1.貴族のお姫さま
貴族のお姫様が療養にやってくるから、準備をするように。
そんなことを神官長から言われて、辺境にある神殿は大騒ぎになった。
「ありえなくない? だって、ここ、どう考えても『貴族のお姫様』が住める環境じゃないよ。療養どころか、余計に体を悪くしそう」
神官見習いという名前だが、実質は殆ど下働きであるリタは、同じく見習いのシモーネに向かって言う。
なにしろ、ここは国の中でも一番寒い地域にある神殿である。夏は少しは涼しいが、これから冬に向かうという時期で、まともな人間なら療養になど来るはずがない。
一応温泉もあるのだが、それだって村人と共通、しかも男女区別のないというシロモノだ。やんごとない身分の人が入るにはちょっと―――いや、かなり問題があった。
神殿の建物にしても、外観は立派だが、中身はぼろぼろ。
神官長が、時々修理費を中央に申請しているようだが、全て却下されている状態で、あちこち雨漏りはしているは、すきま風は入るはで、暮らしにくいことこの上ない。
近くにある村も、最近は人が減ってきているから、治められる寄付金も減っているし、中央からの援助金もわずかばかり。
とても修理など出来る状況ではない。
貴族のお姫様というからには、それなりの暮らしをしているはずだ。こんなぼろぼろの場所に、そんな人間が療養目的で来るだろうか。
やはりありえない気がする。
「聞いた話だと、訳ありってことらしいよ」
昔は美しかっただろうが、今は曇ってしまって見る影もない床を、ごしごしと擦りながらシモーネは意味ありげに笑った。
彼女は、神官長であるブルクハルトの仕事を手伝っているから、その辺りの事情を聞いたのかもしれない。
もっとも、所詮辺境の神殿。住んでいるのは神官長を含め、たったの5人だ。
通いでまかないを手伝ってくれている近くの村の人間を含めても6人。皆、お互いのことを知り尽くすほど長く一緒に生活しているせいか、中央の神殿ほど身分や地位に厳しくない。
神官長であるブルクハルト自身が、どこかのほほんとしていて大抵のことには動じない人で、面倒なことも好きではないから、実際、他の神殿に比べ、ここはかなり規則も緩いのだ。
よほどのことがないかぎり、大抵の情報は皆で共有しているから、シモーネに聞かなくても、すぐに誰かから同じ話を聞くことになっただろう。
「訳ありって?」
「中央の神殿に、神子が降臨されたって話、前に聞いたでしょ?」
シモーネの言葉に、そういえば、ブルクハルトがそういうことを言っていた気がすると数ヶ月前の記憶を引っ張り出しながら、リタは頷いた。
神子が降臨しようが、中央で大神官が変わろうが、ここには影響がない。どうせ他人事という気持ちで、聞き流していたのだが。
「で、その神子様、この国の王太子殿下と結婚することになったらしいのよ」
「あれ? 王太子殿下って、婚約者がいなかったっけ?」
リタの記憶が正しければ、大臣を務める有力貴族の娘が王太子の婚約者だったはずだ。
「それが、婚約者だった人は体を壊して王妃には相応しくないってことになったらしいのよ。王太子が神子に夢中になって婚約者を捨てたから、それで病気になったとか、割と普通に噂になってる」
シモーネは神殿や王宮で使われる古代語もきちんとしゃべれるから、神官長について王都に行くことも多い。元々噂好きというのもあって、中央の噂話や面白い話を仕入れてくるのだ。
「本当のところはわからないけどね。で、ここへ来るのが、その元婚約者様ってことらしいんだよ」
「うわー。なんだかいろいろどろどろしてる。その人、都合が悪いからここに押し込められるってこと?」
「どうなんだろう。それなりに身分があるから、噂が収まるまで隠れているのかもしれないし」
確かに、三角関係(想像だが)の末に王太子に捨てられたなどという話が囁かれていれば、今後の縁談にも差し支えるだろう。
「それだったら、他にもいろいろ場所はありそうだけどね」
「ここは中央からかなり離れているし、周りは山に囲まれて出入りも限られているから、隠れるには丁度いいのかもよ。どっちにしても、侍女やら護衛やら連れてくるんじゃないの?」
言われてみれば、その通りだった。
いくらなんでも、それほど身分がある女性が、1人で療養ということはありえない。
あまりにも辺境すぎて盗賊の類は出ないが、森や山には魔物や魔獣が住んでいる。道の整備は中央ほど整ってはいないから、うっかり迷い込むと、そのまま行方不明など、よくある話だ。
「貴族のお姫様っていうのも、大変だね」
神官は結婚不可というわけではないから、恋愛も結婚も自由だ。二人はまだ見習いという身分のせいか、当分の間はそういうことは関係ないと考えているが、将来もしするとしても、家に縛られてということはありえない。
よほどろくでもない相手でなければ、反対されることがないというのが、一般的な庶民の実情だ。
「でも、面倒だよね。侍女って行っても、きっと私達よりも身分は上だろうし」
王太子の元婚約者というくらいだから、貴族でも上位の者だ。そういうところには、下級貴族の娘が礼儀作法などを習う目的で仕えたりするらしい。
「言う通りにやってれば、なんとかなるんじゃないの? というか、きっと私たちなんて、お姫様の顔を見ることさえないんじゃないかな」
下々のものだしと言ってシモーネが笑う。
それもそうか、と納得したようにリタも笑い、二人は床磨きの作業に戻った。
いくら温厚な神官長でも、夕方までに掃除が終わっていなければ、さすがに怒るだろう。この年になって夕飯抜きなんて、恥ずかしい。
だが、リタたちの予想に反して、やってきたのは、質素な服に身を包んだ奇麗な女の人と、略装ながら騎士の格好をした男の人だけだった。




