それぞれの思惑
漆黒の部屋。
唯一つの蝋燭の炎が、跪く二人の影を天井まで引き伸ばしていた。
彗は額を床に擦りつけるように頭を垂れ、隣のハジメも同じ姿勢のまま、息だけを細く吐いている。
沈黙は重かった。音がないのではない。ここでは、音を立てる側が値踏みされる。
「じゃあ」
女の声がした。
暖炉の前の肘掛け椅子に、一人の女性が深く身を預けている。艶のある黒髪を無造作に束ね、年齢さえ曖昧に見せる顔で、彼女はグラスを傾けた。
「申が、死んだのね」
そこに悲しみはなかった。
確認。処理。次の計算。
それだけで十分だと言わんばかりの声だった。
「はい」
彗が答える。
「ふうん。バイヤーとしては優秀だったんだけどね、あの子」
「母様のご期待に沿えず、申し訳ございません」
「謝らなくていいわ。市場は動くものよ。死ねば空席ができる。空席ができれば、誰かが座る。ただの需給」
ハジメの肩がわずかに震えた。
彗はそれを見ずに、しかし知っている手つきで、その震えを押さえる。
女は立ち上がった。蝋燭の影が、彼女の足元でゆっくり形を変える。
「それで? 次はどうなってるの」
「四凶は崩壊しました。文圍の死をきっかけに、各々が勝手に動き始めています」
「予想通りね。利害で繋がった群れは、頭が落ちれば崩れる」
彼女は窓辺に寄った。分厚いカーテンの隙間から、夜の灯りが針のように差す。
九黎城の灯か、別の魔都の灯か。名前など、彼女にとっては些細なことなのだろう。
「じゃあ、次の受け皿は?」
「いくつか候補は」
「違うわ」
女は彗の言葉を切った。
「私が聞いているのは、誰が儲かるかじゃない。どこで熱が上がるか、よ」
沈黙。
ハジメが口を開きかけて、やめる。
女は薄く笑った。
「リゾート」
その言葉だけが、先に部屋の空気を支配した。
「ナンズビーチ。南洋の真珠。煌びやかで、派手で、ゴージャス。ああいう場所にはお金が集まる。情報も集まる。人はね、争いのあとほど楽しみたがるのよ。生き残ったことを、浪費で証明したくなるから」
グラスの水面が揺れる。
虹のような光が、彗の伏せた睫毛をかすめた。
「見に行きなさい。売れるものが何か、ではなく――誰が自分を売るつもりなのかを」
そのころ、別の場所。
白を基調にした部屋は、豪奢なのにどこか空虚だった。金の装飾も、深いビロードのソファも、そこにいる男の退屈を埋められない。
ルブルは寝転がったまま、天井を見て笑っていた。
両脇に寄り添う二人の女は美しかったが、彼にとっては宝石箱の中身と大差ないのかもしれない。
「さあ」
彼は呟く。
「俺の祭りか?」
「何か面白いことでも?」
「ああ。面白くなる。たぶんな」
ルブルは片方の女の髪を指で梳いた。
壊れ物を扱うように優しい手つきで、その実、少しも執着していない手だった。
「申が死んだ。四凶が崩れた。なら、次は奪い合いだ。誰が何を持っていくか。誰が誰に値札を貼るか」
「ルブル様は、何を手に入れるのですか?」
「俺は何もいらない」
彼は身を起こし、窓の向こうの海を見た。
月明かりを吸ったナンズビーチは、まるで最初から血も泥も知らないみたいに光っている。
「見てるだけでいい。人が転ぶ瞬間ってのは、だいたい一番きれいだからな」
月明かりの差し込む、名を持たない部屋で、別の声もまた同じ海を思っていた。
「倒されたわ。申が」
月は壁にもたれたまま言った。
「シナリオ通りなら、次はナンズビーチ。……でも、そう綺麗には流れない気もする」
返事はない。
いや、姿がないだけで、声はすぐ近くにあった。
「行ったら面白い」
梵の声だった。
「面白い、のだけど――リョクシくんがいる」
月の眉が寄る。
「気にしてるの?」
「気にするさ。あの男は、分からないふりがうまい」
「あなたが言うのね」
「だから面白いんだよ」
梵の笑いは近いのに、手を伸ばせば遠い。
「僕はまだ見ているだけ。でも、見ているだけで済むかは、あの子次第だ」
「あの子?」
問い返しても、答えはなかった。
九黎城、広場。
石畳には戦いの跡が残っていた。割れた地面。焦げた匂い。風が通るたび、粉塵が白く舞う。
ランはその中に立ち、鼻をひくつかせた。
「ここ、まだ怒ってるみたいだな」
「場所が怒るわけないでしょ」
マリアが言う。けれど、その声も少し固い。
彼女は平気そうな顔でいる時ほど、周りをよく見ている。
前を歩くリョクシは振り返らない。くすんだ緑色の外套だけが、夜風に揺れている。
「さあ、オストへ行くぞ」
ランは首を傾げた。
「オスト? それ、食いもんか?」
「違うわ。地名」
マリアは即答したが、続ける言葉を飲み込んだ。
説明するより先に、リョクシの背中が“黙ってついて来い”と語っていたからだ。
ランは少しだけ眉を寄せる。
分からない。
知らない地名ばかりだ。人の名前も、争いの理由も、誰が何を欲しがっているのかも。
でも、分からないこと自体に、妙な慣れがあった。
森で生きていた頃から、世界はいつだって、説明より先に牙を見せてきた。
「なあ」
ランは歩きながら言った。
「オレ、また何か知らねえまま連れてかれてる?」
マリアが一瞬だけ目を見開く。
リョクシは止まらない。
だから、返事をしたのは背中だった。
「そうだ」
ずいぶん冷たい言い方なのに、不思議と切り捨てる響きではなかった。
「知らないまま行く」
「それ、いいのかよ」
「いい」
短い即答。
「今のおまえに必要なのは、全部を理解することじゃない。見て、間違えて、覚えることだ」
ランは口を閉じた。
叱られた気もしたし、許された気もした。
マリアが小さく息を吐く。
「珍しい。あんたがそんな言い方するの」
「事実だ」
「優しい言い方を覚えたのかと思った」
「気のせいだ」
そのやり取りに、ランは少しだけ肩の力を抜いた。
分からないままでもいい、と言われたのは初めてだった。
ずっと、知らないことは恥だと思っていた。遅れていることは捨てられる理由になると思っていた。
けれど今、前を行く男は振り返りもしないくせに、置いていく気もないらしい。
「オストには何がある」
ランが問うと、リョクシは数拍置いてから答えた。
「まだ値札の貼られていない場所だ」
「ねふだ?」
「おまえみたいな顔をした連中が、勝手に値段を決められない場所って意味」
マリアが苦笑する。
「説明が雑」
「十分だ」
遠くで、何かが崩れる音がした。
文圍という男が築いた時代の残響なのか、それとも、もっと別の何かなのか。
ランには分からない。
ただ、その音を聞いた瞬間、理由もなく胸の奥がざわついた。
何かが始まる音だ、と身体だけが知っている。
「行くぞ」
リョクシが言う。
ランは一度だけ、壊れた広場を振り返った。
ここで何が終わったのかは知らない。
でも、自分がまだ終わっていないことだけは分かった。
「……おう」
短く答えて、走る。
マリアも続く。
三人の足音が、夜の石畳に重なった。
風が吹く。
遠い海の匂いがした気がした。祭りの匂いかもしれないし、売り買いの匂いかもしれない。
けれどランは、まだその名前を知らない。
知らないまま、進む。
それでも今夜だけは、それでいい気がした。




