九黎城 7
九黎城・最上層――「天蓋の間」。
そこは、城というよりは神殿に近かった。 天井は遥か高く、夜空を模したドーム状の天蓋には、魔石で描かれた偽りの星々が瞬いている。 床には深紅の絨毯が敷き詰められ、壁には金箔と黒檀で細工された不気味なレリーフが並ぶ。 その意匠は、龍でも鳳凰でもない。 口を大きく開け、すべてを飲み込もうとする「獣」の顔だ。
饕餮。 四凶の一角にして、尽きぬ欲望の象徴。
その意匠に囲まれた広間の最奥。 数段高い位置に設えられた玉座に、一人の男が鎮座していた。
蚩尤。
古の軍神。かつて神話を焼き尽くしたとされる災厄の王。 彼は頬杖をつき、退屈そうに眼下の男を見下ろしていた。 その姿は、一見すれば二十代後半の若者のようだが、纏う空気の重厚さは数千年の時を経た古木の如き威厳を放っている。 鋼色の瞳には、感情のさざ波すら立っていない。ただ、絶対的な虚無と、それ故の強大さが静かに凪いでいる。
玉座の足元、階段の下には、豪奢な衣装を纏った男が立っていた。 文圍。 十二神獣「申」の称号を持つ、この国の真の支配者であり、蚩尤を祀り上げた張本人。
「……それで?」
蚩尤が、低い声で問うた。 その一言だけで、広間の空気が軋む。
「なぜ、俺の『兵』を勝手に動かした?」
四凶――檮杌、窮奇、混沌。 彼らは蚩尤の眷属であり、彼の手足となるべき存在だ。 それが今、城を空け、外の戦場へと駆り出されている。
文圍は、蚩尤の威圧を前にしても、涼しい顔を崩さなかった。 商人特有の、へりくだっているようでいて、その実、相手を値踏みするような油断ならない笑みを浮かべている。
「おお、これは手厳しい。……我が主、どうかご寛恕を」
文圍は大げさに両手を広げ、演劇の舞台に立つ役者のように語り始めた。
「彼らを動かしたのは、ひとえに『必要経費』でしてな」
「経費だと?」
「ええ。……ご存知でしょう? 外では今、建文とかいう若造が、身の程知らずにも反乱の狼煙を上げております」
文圍は懐から扇子を取り出し、パチリと開いて口元を隠した。
「尊の残党、そして高旗率いる野盗ども。……数だけは多い羽虫です。放っておけば、この九黎城の美観を損ねかねない」
文圍の目が、扇子の隙間から冷ややかに光る。
「百渡如きの手勢では、少々荷が重いようでしてね。……私の可愛い『商品』たちを守るため、そして何より、貴方様の安寧なる眠りを妨げさせないため……少々、掃除屋として彼らに出張ってもらった次第です」
もっともらしい理由。 主のため、国のため、秩序のため。 言葉の上では忠義を装っているが、その本質は「私物化」だ。 蚩尤の力を、自らの権益を守るための道具として利用しているに過ぎない。
だが、文圍はそれを隠そうともしない。 なぜなら、それが「契約」だからだ。
蚩尤という神を現世に繋ぎ止め、その力を維持するための膨大な「供物」――金、物資、そして人の命。 それらを提供しているのは、他ならぬ文圍だ。 出資者が、投資先を運用するのは当然の権利であると言わんばかりの態度。
「檮杌は退屈を持て余しておりましたし、窮奇は暴れたがっていた。……彼らにとっても、良いガス抜き(レクリエーション)になりましょう」
文圍は扇子を閉じ、指先で弄んだ。
「それに……あの程度の反乱分子、四凶が出るまでもありませんが、これ見よがしに『圧倒的な暴力』を見せつけることも、統治においては重要な演出ですから」
恐怖による支配。 逆らえばどうなるか、その絶望を骨の髄まで刻み込む。 それが文圍の、いや、饕餮のやり方だ。
蚩尤は、しばらく無言で文圍を見下ろしていた。 その瞳の奥で、何かが揺らめいた気がした。 怒りか、呆れか、あるいは――憐憫か。
「……口の減らん男だ」
蚩尤は、興味を失ったように視線を外した。
「好きにしろ。……だが、忘れるなよ、文圍」
蚩尤の声が、広間の温度を氷点下まで下げる。
「俺は、お前の道具ではない。……そして、あいつらもな」
「肝に銘じておきましょう」
文圍は慇懃無礼に頭を下げた。 だが、その顔は伏せられているため、どのような表情をしているかは見えない。 おそらく、舌を出して嘲笑っていることだろう。
神すらも、金と利権の鎖で縛り付ける。 それが、この男の愉悦なのだから。
「では、私はこれにて。……戦果報告を楽しみにお待ちください」
文圍は踵を返し、足音高く広間を出て行った。 重厚な扉が閉ざされる音が、広間に反響する。
残されたのは、玉座の蚩尤と、静寂だけ。
「……フン」
蚩尤は自嘲気味に鼻を鳴らした。
かつて「兵主神」と呼ばれ、天地を揺るがした自分が、今は一介の商人の掌で踊らされている。 滑稽な話だ。
だが、蚩尤の脳裏には、遠い過去の記憶が蘇っていた。
まだ彼が「神」と呼ばれる前。 ただの飢えた少年だった頃の記憶。
荒れ果てた大地。戦火に焼かれた故郷。 泥水をすすり、草の根をかじって生き延びた日々。
そこには、二人の友がいた。
窮奇。 生まれつきの怪力と、底抜けの明るさを持つ少年。 幼い子供たちを守るために、その拳を振るっていた優しき暴れん坊。
檮杌。 無口で不器用だが、誰よりも頼りになる兄貴分。 自らの身を盾にして、仲間を庇い続けた頑強な男。
そして、蚩尤。 誰かの頼みを断れず、真摯に向き合い続けた、ただの優しい少年。
三人は、争いを憎んでいた。 ただ静かに、安らかに暮らしたかっただけなのだ。
だが、世界はそれを許さなかった。 族が襲い、軍が蹂躙し、彼らのささやかな楽園を奪い続けた。生きるために、彼らは武器を取った。
文圍は、戦いが始まるのを見届けながら、心の中で算盤を弾いていた。
(蚩尤の精神状態は安定している。……多少の揺らぎはあるが、許容範囲内だ)
彼は、蚩尤という存在を誰よりも理解していた。 いや、理解していると思い込んでいた。 かつて、貧しい部族の少年を拾い上げ、英雄・蚩尤へと仕立て上げたのは、他ならぬ文圍である。 彼の優しさ、彼の弱さ、そして彼の持つ「破壊の才能」を見抜き、巧みな言葉と演出で、彼を神の座へと縛り付けた。
(彼は、私の最高傑作だ。……壊れるまで、使い潰させてもらうよ)
文圍の眼鏡が、冷たい光を反射した。 その瞳には、かつて蚩尤がまだ少年だった頃の、ある記憶が映っていた。 雨の降る戦場。 死体の中で震えていた少年と、彼を守ろうとしていた三人の友。 それが、全ての始まりだった。 そして、その記憶さえも、文圍にとっては「投資」の一部に過ぎなかった。
物語は、過去へと遡る。 神がまだ、人であった頃の、雨と泥の記憶へと。




