんじゃねえよ。ここは、どんなお客でも入れる、普通のスナックなんだからよ」
マスターが、執り成すように言ったが、僕らの周りを取り巻く連中の薄ら笑いで無視されてしまった。この雰囲気は危険だった。自分達の縄張に入ってきて、妙なことをかぎ回る異分子に対する、排除の意識が確実に有る。おまけに、そいつらは自分達の仲間の消息をうんむんする胡散臭い奴らだ。余所者は叩き出せ、という感じを持った暴力的な匂いがきな臭く匂ってきた。
僕は、決心して立ち上がった。正直、僕のピアノは、中学の二年まで、普通のピアノ教室に通っていたのでクラシックの影響が強い。自覚的にジャズを聞き始めたのは、中学の一年からなので、フィーリングはジャズでも、テクニックはクラシックなんだ。まして、ロックとなると、また別の世界だから、ちょっと危ない気もしたが、何もやらないよりはいいだろうと思ったのだ。
ピアノの前に座り、ちょっと深呼吸して、指を軽く揉んでからゆったりとしたブルースを弾き始めた。ストレンジ・フルーツ。リンチにあった黒人が、丘の木の下にぶら下がっていて、奇妙な果物のように見える情景を歌った啜り泣くようなブルースだ。
弾き始めたら、極度の興奮状態にあったためか、僕の心の中で何かが燃え上がり始めた。そして、自分の魂の底から湧き出てくる感情が、自分を正確に表出しない、お行儀のいいクラシック風のテクニックに苛立ち、身悶えするのが分かった。僕は、自分に本当にジャズが弾けるなんて、思っても見なかった。これは新しい発見だった。自分が今置かれている立場も忘れて、酔ったように弾き続け、弾き終った。
三分ちょっと。終って、ピアノの椅子から降りてみると、周りの連中がしんとしていた。僕は、一瞬自分が失敗したのか、と思った。
次の瞬間、笑い声が爆発した。そして、さっき危険な匂いをぷんぷんさせていたのっぽの男が、僕の肩を抱いて言った。
「いやあ、坊や、えらくソウルフルなブルースを弾くじゃねえか。ロックって言っても、原点はブルースだからなあ。いやあ、気にいったぜ。まあ、一杯飲めや」
言いながらグラスを差し出すので、飲んでみたら、ジンか何かのストレートらしかった。えらくきつい。飲んだ瞬間、頭をガーンと殴られたような、強烈な刺激が有った。
「オッホー、なかなかいい飲みっぷりじゃねえか。どうだい、グラスでもやるかい」
別の男、紙を金髪に染めた、随分と体格のいい男が、ろれつの回らない口調で言った。もう、大分酔っているらしい。それにしても、何だって、グラス? 大麻のことか。僕は、慌てて首を振った。
「ハッハー、グラス程度でびびってちゃ、銀の相手は勤まらねえぜ。何せ、あいつときた日にゃあ、コカイン、ヘロイン、シャブ、と、それこそなんでもござれの凄腕のバイヤーだからなあ」
その酔っ払いが、大きな声で笑いながら言うと、さすがに「シッ」とたしなめる声が響いた。他の連中は、ちょっとマジな顔になっている。ほー、とすると、銀という男は、麻薬の売買に関係しているらしい。こいつは、ちょっと面白くなってきた。
しかし、周りの変に親密な雰囲気は、今の男の一言でふっとんじまった。みんな、また猜疑心に満ちた、警戒の眼差しをしている。
僕らは、この辺で切り上げることにした。これ以上ここに居ると、いつボロが出るか分からない。うっかりすると、半殺しぐらいじゃあ済みそうもない。まだ、この年でボコボコになって、簀巻きにされて東京湾にゴミと一緒に浮いている、なんていう目には会いたくはない。
「あのー、僕、これから、自分のバンドの練習が有るんで帰ります」
「あ、そう。じゃあ、そのピアス、俺が預っといてやろうか」
何か、きなくさいものを感じていたらしいマスターが、厄介事の元が帰ると言い出したので、明かにほっとしながら言った。
「いえ、出来れば、直接手渡して、鎌上さんと話をする口実にしたいので、今日は持って帰ります。じゃあ、また来ます」
僕と原田は、カウンターのマスターに千円札を何枚か渡し、お釣りを受け取ると、出来るだけ何気ない様子で店を出た。
店を出ると、ホッとして、体中から力が抜けるような安堵感を覚えた。
ところが、僕達が店から百メートルも行かないうちだ、向こうからそりの入ったパンチパーマを赤く染め、体中に銀のアクセサリーを付けた男がやってきた。
銀だ!
僕らは、直感的にそう思った。体は痩せ気味だが、銀のピアスに銀のネックレス、銀のブレスレットに腰にまで銀のチェーンを巻いている。そして、ブルージーンの上着の胸には、所狭しと銀のバッジを幾つも付けているのだ。その目には、人殺しでも何でも、平然とやってしまいそうな、酷薄な光が有る。口元にも、自分の獲物を徹底的に責め苛んで、それを面白がりそうな残忍な薄笑いが浮かんでいる。全身からは、何か肉食獣じみた、動物的な生気と殺気が発散している。一言で言って、危ない雰囲気をむんむんさせているのだ。
僕も原田も、銀の視線を避けて、ショーウィンドウを眺めているような振りをして横を向いた。そして、銀をやり過ごしてから、二人で脱兎のように駆け出した。
銀が店に入れば、僕達がピアスを持っていたことの意味ぐらい連中にも分かるだろう。きっと追ってくるはずだ。それまでに、出来るだけ距離を稼いでおきたい。
厄介なことに、しばらく見通しのいい一本道が続く。かなり距離を稼いだな、と思って振り向いてみたときだ、ゴルゴンから、何人かの男達が出てくる様子が遠目にも分かった。何せ連中の格好は、どんな遠くから見たって、身間違いようがない。
連中も、豆粒のような僕らの姿を認めたのかも知れない。こっちの方向に追ってくる。もっとも、駅がこっちの方なんだから、僕らの姿が見えてなくてもこっちに来ただろう。
タクシーでも来たら、それに乗ろうと思ったが、こんなときに限って空車は一台もこない。
駅に行く気なら、左折しなければならない所に来た。考える時間が欲しいところだ。駅に行って、ちょうどいい電車が来なければ袋小路に追い詰められることになる。まさか、大勢の見ている前で、いきなり暴力ということはないと思うけれど、ゴルゴンまで連れ戻されれば一巻の終りだ。だから、迷っている暇は無い。
ええい、ままよ、どの道、駅に行かずにこのまま追っ掛けっこを続ければ、土地勘のない僕らは圧倒的に不利になることは目に見えている。電車がやってくることに賭けるしかないだろう。
僕らは、意を決して駅への道を左折した。そして、しばらく走ったときだ、いきなり後ろから怒鳴り声が聞こえてきた。
「居たぞ! あいつらだ、とっつかまえろ」
後ろを見ると、変な風に斜めに切れ込んだ小路から、ゴルゴンに居た連中が、三人ほど出てくるのが見えた。
しまった、近道だ!やっぱり、ここで土地勘の有る無いの差が出てしまった。僕達は、真正直に駅から直進し、右折する道を行ったんだけれど、多分裏道で斜めに突っ切れる道が有るのだ。敵は、僕らが多分駅に行くことを見越して、何人かが先回りしたに違いない。
僕の腋の下を、冷汗が伝わった。いつもは、何でも茶化す原田も、さすがに顔色が青い。
僕らは、正直言って、何も腕に覚えが無いわけじゃない。前にも書いたように、一対一ならけっこう喧嘩になる自信はあるしかし、今日は事情が違う。相手は、三人以上居るようだし、ぐずぐずしていると、他の連中も追い付いて来るだろう。そうしたら、僕ら程度のお坊っちゃん拳法じゃあ、どうしようもない。まして、ヒカリ物なんぞ出された日には、完全にお手上げだ。
こめかみにも、背筋にも、冷たい汗が流れた。まだ距離は有るはずなのに、やつらの足音が、ヒタヒタと詰め寄ってくるのが聞こえるような気がする。やつらの吐く息が、ハッハッと首筋に当たるのを感じるような錯覚が有る。
こいつはヤバイな。本気でそう思った。冷たい東京湾に、自分の死体がプカプカと浮いているところがありありと想像できて、気が滅入った。
とうとう、駅前広場に着いたが、ホームに止まっている電車が目に入った途端、その扉がスルスルと閉まった。そして、発車ベルが鳴り響き、ホームに止まっていた電車は動き出した。
すると、反対車線の電車が、目に入った。こっちも、僕らの目の前で扉が無情に閉じていった。
万事休すだ。これでは、次の電車が駅に入ってくるのを待っている間に、すぐ後ろの連中に簡単に追い付かれてしまうだろう。
僕達は、焦って逃げ場を求めてキョロキョロした。
と、そのとき、クラクションの音が鳴り響いた。
その方を見ると、何と、ルシファーの真也さんが、自慢の真っ赤なスカイラインに乗って直ぐ側に止まっている。助手席を見ると、享も一緒だ。
僕らは、ものも言わずに後部座席に乗り込んだ。
スカイラインが発車するのと、僕らのすぐ後ろを走っていた連中が追い付くのがほぼ同時だった。間一髪、セーフ。
ゴルゴンの連中が、何やら口惜しそうにわめいていたが、車の中には聞こえてこなかった。ざまあみろ。
真也さんが、運転しながら、いつもののんびりした口調で言った。
「享んところに見舞いに行ったら、様子が変なんでな、問い詰めたら、お前達がゴルゴンに潜入してるって言うじゃねえか。ゴルゴンっていったら、バンド関係の連中でも、ヤクやなんかで、完全に切れちまってる危ない連中の溜り場だって噂だからなあ、ちょっと心配で、近くまで来てみたんだ。そしたら、案の定だったな」
まさに、地獄に仏とはこのことだ。僕と原田は、ふーっと、深い深い安堵の溜息をついたのだった。