九黎城 6
雷鉞という名の嵐が、物言わぬ肉塊となって地に伏した。 その巨体が崩れ落ちた瞬間に巻き起こった風圧すらも、今はもう遠い過去の事象のように、九黎城の冷たい床へと吸い込まれていく。
後に残ったのは、静寂。 いや、それは単なる無音ではない。圧倒的な「理」の書き換えが行われた直後の、世界が軋むような空白であった。
ランは、その空白の中心に立ち尽くしていた。 目の前には、リョクシがいる。 くすんだ緑色の外套をまとい、細い指先で前髪を弄るその男は、つい先ほど数トンの質量と雷撃を素手で握り潰した怪物とは到底思えないほど、儚げで、優美な曲線を描いて佇んでいる。
「……おい」
ランの喉から、軋むような声が漏れた。 それは問いかけであり、警戒であり、同時に、己の理解を超えた現象に対する、野生動物としての純粋な畏怖でもあった。
「アンタ……何をした?」
リョクシはゆっくりと振り返る。 その瞳は、相変わらず感情の色を映していない。深海のように暗く、それでいて全てを見通すような透明度を持った、観測者の眼差し。
「『何をした』、か。……ふむ。君にしては、いささか解像度の粗い問いですね」
リョクシは倒れ伏した雷鉞を一瞥もしない。彼にとって、敗者はすでに風景の一部、あるいは処理済みのデータに過ぎないからだ。 彼は汚れた手袋を脱ぎ捨て、新しい手袋を懐から取り出しながら、講義を始める教授のように淡々と語り出した。
「ラン。君は先ほど、自分の身体が軽くなったと感じたはずだ。気配を消し、環境に溶け込み、そして殺意を針のように研いで敵を釣った。……それは、なぜできたと思います?」
「……なぜって、アンタがやれって言ったからだろ」
「ええ。ですが、言われてすぐに実践できるものではない。君がそれを成し得たのは、君が元来、この世界の『隠されたルール』に、無自覚に触れていたからですよ」
リョクシが一歩、ランに近づく。 その足音はしない。彼が存在する座標だけが、音もなくスライドするように移動する。
「アニマ。……多くの人間は、それを単なる『異能』や『魔法』だと勘違いしている。火を出したり、風を起こしたり、身体を鋼鉄に変えたり。……だが、それは現象の表面に過ぎない」
リョクシの手が、ふわりと空間を撫でた。 すると、何もないはずの空中に、微かな光の粒子が舞い上がり、幾何学的な波紋を描いて消えた。
リョクシの声は、冷房の効いた部屋で聞く環境音楽のように、感情の色が希薄だ。 だが、そこには確かな知性の光が宿っている。
「アニマ……魂……」
ランは言葉を反芻する。 これまで何度も耳にしてきた単語だ。マリヤも、あの巨漢の啊も、そう呼んでいた。 だが、今のランには、その言葉が以前よりも重く、実体を持って感じられた。
「本質は、『魂の熱量』による、物理法則の改竄です」
「……あァ? 何言ってんのかさっぱりわからねぇよ」
ランは苛立ち混じりに鼻を鳴らす。難しい言葉遊びは嫌いだ。腹が減るだけだ。 だが、リョクシは構わず続ける。
「この世界――アドリム以降の壊れた世界はね、非常に不安定なんです。かつての文明が築き上げた強固な物理法則は崩壊し、今は人間の意志や感情といった不確定な要素が、現実を浸食しやすい状態にある。……つまり、強く願えば、あるいは強く呪えば、世界はその形を変える」
リョクシの指先が、ランの胸元を指した。
「君のその異常な身体能力。決して折れない骨、疲れない筋肉、鋼鉄をも引き裂く爪。……それもまた、君の『生きたい』『食らいたい』という原初的な欲求が、肉体というハードウェアを強制的に進化させた結果なんですよ」
ランは自分の掌を見つめた。 泥と油、そして返り血に汚れた手。 この手が、鉄を砕き、命を奪ってきた。それは単に「力が強い」からだと思っていた。だが、コイツの言う通りだとしたら? 俺の強さが、俺の「意志」そのものだとしたら?
「アニマは、生命力そのものです。だからこそ、使いこなせば肉体の修復も早まる」
言われてみれば、瓦礫で切った傷の痛みが引いている。 傷口が熱を持ち、急速に塞がっていく感覚。 それは、野生動物が傷を舐めて治す速度を遥かに超えていた。
「眠れば治る、というのは真理ですが……覚醒状態でも、アニマを循環させることで治癒を加速させることができる」
「……便利だな」
「ええ。ですが、使いすぎれば『魂』が磨耗る。……燃料切れは、即ち死を意味しますよ」
リョクシは警告するように人差し指を立てた。 そして、話題を変えるように、倒れた雷鉞の方へと視線を流す。
「さて……次は『隠蔽』と『威圧』の話でしたね」
リョクシの姿が、ふっと揺らいだ。 視界には映っている。だが、意識の焦点が合わない。 まるで、風景の一部に溶け込んだカメレオンのように、彼という存在の情報量が希薄になる。
「これが『気配を殺す』ということ。アニマの波長を環境に同調させ、敵の認識から外れる技術」
「……お前、ずっとそれを使ってたのか」
「ええ。僕は戦うのが苦手ですからね。逃げることと隠れることに関しては、プロフェッショナルですよ」
リョクシの声が、どこか遠くから響くように聞こえる。 そして次の瞬間、空気が一変した。
ドォン!
物理的な音ではない。 脳髄を直接叩くような、強烈な圧迫感。 リョクシの姿が、唐突に巨大化したように錯覚した。 彼を中心に、重力が歪んだかのような重圧が広がり、肌が粟立つ。
「ッ!?」
ランは身構えた。 敵意? 殺意? いや、これは――
「これが『存在感を際立たせる』こと。……先程、君が雷鉞を誘き寄せるために使った『釣り餌』の正体です」
リョクシは涼しい顔で、その威圧を霧散させた。 圧力が消え、ランは小さく息を吐いた。
「自分のアニマを鋭く研ぎ澄ませ、周囲に放射する。……弱者には恐怖を、強者には闘争本能を植え付ける、原始的な挑発」
「……なるほどな」
ランは拳を握りしめ、開いた。 感覚がつかめてきた。 体の中を流れる熱。それを内側に留めれば身体強化。外側に漏らせば威圧。そして、完全に消せば隠密。 単純だが、奥が深い。
「すべては『意志』の力です。……君が何を望み、どう在りたいか。そのイメージが、アニマという形をとって世界に顕現れる」
リョクシは、ランの顔を覗き込んだ。 その瞳には、教育者が教え子を見るような、あるいは研究者が被検体を見るような、冷徹な観察眼が光っていた。
「ラン、君のアニマは……非常に純粋で、凶暴だ。まるで、生まれたての星の核のように」
「……褒めてんのか?」
「ええ。最大級の賛辞ですよ。運動能力の向上も、気配遮断も、全ては根源が同じです。自身の生命エネルギー――アニマを、どのパラメータに割り振るか。それだけの話」
リョクシは、楽しげに目を細めた。
「ただ君は、その配分が極端に『生存』と『闘争』に偏っている。だから強い。……だが、使い方が雑だ。漏れ出しているエネルギー(廃熱)が多すぎる」
「うるせぇな。勝てればいいんだよ、勝てれば」
「勝てればいい? ……フフ、甘いですねぇ。それでは、これから会う『怪物』には届きませんよ」
リョクシの言葉に、ランの背筋が凍りついた。 怪物。 コイツがそう呼ぶ存在。それは、さっきの雷鉞のような単純なデカブツではないことは確かだ。
「……文圍か?」
「いいえ。文圍は……あれは『毒』ですが、怪物ではない。私が言っているのは、この城の玉座に座る、悲しき王のことですよ」
蚩尤。 その名を聞いた瞬間、ランの奥底で何かが疼いた。 恐怖ではない。共鳴。 遠い森の奥で、同格の捕食者に出会った時のような、血が沸き立つ感覚。
「アニマは『意志の力』だと言いましたね。……では、その意志が、一個人の枠を超えて、世界そのものを塗り替えるほど強大だったら? ……天候を操り、空間をねじ曲げ、因果律さえも書き換えるほどの『渇望』を持っていたら?」
リョクシの声が、低く、重くなる。
「それが、神話級のアニマ。……君が挑もうとしているのは、そういう相手です」
ランは拳を握りしめた。 指の関節が、パキパキと音を立てる。
「……上等だ。食いでがありそうだ」
「その意気や良し。……ですが、このまま階段を登っていては、日が暮れてしまいますね」
リョクシは唐突に話を切り上げると、スッと右手を差し出した。
リョクシは肩をすくめ、通路の奥――九黎城の深層へと続く闇を指差した。
「さて……座学はここまでです。これより先は、応用編といきましょう」
「あ? 歩いていくんじゃねぇのか?」
ランが問うと、リョクシは首を横に振った。
「歩いていては間に合いません。それに……この城の構造は、物理的な距離だけで測れるものじゃない」
九黎城は、増改築を繰り返した魔窟だ。 空間が歪み、重力が狂い、迷い込めば二度と出られない無限回廊が続いている。 まともに歩けば、文圍の元へ辿り着く頃には、国が一つ滅んでいるだろう。
「近道を使います」
リョクシが、ランの方へ手を差し出した。 その手は白く、細く、そしてどこかこの世ならざる冷気を漂わせていた。
「……掴まって」
「……は?」
「手です。握りなさい」
「なんで男の手なんか握らなきゃなんねぇんだよ。気持ちワリィ」
「おやおや、選り好みしている場合ですか? ……マリヤ君を助けたいのでしょう? それとも、この迷路のような城内で、また別の筋肉達磨と鬼ごっこを続けますか?」
マリヤ。 その名を出されては、ランも黙るしかなかった。 舌打ちを一つ落とし、渋々とリョクシの手を掴む。 冷たい。 リョクシの手は、死体のように冷たく、そして陶磁器のように硬質だった。
「……しっかり捕まっていてくださいね。振り落とされても、次元の狭間までは迎えに行けませんから」
「あ? 何を――」
ランが言いかけた瞬間。 世界が、裏返った。
視界が渦を巻き、色彩が溶け合う。 床も、壁も、天井も、すべてが液状化して混ざり合い、黒い穴へと吸い込まれていくような感覚。
「少し酔うかもしれませんよ。……三半規管を切っておくことをお勧めします」
「できねぇよそんなことッ!!」




