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or  作者: 真亭甘
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記憶の底には、常に冷え冷えとした雨が降り注いでいる。


それは天が流す血のように重く、あるいは龍の吐息のように毒を含んだ灰色の雨であり、生きとし生けるものの陽気(生体エネルギー)を奪い去る、優しくも残酷な天の涙であった。


九黎キュウリの城、その奥深き玉座。


かつて「兵主ヘイシュ」、すなわち軍神と崇められ恐れられた男、蚩尤シユウは、まどろみの中でその雨音を聞いていた。


側近である文圍ブンイが去り、静寂が支配する広間で、彼の意識は肉という檻を離れ、遥か彼方の時空へと沈殿していく。


そこは、神話が編まれるよりも前。 彼がまだ「蚩尤」という名の災厄として天下を震わせる前。 ただの、飢えた一人のわらべだった頃の記憶である。






***






世界は赤錆と泥濘デイネイで出来ていた。


空は常に鉛色の雲に覆われ、かつての王朝が遺した巨大な青銅の墓標や砕けた巨像が、枯れたあばら骨のように荒野に突き刺さっている。


その朽ちた遺跡の足元、毒に犯された濁流のほとりに、名もなき集落があった。


集落といっても、破れた天幕や腐った木材、戦火に焼かれた瓦礫を積み上げただけの、風が吹けば吹き飛ぶような脆いねぐらに過ぎない。

そこに身を寄せ合うのは、諸国の覇権争いから弾き出された流民・難民たちであった。


彼らは国を持たず、法を持たず、ただ今日という日を生き延びるためだけに、泥水をすすり、草の根を食み、互いの体温を分け合っていた。


灰色の飛沫が、少女の痩せこけた頬を濡らす。骨の浮き出た顔が、冷たい雫を受けて引きつった。



「……腹、減った」



少女の乾いた唇から漏れたのは、言葉というよりは魂の漏れる音に近い。その微かな音を拾い上げた少年が、泥濘の中から顔を上げた。


濡れた黒髪が額に張り付いている。その瞳は、雨天の空よりも深い鋼の色、あるいは研ぎ澄まされた剣気のような光を宿していた。


少年は、腰帯の裏に隠していたボロ布の包みを取り出し、てのひらに収まるほどの小さな塊を露わにする。油紙に包まれた、石のように固く黒ずんだ「乾餅(干した餅)」の欠片だ。




「食え」



少年は短く言った。 少女の目が、その黒い塊に釘付けになる。だが、すぐに視線を逸らし、少年の背と腹がくっつきそうなほど痩せた胴回りへと向けた。



「あんた……食ってない」



「俺はいい。……を練っているから平気だ」



少年は、不器用な笑みを浮かべた。その笑顔には、修行の成果など何一つない。

あるのはただ、地獄のような現実に抗うための、祈りに似た強がりだけだ。

彼は少女のかじかんだ手を取り、無理やりに餅を握らせた。


焚き火のそばで、その光景は経文のように繰り返されていた。

声の主は、まだあどけなさの残る少年――後の魔神、蚩尤である。



蚩尤シユウ。……お前、また自分の分をやりやがったな」



背後から、呆れたような、しかし温かみを含んだ野太い声が掛かる。 振り返れば、そこに一人の少年が仁王立ちしていた。


蚩尤と同い年でありながら、その体躯はすでに歴戦の武人を凌駕していた。

彼は戦場跡から拾ってきた曲がった鉄棒を剛力でねじ曲げ、子供たちのために即席の天幕支柱を作っている最中だった。しなやかな筋肉を全身に纏った、猛き獣のような少年。


爛々(らんらん)と輝く瞳と、口元に浮かぶ不敵な笑みが、彼の内なる生命力(気)の奔流を物語っている。その名を、窮奇キュウキ



「窮奇。……戻ったか」



蚩尤と呼ばれた少年は、立ち上がりながらふらついた。それを、丸太のように太い腕が支える。



「馬鹿野郎が。頭領カシラが餓死したら、誰がこのチビどもを纏めるんだよ」



窮奇が、背負っていた麻袋を地面に投げ出した。ゴロン、と重い音がして、中から数本の「古びた青銅の筒」と、僅かな芋が転がり出る。



「今日の収穫あがりだ。……旧王朝の遺物は長安の闇市で良い値で売れた。だが、食い物はこれだけだ」



窮奇は舌打ちをした。この辺境の地――文明の墓場においては、食料は黄金よりも重い。 野盗が襲い、軍閥が蹂躙し、残されたのは鉄屑と穢れた土壌だけなのだ。



彼らは、そんな世界で泥水を啜り、身を寄せ合って生きる「戦災孤児」たちだった。



「十分だ。……みんなで分けよう」



蚩尤は芋を拾い上げ、泥を拭った。その手つきは、秘宝のギョクを扱うように丁寧だった。



「ケッ、お前のその『みんなで』ってのが、いつか俺たちを殺すぜ」



窮奇は悪態をつきながらも、一番小さな子供を抱き上げ、その頬を指でつついた。子供がキャッキャと笑う。


窮奇の顔が、一瞬だけ綻んだ。彼は膂力が自慢で、誰よりも喧嘩っ早いが、誰よりも幼子おさなごに弱い。


蚩尤は擦り切れた布切れで、幼い子供の足を包帯代わりに巻いていた。泥にまみれたその手は、冷たい雨に凍えながらも、懸命に陽だまりのような温もりを伝えようとしている。



「痛くないよ。すぐに良くなる」



蚩尤は微笑む。その笑顔は、絶望的な状況には不釣り合いなほど穏やかで、見る者を不思議と安心させるカリスマを帯びていた。


彼の周りには、いつも人が集まる。 不安に怯える老人、親を失った子供、傷ついた脱走兵。彼らは蚩尤のそばにいる時だけ、明日への恐怖を忘れることができた。



「へっ、お前は相変わらず甘ちゃんだなァ。そんな布切れで傷が治るかよ。……ほら、これ食え」



焚き火の向こうから、呆れたような、しかし慈愛のこもった声が飛んでくる。 窮奇は懐から、干からびたトカゲの燻製を取り出し、治療を受けている子供に放り投げた。



「肉だ! 肉を食えば精がつく! 精がつけば、傷なんて勝手に塞がるんだよ!」



「……乱暴だね、君は」



蚩尤は苦笑する。 窮奇は、生まれつきの暴れん坊だ。

力が強く、喧嘩っ早く、曲がったことが大嫌い。だが、誰よりも弱者に優しく、無辜の民が虐げられるのを見ると黙っていられない。 彼は集落の「武」そのものだった。

襲い来る野犬や、他の集落からの略奪者を、その拳一つで追い払ってきた。彼の暴力は、守るための武力だった。



「蚩尤の言う通りだ。……争っても腹は膨れない。分け合えば、心は満ちるが、……静かにしろ。おとが聞こえなくなる」



二人の会話を遮るように、低い、大岩が擦れ合うような重低音が響いた。

檮杌トウコツ


彼は集落の入り口、風雨に晒される場所に、石像のように座り込んでいた。

静かに言った。

彼は多くを語らない。窮奇でさえ見上げるほどの巨躯を持ち、その肌は岩石のように硬く、黒い。 ただ、黙って座り、集落への脅威を監視し続ける「盾」だった。


彼は蚩尤や窮奇にとって、頼れる兄貴分であり、絶対的な守護神だった。



「檮杌の兄貴、何か聞こえるか?」



窮奇が瞬時に臨戦態勢バトルモードに入る。鉄棒を構え、獣のような殺気を放つ。



檮杌はゆっくりと首を振った。



「……いや。風の音だ」



その一言で、場の空気が緩む。檮杌が言うなら間違いない。

三人は、火を囲んだ。 雨は降り続いている。 彼らは争いを憎んでいた。

故郷を焼かれ、一族を殺され、逃げ惑う中で出会った三人。血の繋がりはない。だが、その絆は血よりも濃い、生存本能という盟約によって結ばれていた。



「いつかさ」



蚩尤が、揺れる炎を見つめながら呟く。



「こんな雨が降らない場所へ行こう。……誰も僕たちを追い立てない、静かな桃源郷とうげんきょうへ」



「あるのかよ、そんな場所」



窮奇がトカゲの尻尾をかじりながら鼻を鳴らす。



「あるさ。……きっと、ある」



蚩尤は確信を込めて言った。根拠はない。だが、彼の言葉には、天命ビジョンを現実に変えてしまうような、奇妙な説得力があった。 檮杌は黙って頷き、太い薪を火にくべた。 パチパチと爆ぜる火の粉が、彼らの瞳の中で小さく輝いていた。


それが、彼らの「原風景」だった。 まだ誰も殺さず、誰からも奪わず、ただ互いを守るためだけに生きていた、儚くも美しい時間。


だが、世界は彼らを放っておかなかった。 運命の歯車は、一人の悪徳商人の密告によって、狂った速度で回転を始める。



「……来やがった」



窮奇の耳がピクリと動く。 遠雷のような音が、地平線の向こうから近づいてくる。雷ではない。 それは、幾百の軍馬と、機巧からくり仕掛けの戦車が大地を踏み砕く、破壊の足音だ。



「野盗か? いや……正規軍だ」



檮杌が立ち上がり、自身の背丈ほどもある石柱――瓦礫の中から拾い出した即席の武器――を構える。



「隠れろ! 子供たちを奥へ!」



蚩尤が叫ぶ。その声には、先ほどまでの優しさとは異なる、王としての鋭さが宿っていた。


現れたのは、黒塗りの鉄甲に身を包んだ重装騎兵と戦車の群れだった。

旗印には、近隣を支配する軍閥の紋章が描かれている。

彼らは「収穫」に来たのだ。食料を、鉄屑を、そして「労働力どれい」となる人間を刈り取るために。



「抵抗するな! 命が惜しくば、全ての物資を差し出せ!」



怒号と共に、平和な時間は終わりを告げた。




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