8.祈り
神殿内には空き部屋が多い。
そういう理由から、見習いにもかかわらず、今までリタたち3人の部屋は別々だった。
だが、皆で話しあった結果、シャルは時々部屋を変えた方がいいのではないかということになった。
なにしろ、神殿内はあちこち痛んでいて、どこからでも入り放題だ。
隠れる場所もたくさんある。
部屋を特定されれば、深夜にこっそりと忍び込んで襲うことも可能なのだ。
シャルは、もし自分が寝ている時に誰かが襲ってきたら返り討ちにするなどといっていたのだが、テオドールに止められた。
「今までみたいにこっそり襲撃されるんなら、姫さんだけでも大丈夫だけどさ。多人数でこられると、ちょっと無理かと。あっち側の出方もわからないし、まさか俺が姫さんの部屋で寝ずの番をするわけにもいかないだろ?」
確かに、シャルを守るのならば、一時的にでも同じ部屋にいればいい。が、それだけは絶対に嫌だと、シャル自身が反対している。
「今回のことは良い機会ではありませんか。相手が焦っているのなら、何か神殿側に不利な証拠を掴むことが出来るかもしれませんし。わたくしが囮にでもなって襲撃者を捕まえられればと思うのですけれど」
「だめだよ、シャル。いくらなんでも危ないよ」
やりかねない勢いのシャルに、慌ててリタが口をはさむ。
剣は扱えるからとシャルは言うが、やはり1人は危険だ。
テオドールの話では、この辺りで見え隠れする侵入者は間違いなく複数だと言う。しかも痕跡をほとんど残さないことから、今までのように後腐れのないごろつきではなく、訓練された人間が雇われている可能性が高いらしい。
下手に相手を刺激して、神殿の他の人間に危害が及ぶようなことも避けたいのだ。
「とにかく、姫さんはあんまり人気のないところには行くなよ。それから、襲われでもしたら大声出してくれ。絶対1人で暴れるな」
「暴れるとは失礼ですわよ、テオ」
暴れるシャルというのがあまりにも簡単に想像できて、こんな状況だというのに、思わずリタもシモーネも笑ってしまった。
緊張感がなさ過ぎる。
もしかすると、この二人は、いつもこうやって危機を乗り越えてきたのかもしれない。
「リタたちは、村で怪しい人影を見たとか、野営の跡があったとか、そういう噂を聞いたら、すぐに教えてくれ」
「わかりました」
「だが、もし妙なヤツを見つけても、追いかけようとか捕まえようとかは絶対するな。相手が玄人だったら、最悪殺されるかもしれないから」
もちろん、そのくらいちゃんとわかっている。
リタたちは、剣など扱えない。
出来ることは限られているのだ。それならば、出来ることをやるだけである。
「あ、そうだ。後でシャルに抜け道とか教えてあげる。神殿はややこしい造りだから、隠し通路とかも知っておくと逃げる時に便利だよ。」
「それは助かりますわ。シモーネ」
「まかせておいて」
シモーネが胸を叩いて笑ったところで、今日は一旦解散ということになった。
リタたちは、一応神官見習いだ。
しなければいけない仕事は多い。
いろいろなことがあって時間を取られてしまったから、本日の予定はぐだぐだだ。
あまり五月蠅いことは言わない神官長も、さすがにこれでは怒るだろう。
慌てて神殿へと戻っていく3人に、テオドールの顔が綻ぶ。
ああしていると、本当に普通の少女たちだ。
シャルも、しがらみなどなければ、貴族の娘ではあっても、幸せになっただろう。同じ年の友達と今のように笑い合っていただろう。
あるいは、あのまま王太子の傍にいれば。
『義姉上と兄上には、幸せになって欲しい。例えどんな形でも』
そう言っていた依頼主の言葉を思い出す。
政治的意味合いの強い婚約だったが、二人はいつも幸せそうだった。
こちらが見ていても、心温まるような関係だったのだ。
それを取り戻してやりたい。
最初は乗り気でなかったはずの依頼なのに、そんなことを考えている自分が、何故かおかしかった。
いざというときのためにと、シモーネたちから聞いた建物の構造を再確認しているうちに、テオドールはいつのまにか神殿の奥に入り込んでいた。
他の場所が傷んでいるのにくらべ、この辺りは床も壁も美しく磨かれている。
神殿にとって、ここは一番神聖な場所―――祈りの間なのだ。
そういえば、以前入り口近くまでは来たことがあるが、扉が閉ざされていたため入ることは出来なかった。
今、その扉は開け放たれ、中がよく見える。
誰かがいるのだろうか。
そっと覗き込むと、そこには、祈りを捧げるリタがいた。
彼女の近くにはきちんとまとめられた掃除の道具があるから、もしかすると先ほどまでは掃除でもしていたのかもしれない。
リタは床に膝をつき、中央に置かれた像に向かって手を会わせている。だが、わずかに俯いている彼女の唇からは、言葉は聞こえない。
ただ静かに、空間の一部になったかのように、祈り続けている。
その姿は、美しかった。
まるで、昔見た宗教画のようだと思う。
静かな静かな空間で、ただひたすら神に祈る。言葉もなく、聞こえてくるのは彼女と自分の息づかいだけだ。
声はかけられなかった。
話しかけてはいけないような気がした。
それほどまでに、リタが祈る姿には侵しがたい雰囲気がある。
やはり彼女は神官見習いなのだ。
ああ、できればこのままずっと祈る彼女を見ていたい。
そう思ったテオドールだったが、リタの方は彼の気配に気がついたらしい。
「テオドールさん……?」
振り返って、扉近くでぼんやりと立っている彼の方を訝しげに見ている。
「どうかしたんですか?」
「あ、ああ。祈りの邪魔をしては悪いと、待っていたんだが……」
まさか見惚れていたとは言えなかった。
彼は誤魔化すように視線を逸らし、正面中央にある神の像を見上げる。
「これが大地神か。初めて見たな」
「はい。優しいお顔でしょう?」
穏やかに微笑む顔は慈悲深く愛情に満ちている。ふっくらと厚い唇はわずかに開き、何かを語りかけているようでもあった。
太陽神のように猛々しい姿でもなく、月の女神のようにただ美しいだけではない。
懐かしい何かを思い出させるような優しさがその像にはあった。
「随分と古い時代に作られたものなのだそうです」
言われてよく見れば、石で作られた像は、かなり古びていた。細かいヒビもある。
にもかかわらず、磨かれた表面には曇りひとつない。
この神殿にいた神官たちに大切にされてきたのだろう。
たくさんの真摯な祈りも捧げられたに違いない。
もしここで祈れば、テオドールの罪も許されるのだろうか。
ふいにそんなことを思う。
少しでも―――ほんの少しでもいいのだ。
「なあ。俺も祈りをささげてもいいか」
「もちろんです」
「あ、でも俺、大地神への祈りの言葉、知らないな」
太陽神の神殿には、儀式などの警護で行くこともあったから、ある程度は知っている。だが、忘れられつつある大地神への祈りの言葉はわからない。それほど変わらないだろうと思う反面、太陽神殿で捧げられるような長ったらしく美辞麗句だらけの祈りの言葉は、ここには相応しくないような気がした。
「神官長様が言っていました。昔は、今みたいな仰々しい祈りの言葉なんてなかったんだそうですよ」
ただ、無心に神に向かって祈る。
そこには純粋な願いと、神への信仰だけしかなかった。
「本当に気持ちがこもっていれば、言葉なんか必要ないんだって。中央の人が聞いたら怒りそうですけれど」
「そうかもしれないな」
神官長が言うことはわかるような気がした。
本当の祈りは、言葉ではないのだ。
強い思いと真摯な願い。
テオドールは、神の像の前に進み出て、膝を折る。
さきほど彼女がしていたように手を合わせ、目を閉じた。
願うのは、きっと―――。