4.騎士と神官
「のう、若いの」
誰にも見られないようにと、神殿の裏手からこっそり入ろうとしていた青年は、声をかけられ仕方なく立ち止まった。
呼び止めたのは、神官服を着た老人だ。
荒れた庭にぽつんと置かれた石に腰掛け、彼に笑顔を向けている。
今の行動を見られたからといって困ることはないのだが、こそこそしていたのは事実なので、どこか気まずい。
「あなたは、ええと、確かアーデルベルト殿、でしたでしょうか」
「覚えていてくれたか。騎士殿」
老人はあまり人前には出ないのか、青年が会ったのは紹介された最初の日だけである。
柔和な顔に満面の笑みを浮かべた姿は、いかにも神官らしいものだ。だが、笑顔にもかかわらず、老神官の視線は鋭い。
ただの人の良い老人というわけではなさそうだ。
「どこかへ、出かけていたのかの?」
「ええ、まあ」
「それにしては、面白いところから入ってこられるのう」
面白いところ、とはおそらく青年が入ってきた、塀が崩れた部分のことだろう。
丁度良い具合に人が1人通れる隙間が出来ていて、ここからすぐに森へ出ることができる。
最近の青年は、もっぱらここを利用している。
元々彼は護衛兼監視としてここに滞在しているのだ。そのためか、彼がどこで何をしていようと、どこから出入りしようと、神殿の人間は咎めない。一度、神殿内をうろうろしていたとき、出会った神官長から剣を持ったまま祈りの間には入らないでくださいねとやんわり諫められたくらいだ。
中央にある神殿とは大違いである。
あそこでは、どこに入るのも何をするにも決まりだらけで、面倒で仕方がなかった。
その点、ここはのんびりとしていて、時間の流れも緩やかだ。
「森の中には、魔獣も多い。騎士殿ならば心配はなさそうだが、気をつけなされ。最近では、妙なやつらもうろついておるみたいだからのう」
ほっほっほ、と笑い声を上げ、老神官は目を細めた。
一瞬、森の中でのことを見られたのかと思ったが、あの時自分たち以外の気配はなかった。鎌をかけられているのか、何かを知っているのがわからないが、内心の動揺を悟られないように曖昧な笑みを浮かべる。
「確かに魔獣が多いですね。人が住む場所まで下りてくるのは、飢えているのでしょうか?」
あえて妙な奴らという言葉には反応せず、魔獣のことを強調する。
老神官も、それ以上、そのことについては追求してこない。
「そうかもしれぬのう。ここ何年かは天候不良のせいで、森の実りも少ない。私達同様生きていかねばならぬとはいえ、難儀なことじゃ」
魔獣は魔物と違い、知能は低い。人を襲い食べるものもいるが、その殆どは大人しく単純な性格をしている。こちらが何も仕掛けなければ、向こうからは襲ってこないのだが、気が立っているときは別である。ちょっとしたことで暴れ、被害が出ることも少なくはない。
「今のところ、大きな被害は出ていないが、神官長殿も、腕の立つ剣士が1人いればよいのにと言っておったか。とはいっても、うちは貧乏だからのう。安い給料で勤めてくれるようなものはなかなかいないとのことじゃ」
確かに、毎日出る食事は質素だし、建物も崩れかけたところがあるにもかかわらず、修繕もされていない。
新たに若い二人が加わったことで、食事の量も増えているのだろうし、台所事情は以前よりもさらに厳しいはずだ。初日に滞在費の名目で寄付金を神殿に納めたが、もう少し渡した方がいいのかもしれない。
「そうそう、騎士殿。時間があるならば、ちょっとあの子を手伝ってくれたら嬉しいのだがな」
「あの子?」
「神官見習いのリタじゃ。人手が足りなくてのう、あの子が1人で神殿裏の畑を世話しておるのじゃ」
そういえば、紹介された神殿の人間は5人しかいなかった。
神官長と、神官が二人。それから神官見習いの少女たち。神官たちは高齢で、確かに力仕事は出来ないだろう。
リタというのは、見習いのうち背の低い方だったか。
昨日の夕食後に出された小麦粉で作ったお菓子があまりにも好みの味だったから、おいしいを連発していたら、変な顔をされたのだ。
こぼれそうなほど大きな目が印象的で、小さな猫を連想させた彼女は、全体的に華奢で腕も細かったが、そんな少女が畑仕事をしている姿は想像できない。
「力仕事や畑の世話は、見習いの子たちがやっているのですか?」
「ああ、そうじゃ。どうしても男手がいるときは、村から誰かにきてもらうのだが、あちらの方もあまり若者がいないからのう」
「確かに、村には空き屋が多いようでしたが」
シャルロッテが買い出しに行くのに付き合ったのだが、随分と静かな村だと思った。歩いているのは老人ばかりで、若者や子供とはたまにしか会わない。あまり作物が採れないせいで、若い者は皆離れた町に出稼ぎに行っているのだという。
「私がこの神殿に来たころは、もう少しここにも神官たちがいたのだがね」
懐かしむように細められた目は、遠い過去を思い出しているのかもしれない。
ここ数年、太陽神や月の女神以外の神を信仰するものは減ってきているという。
太陽神は、昔から信仰する者が多く、王族が彼らを庇護していることもあり、組織としてそれなりの体勢を整えている。あちこちに建てられた神殿には、今でも多くの参拝者や神官を目指すものが途切れないというし、神殿があることで町も賑わう。
その反面、各地に散らばっていた太陽神以外を祀る少数派の神殿は、さびれていった。
あまり横の繋がりもなく、各々の神殿が独立していたことも理由かもしれない。
かつては対等であったはずの他の神たちの神殿も、存続のために太陽神殿と結びつき、いつのまにかその下部組織として扱われるようになっていったのだ。
「時代の流れかも知れぬが、寂しいことじゃ」
彼の言うように、このまま新たな神官見習いが現れなければ、この神殿もやがては忘れ去られてしまうのかもしれない。穏やかに流れる空間を居心地よく思いはじめていた青年にとっては、残念に思えてならなかった。
「騎士殿。気が向いたらでいい。あの子たちを助けてやってくれ」
老神官はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。
「そろそろ、私は失礼しようかの」
気が付けば、日が傾いている。
思ったよりも、青年と老神官は話し込んでいたらしい。
「そうそう、騎士殿。あまり無理などせぬ方がよいぞ。1人で何もかもやるには、ここは広すぎる」
どこまで知っているのか―――老神官はそう言い残して、建物の中へと消えていった。