16.王太子とお姫さま
それから、さらに数日たった。
手紙に書かれていたように、その後まったく襲撃はなく、穏やかな日が続いている。
シャルは、中央といろいろと連絡を取り合っているようだが、まだここから動く様子もなく、テオドールも護衛兼神殿内の雑用係として、そのまま滞在し続けている。
いつまでも、こういう日々が続けばいいなとリタやシモーネが考えはじめていた時、それは起こった。
ここしばらく、曇り空も多く気温も下がり気味だったのだが、久しぶりに天気の良い日だった。
買い出しのために少し遠い村まで出かけていたリタは、神殿に近い山道で、息も絶え絶えという感じの男が1人、倒れてるのを見つけたのだ。
褪せた金の髪は薄汚れているし、服もぼろぼろ。ズボンには葉っぱや泥までこびりついている。
あわてて近づくと、リタの気配に気がついたのか、男はわずかに身じろぎした。
「大丈夫ですか? 立てますか?」
けれども、声を掛けてみても、うーと言うだけで、それ以上の反応はない。
「大変! 人を呼んできますから、少し待っていてください!」
神殿はすぐそこだ。
テオドールならば、男を担いで神殿に運んでくれるだろう。
幸いテオドールは入り口近くで薪を割っていた。
慌てた様子で駆け込んできたリタの話を聞くと、すぐに走り出す。
そして、倒れている男を抱き起こした瞬間、驚いたように固まってしまう。
「王太子殿下!?」
「え、ええ? 王太子様?」
リタも釣られて大声を上げてしまった。
「な、な、なんで、王太子様がこんなところで倒れているんですか」
「俺が知るかよ。とにかく、すぐに神殿に運ぼう」
テオドールが、軽々と王太子を担ぎ上げる。
荷物みたいで、ちょっと気の毒だと思ったが、そんなことを言っている場合でもないのだろう。
それに、テオドールが王太子をお姫様抱っこなどすれば、夜夢に見てうなされそうだ。
「リタ。悪いが、先に言って、神官長に知らせておいてくれ。それから寝台の準備も」
「わかりました」
どうやら、まだまだ一波乱ありそうな雲行きである。
走り出したリタの頭に浮かんだのは、そんなことだった。
「フェリクス様!」
名前を呼びながら部屋に飛び込んできたのは、シャルだった。
いつもは冷静な彼女なのに、よほど焦っていたのか、服も髪も乱れている。
「大丈夫なのですか?」
念のためということでベッドの上だが、にっこりと笑った王太子は、やつれている以外は元気そうに見える。
「えーと、どうやら、お腹が空いていたみたいで」
ものすごい勢いで目の前の料理を平らげていくフェリクスの横で、リタが何故か申し訳なさそうに言う。
「お腹が空いていたって……いったいどういうことですの?」
「お金が尽きて、昨日から何も食べていないんだとさ」
テオドールも、困った顔を浮かべている。
「護衛もつけずにここまで来たみたいなんだけど」
シモーネが溜息をつきながら言った。
「よく無事でしたね。このあたり、強い魔獣が出ることがあるから危ないのですよ。1人でなんて、ムチャクチャです!」
王太子は、剣の腕もそこそこだし、体力も人並み以下だ。
誰がどう考えても、無茶な行動としか思えない。
「早く君に会いたかったんだよ」
だが、当の本人は、まったく反省の色もなく、笑顔のままだ。
「だからといって、王太子ともあろうものが、こんなところへ1人で来るなど、もっての他です! 誰かにちゃんと言ってきたのですか? まさか勝手に抜け出したなどということは……」
そこまで言って、息が切れたのか、無事な様子を見て安心したのか、シャルは深いため息とともにへなへなと床に座りこんだ。
「あなたならやりそうですけれど、それにしても、警備のものは何をしていたのでしょう。ああ、でもあなたを1人で出したなんて、誰か処分を受けるのでは……」
いろいろなことを考えすぎたのか、シャルの顔が段々青ざめてくる。
今までの冷静沈着な彼女しか知らないリタたちにしてみれば、その反応は驚くと同時に、可愛らしくも感じられた。
「あ、心配しなくて大丈夫だよ、シャル」
王太子が手を伸ばして、シャルの頭を撫でる。
「私はもう、王太子ではないんだ。全てを弟に譲ってきた。父を説得するのに時間がかかってしまって、こんなに遅くなってしまったけれど」
「は?」
大声を出したのは、テオドールだった。
それ以外の女性陣は今の言葉に、皆固まっている。
「辞めたって、そんなに簡単に辞められるものなのですか、フェリクス様」
王太子任命にも廃嫡にも、それなりの手続きと理由が必要なはずだ。辞めたいと言ったからといって、簡単に通るものではない。
それに、彼が王太子になった経緯には国王とシャルの父親の思惑が絡んでいる。
彼らが、理由もなく納得するとは思えない。
「よく陛下がお許しになりましたね」
「同じ母親から生まれたとは思えないほど、弟のフリッツは優秀だからね。私が王太子になったときは、まだ幼すぎるという理由があったけれど、あの子ももう成人した。若すぎるという理由で反対は出来ないだろう? なにしろ、私は父もあきれるくらい出来が悪いからね」
確かに、フェリクスが正式に王太子となった時にはまだ弟王子は5歳にもなっていなかった。
「では、神子との結婚はどうなったのですか? まさかフリッツ様が……?」
神殿側は、強く王族との結びつきを望んでいたはずだ。
例え、フェリクスが王太子でなくなったとしても、王族であることに代わりはない。結び付きだけを考えれば、それでも構わないと思うはずだ。
どうしても神子を将来の国母にしたいのならば、新たな王太子と婚姻関係を結ぶという方法もある。
「私も、結婚に関してはどうなるかわからなかったんだけどね。今回の事件のせいで、神殿側も分が悪いことになったんだよ。神官見習いとはいえ、正式に神殿に所属する人間を傷つけただろう? そこら辺からねじ込んで、弟がうまくやってくれた。私との結婚も、フリッツとの結婚の可能性も白紙。あの子はやっぱりすごいよ」
「神子は、それで納得をしたのでしょうか?」
神子はフェリクスを慕っていた。
彼と話をするたびに、頬を染める姿をシャルも何度か見ている。淡い恋心くらいは抱いていたのかもしれない。
それに神子は、この世界の人間とはどこか違う考え方をする少女だった。貴族や王族同士の政略結婚が当たり前の世界で、これが駄目ならこっちを結婚相手にと言われて、納得できているとは思えない。
「彼女は不思議な考えを持った子だったからね。たぶん怒ってはいると思う。もしかすると、恨まれているかもしれないなあ」
自分は、最初から政略的な結婚だと理解していた。
だから、そういう態度で神子に接していたし、神殿側に完全に取り込まれたくなかったから、深く彼女に踏み込むつもりもなかった。
結婚してしまえば、それなりの情は沸くだろうが、それが愛情に変わるかどうかは、誰にもわからないのだ。歩み寄れるかもしれないし、表面上の付き合いのみになるかもしれない。自分とシャルの関係のようにはいかなくても、国王と王妃が共に歩む姿に国民が納得すればいいだけの話だ。
「考えてみたら、神子は、私たちに比べて、ずっと可哀想な存在なのかもしれない。―――正しい情報なんて、何ひとつ与えられず、耳に心地よいことしか聞かされないのだから」
神子はせまい世界の中でしか生きることを許されない存在。
清らかで神秘的であることのみを望まれ、自由さえない。
だから、神殿側は神子に全てを教えない。この世界に望まれ慈しまれる存在なのだと教える。それは神子に対する人々の思いの一面を伝えているに過ぎないのに。
あなたは唯一の尊い存在で、世界に愛されて―――そんな嘘をつく神殿は果たして正しいのか。
だが、本当のことを教えられて、神子が耐えられるのかと言われれば、リタにもシモーネにも、答えは出せない。知らない方が幸せということは確かにあるのだ。
ただ、真実を知らず、真綿でくるまれたように大切にされたいとは思はない。嘘をつかれて、それを後から知った方が、ずっと辛くて苦しいと思うからだ。
「神子は、それほど愚かではありませんよ。いつか、自分の置かれた状況に気が付く日が来るのではないかと、わたくしは思っています」
そうあってほしい―――そして、強くしたたかになってほしいというくらいには、シャルは神子に同情はしているのだ。
「気が滅入る話は、ここまでにしよう。ここでどれだけ神殿と神子のことを考えても、もう私たちにはどうしようもないのだから」
フェリクスの言う通りだった。
今後、もう神子と関わることなどないのだろう。
ここは辺境の神殿で、殆ど表に出ない神子が訪ねてくることなどありえない。そもそも、崇めている神からして、まったく違うのだ。
「それに、私たちは自己紹介もまだだった気がするよ」
王太子の言葉に、そういえば、目が覚めたとたんこの人が言ったのは『お腹が空いた』だったことを思い出す。その後はひたすら食べ物を口に運んでいたから、自己紹介どころではなかった。
「ええと、君たちがリタとシモーネだね。弟経由でいろいろ聞いているよ。会えてとても嬉しい」
傍らでシャルたちの様子を窺っていた少女二人に、フェリクスが笑いかけ、手を差しだした。
だが、二人は、驚いたように目を丸くして、彼の指先を見つめている。
「あれ? 握手は、初対面の人と親しくなるのに必須だって教えてもらったんだけど。違った?」
同じことを前に聞いたことがある。
シャルと初めて会った時のことを思い出し、リタたちは吹き出した。教えた人間はきっと同じなのだろう。
「大丈夫です、殿下。ちゃんとあっていますよ」
リタが笑いながら答え、シモーネがまず王太子の手を握り替えした。
「あ、殿下はやめて。廃嫡された身だし。―――まあ、王族ってのは消えないけど、ここではあまり関係ないよね」
「でも」
「シャルのことは、シャルって呼んでるんだよね。だったら私のことも、リックスでいいよ。親しい人は、みんなそうだから」
「じゃあ、ええと。リックス……さん、で」
「うん。あ、シャルも、もう敬称などつけなくていいからね。ここは王宮じゃない」
「わかりました、リックス」
にっこりと微笑んだシャルが、立ち上がってフェリクスを見下ろす。
その笑顔には、喜んでいるというものとは違う何かが見て取れた。
「でも、それはそれ、これはこれ、ですわ」
「え、何? 怖い顔だよ、シャル」
「私に会いたかった、というのは純粋に嬉しいですわ。でも、無茶をする理由にはなりません」
「う。やっぱり?」
しょんぼりと肩を落として、フェリクスはうなだれた。
「いいですか、そもそも王族として―――」
始まったのは、どう聞いても説教。
そして、シャルの説教は長かった。ただただ長かった。
何故か付き合わされたリタたちは、怒られているのが自分ではなくて本当によかったと心底思った。
こんな説教に耐えられるフェリクスは、ある意味大物かもしれない。少なくとも、リタたちには無理だ。
シャルの説教は恐ろしい―――しばらくの間、リタとシモーネとテオドールの間で、決して彼女だけは怒らせるなという言葉が、囁かれていたという。