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or  作者: 真亭甘
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靄-もや-


軍陣からの銅鑼ドラと怒号が響き渡った。続いて、威嚇のために放たれた鋭い矢が、難民たちの足元の泥土を激しく抉った。



「ふざけやがって……!」



窮奇が獣のような歯をむき出しにし、腰の剣に手をかけ飛び出そうとする。それを、蚩尤の静かな手が制した。



「待て。……今は、堪えろ」



「あ? 黙って奪われろってのかよ!?」



「あの子たちを見ろ」



蚩尤の視線の先には、戦乱の恐怖に震え、泣き叫ぶ気力すら失って立ち尽くす孤児たちがいた。

ここで剣を抜けば、彼らが巻き添えになる。蚩尤は唇を噛み締め、泥濘ぬかるみに膝を折った。拱手し、頭を垂れる。



「……差し出します。ですから、どうか手出しはしないでいただきたい」



それは、腸が煮えくり返るような屈辱的な選択だった。集めた僅かな糧秣りょうまつも、苦労して掘り出した青銅の破片も、すべて官軍を名乗る者たちに奪われた。兵たちは馬上で嘲笑いながら去っていき、後には深いわだちと、絶望だけが残された。



泥にまみれた蚩尤の背中を、冷たい雨が打ち付ける。



「……クソッ! クソッ! なんでだよ!」



窮奇が拳で地面を殴りつけた。泥水が跳ね、彼の顔を汚す。



「力がねぇからだ……! 俺たちが弱いから、あいつらは好き勝手しやがる!」



檮杌は無言のまま、蚩尤の肩に太い手を置いた。その掌は、冷え切った蚩尤の体を温めるように熱かった。


蚩尤は顔を上げた。



その双眸に、涙はなかった。ただ、昏い決意の燐光だけが、揺らめいていた。



「……強くならねばならない。誰も、何も奪わせぬために」



その言葉が、後に乱世を駆ける「軍神」の端緒はじまりとなることを、まだ誰も知らなかった。

三人は、同じ修羅場の夜を越えてきた。 戦火の向こうで家門の名が砕け、地図が焼き尽くされ、言葉が意味を失った夜だ。



蚩尤は、無益な争いを好まなかった。避けられる刃ならば、常に避けた。誰かに助けを乞われれば断らなかったが、それは剣を振るうこととは別だった。 頼みには、誠意で向き合う。それだけだ。



窮奇も同じだった。怪力があるからといって、それを無闇に振るう理由にはならない。 泣く子を抱き上げる時の腕と、敵を砕く拳の使い方は違う。彼はそのことわりを間違えなかった。



檮杌は、二人より少しだけ年嵩としかさだった。長兄、という言葉がいちばん近い。 武芸を教えるでもなく、指図をするでもなく、ただ危険の先に立つ。その広い背中で生き様を示す男だ。



「静かだな」



檮杌が低く言った。 静かすぎる、とは言わなかった。その肌を刺す違和感を、三人とも感じ取っていた。

風が止み、蟲の音が引く。遠くで、何かが鳴った。鎧の擦れる音、あるいは刃が鞘走る低い音。 窮奇が背負っていた子どもたちを地面に降ろした。顔には笑みを浮かべているが、眼光が変わっている。




「来るな」



蚩尤は誰にともなく頷いた。 野盗の襲撃だ。大義も旗も持たぬ、流浪の悪党集団。 奪うために生き、殺すことで己の存在を確かめる修羅たち。王朝が傾き、秩序が死語になる前から荒野を彷徨っている影だ。



「ここは古戦場の廃墟だ。奴らは、わざわざ雨の中をこんな崩れかけた廃堂まで調べに来ない。糧食があるような場所を探すはずだ。……檮杌の兄貴が持ち帰った木の実や乾飯は、全部土に埋めよう。匂いは雨で消える」



彼は続けた。



「それから、皆で堂の隅に集まって、動かないこと。気を消して。窮奇は外の様子を見張れ。もし奴らが近づいてきたら、合図を送ってくれ」



策は単純だが、これしかない。正面からぶつかれば、幼子を抱えた三人が、十五人の武装した賊に勝てる道理がない。



檮杌は頷き、すぐに布袋を抱えて外へ出た。彼は雨の中、素手で地面を掘り、食料を埋め始める。その動きは無駄がなく、驚くほど速い。



窮奇も、崩れた壁の隙間から外を窺う姿勢を取った。彼の懐には、研ぎ澄ませた石礫いしつぶてが握られている。



蚩尤は子供たちを廃堂の最も奥、闇の濃い一角に集めた。



「皆、怖がらないで。大丈夫、全て上手くいく。静かにしているんだ。かくれんぼのようなものだよ」


彼は微笑みながら、子供たちの頭を順に撫でる。その手の温もりが、恐怖に震える小さな体を少しずつ落ち着かせていく。



雨脚はさらに強くなった。 雷鳴が遠くで轟く。白い閃光が一瞬、廃墟の影を不気味に浮かび上がらせ、また闇に戻す。



檮杌が戻ってきた。全身泥まみれだが、隠蔽は完了したようだ。彼は蚩尤の横に胡座あぐらをかき、愛用の鉄槍を膝の上に横たえた。 目を閉じ、丹田に気を練る。戦いの準備だ。


時が過ぎる。 雨音だけが世界を支配する。


窮奇が微かに身を硬くした。



「……来た」


彼の囁きが、蚩尤の鼓膜に届く。 外から、ざわめきが聞こえてくる。男たちの罵声。何かを蹴り倒す音。武器がぶつかり合う音。 野盗だ。



「くそっ、何もねぇじゃねぇか! せっかく雨の中来たのによ!」


「シケてやがる。だが、あっちの廃村には、まだ年寄りが残ってるかもしれねぇ。あいつらを引っ張り出して、隠してる麦を吐かせよう」



「おう! それだ!」



下卑た笑い声。それは、人の道を外れた、飢えた獣の咆哮だ。 彼らの足音が、廃堂のすぐ近くまで迫る。



バシャ。


バシャ。



泥を踏む草鞋わらじの音。一人、また一人。 子供たちの中から、嗚咽が漏れそうになる。蚩尤がそっとその子の口を手で覆った。目で「大丈夫」と伝える。



足音が止まる。



「……ん? ここ、崩れかけだが堂があるぞ」



男の声が、すぐ外で響く。 蚩尤の心臓が、一瞬早鐘を打った。が、すぐに明鏡止水の心を取り戻す。大丈夫。奴らは略奪が目的だ。こんな雨の中、わざわざ廃墟の中を調べたりはしない。



「なんだよ、ボロいし。中には何もなさそうだ。次行こうぜ」


別の男が言う。その声は、すでに次の獲物を求めている。



安堵する間もなく。



「待てよ」



三番目の声。低く、狡猾な響き。



「堂ってことは、誰かが作ったんだ。人がいたってことだ。もしかしたら、中に食い物を隠してるかもしれねぇぞ?」



沈黙。 雨音だけが続く。 外の男たちの気配が、一気に険しい殺気へと変わる。



「……そうか。改めてみるか」



檮杌の指が、槍の柄を軋むほど強く握りしめる。窮奇の肩に剛力が漲る。蚩尤は静かに呼吸を整え、子供たちをより深く闇に押しやる。



入り口を塞いでいる腐った板戸が、外から乱暴に動かされる。 光が差し込む。薄暗いが、それでも外界の光だ。 男の影が立ちはだかる。痩せこけ、骨ばった顔。目は窪み、欲望でぎらぎらと光っている。手には、刃こぼれした直刀が握られている。


「おーい、中に誰かいるかー?」



男が揶揄うように呼びかける。 無反応。



「へっ、いないみたいだな」



男が踵を返そうとした、その時。 一番幼い女児が、こらえきれずにくしゃみをした。



「……っくしょん!」



小さな音だったが、この張り詰めた静寂の中では、落雷のように響いた。 男の目が、鋭く光る。



「……いたな」



彼がゆっくりと中へ足を踏み入れる。 次の瞬間。



「行けッ!」



蚩尤の叫びと同時に、窮奇が疾風の如く動いた。 彼は弾けるように飛び出し、握りしめた石礫を男の顔面めがけて打ち下ろす。



「なにっ!?」



男が咄嗟に刀で受けようとするが、遅い。



ドスッ!



鈍い音。石が男の頬骨を打ち砕く。男が悲鳴を上げ、後ろにのけ反る。



「てめえらっ!」



外にいた他の賊たちが怒号を上げ、一斉に駆け寄る。 檮杌が立ち上がる。その巨躯が、入り口を塞ぐ壁となる。振りかざされた鉄槍が、最初の敵を串刺しにする。



「ぐああっ!?」



血飛沫。賊の一人が、槍の穂先に貫かれて絶命する。 だが、敵は多勢だ。



「こいつら、抵抗するぞ!」 「殺せ! 皆殺しだ!」



賊たちが狂ったように襲いかかる。剣が閃き、槍が突き出される。 窮奇は石斧を振り回し、鬼神の如く戦う。その身のこなしは素早く、賊の攻撃を紙一重でかわし、反撃する。



だが、衆寡敵せず。 一撃を加えても、すぐに次の敵が湧いてくる。



檮杌は無言のまま、槍を引き抜き、再び突く。彼の一撃は重く、必殺だ。賊の一人が胸を貫かれ、もう一人が脇腹をえぐられる。 だが、彼もまた無傷ではいられない。肩に深い斬り傷が走り、鮮血が噴き出した。

蚩尤は子供たちを守りながら、戦場を見渡す。戦況は絶望的だ。 檮杌と窮奇は善戦しているが、敵はまだ十人以上残っている。時が経てば、確実に押し切られる。



(どうすれば……)



彼の頭脳が高速で回転する。逃げ道はない。戦力差は歴然。 だが。



(全部上手くいく。必ず)



彼は己に言い聞かせる。そして、ある事実に気づいた。 賊たちは、略奪が目的だ。命懸けの死闘を望んでいるわけではない。



ならば――



「檮杌兄貴! 窮奇! 後退せよ! 堂の中へ!」



蚩尤が叫ぶ。 二人は一瞬戸惑うが、蚩尤の采配に従い、刃を交えながら徐々に堂の中へと退く。



賊たちは、勢いに乗って獲物を追い詰めようとする。



「逃がすか!」 「袋の鼠だ、やっちまえ!」



彼らが、狭い入り口からなだれ込もうとした瞬間。 蚩尤が、祭壇のそばに置いてあった油の入った水瓶を、床に叩きつけた。



パリン!



陶器が割れ、粘り気のある油が床石に広がる。 そして彼は、かまどで燻っていた濡れた薪の束を、その油の上に放り投げた。



ボッ!



炎が上がる。といっても、紅蓮の炎ではない。湿気を含んだ、むせ返るような白煙だ。だが、狭く換気の悪い堂の中では絶大な効果を発揮する。



「ぐはっ!?」 「け、煙が……!」



煙がたちまち室内を満たす。賊たちは目を開けていられず、咳き込みながら後退する。



「今だ! 外へ!」



蚩尤の合図で、檮杌と窮奇が反撃に転じる。視界を奪われ混乱する賊たちは、無防備な案山子も同然だ。 窮奇の棍棒が、一人の膝を砕く。 檮杌の槍の石突きが、もう一人の足を払う。



「あっちだ! 逃げろ!」



賊の一人が叫ぶ。彼らはもはや戦意を失った。略奪などどうでもよくなっている。ただ、この地獄のような煙と痛みから逃れたいだけだ。 賊たちは泥に足を取られながら外へ出て、雨の中へ敗走していく。足を引きずる者、仲間の肩を借りる者。十数人いた賊の群れは、あっという間に霧散した。



煙はまだ立ち込めている。が、雨風が入り口から流れ込み、次第に薄れていく。 堂の中には、血の臭いと、油の焦げる臭いが混ざり合った、不快な空気が残された。



檮杌は壁によりかかり、肩の傷を押さえている。血はまだ止まっていないが、傷は骨には達していないようだ。 窮奇は膝をつき、肩で息をしている。額には汗と雨と返り血が混ざり、流れ落ちている。

子供たちは、震えながらも無事だった。煙でむせてはいるが、誰一人として深手を負っていない。 蚩尤は、



ほっと胸を撫で下ろした。



「……皆、よく耐えた。大丈夫、奴らはもう追っては来ない」



彼はまず、檮杌の傷に駆け寄る。自分の着物の裾を引き裂き、傷口を縛る。止血のための処置だ。



「兄貴、痛みは?」



檮杌は首を振る。彼は蚩尤の手をそっと払い、自分で布を強く締め直した。そして、蚩尤の肩を無骨な手でポンと叩いた。 感謝と信頼の証だ。



窮奇が顔を上げ、くすくすと笑い始めた。



「はは……やったぜ。あの煙、見たか? あの悪党ども、目を回して逃げていきやがった!」

「ああ。窮奇もよく戦った。檮杌兄貴も」



蚩尤は微笑みながら、義兄弟の二人を見つめた。



「だが、油は最後の一瓶だった。次に賊が来たら、同じ手は使えない」



冷徹な現実が、再びのしかかる。 窮奇の笑みが消えた。



「……そうだな。それに、兄貴も手傷を負った。連戦は厳しい」



檮杌は頷く。彼は槍を手に取り、穂先についた穢れを雨水で洗い流している。無言のうちに、次への備えを始めている。



蚩尤は外を見た。雨は小降りになり、鉛色の雲の隙間から、微かな光が差し始めていた。



「雨が止んだら、ここを離れよう」



彼が静かに言う。



「でも、どこへ行くの?」



一番年嵩の少年が尋ねた。その目には、不安と期待が入り混じっている。



「わからない。だが、皆と一緒なら、どこへだって行ける」



蚩尤は立ち上がり、子供たち一人一人の目を見つめた。



「賊に襲われるのを座して待つより、安全な地を探す。食い物も、水も、きっと見つかる。全て上手くいく」



彼の声には、確信があった。根拠のない楽観ではない。苦難を前にしても決して折れぬ、鋼のような意思の表れだ。



窮奇が立ち上がり、拳を握りしめた。



「おうよ! それでいい! 俺もついていくぜ、蚩尤!」



檮杌は無言で頷き、蚩尤の横に立つ。そのいわおのような巨体は、それだけで揺るぎない安心感を与えた。



子供たちの顔に、少しずつ希望の色が戻ってくる。



雨が完全に上がった。 雲の切れ間から、久しぶりの陽光が差し込み、濡れた大地を照らし始める。水たまりがきらきらと輝き、遠くには微かな虹もかかっていた。



蚩尤は、埋めた食料を掘り起こす。木の実や果実は泥まみれだが、命を繋ぐ糧だ。彼はそれらを均等に分け、皆に配る。



「食おう。旅の支度だ」



彼らは廃堂の前で、黙々と食事をした。味などない。ただ、明日を生きるための儀式だ。

遥か遠く、断崖の上から一人の男が、この光景を眺めていた。



「争いを憎みながら、いざとなれば知略を用いて敵を退ける。人を惹きつける天性の才もある。……そして、あの甘さとも言える優しさ。それが、最大の弱点であり、天下を掴む最大の武器にもなろう」



男の目が、冷たく光る。



「投資する価値がありそうだ。さて……この原石を、いかにして『育てて』やろうか」



その男の呟きは風に消え、三人の若者と子供たちの旅路が、今まさに始まろうとしていた。




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