九黎城 5
『――こっちだ、デカブツ。……食えるもんなら、食ってみろ』
その瞬間。 遠くの空気が、ビリリと震えた気がした。
「……釣れましたね」
リョクシが、満足げに頷いた。
「さあ、来ますよ。……歓迎の準備を」
地響き(アースクエイク)。 最初は微かな震動だったものが、瞬く間に明確な足音へと変わる。 ズンッ。ズンッ。ズンッ。 重戦車が迫り来るような、圧倒的な質量の接近。 廊下の角から、青白い火花が散る。
「ガアアアアアアアアアッ!!」
咆哮と共に、鉄壁が砕け散った。 分厚い隔壁を紙屑のように吹き飛ばし、その男は姿を現した。
雷鉞。
その姿は、人というよりは、直立した要塞だった。 身長は二メートルを優に超え、全身を覆う筋肉の鎧は、岩盤のように隆起している。 禿げ上がった頭部には無数の傷跡が走り、ぎょろりと剥き出しになった両眼には、白目がなく、ただ赤黒い瞳孔だけが狂気の色を宿して輝いている。
そして、何よりも目を引くのは、その手に握られた異形の武器。 身の丈ほどもある、巨大な戦槌。 鉄塊をそのまま柄に突き刺したような、無骨極まりない凶器。 その表面には、紫電が走り、触れる空気さえも焼き焦がしている。
「ドコだァァッ!! 俺を呼んだのはァッ!!」
雷鉞の声は、雷鳴そのものだった。 鼓膜が破れそうなほどの音圧。 唾液を撒き散らしながら、彼は周囲を威嚇する。
「……うわぁ、デカいのが釣れたな」
ランは身構えつつも、口元に笑みを浮かべた。 これだ。この圧迫感。 蒜のような陰湿な殺意ではない。 純粋で、馬鹿正直な、暴力の権化。
「お前かァッ! 小僧ォォッ!!」
雷鉞の咆哮と共に、大気が爆ぜた。
彼は数十メートルの距離を一瞬で詰め、その勢いのままハンマーを振り下ろす。
雷鉞の視線が、ランを捉えた。 瞬間、彼の全身の筋肉が膨張し、戦槌が唸りを上げる。
「潰れろォォォォォォォッ!!」
問答無用。 挨拶代わりの一撃。 雷鉞が地面を蹴り、砲弾のように突進してくる。 振り上げられ
た戦槌が、天井の照明を粉砕しながら、ランの頭蓋を目掛けて振り下ろされた。
重力と遠心力、そして内蔵された加速装置による超質量攻撃。避ける隙などない。周囲の地面は、その風圧だけでクレーター状に陥没する。
回避? いや、間に合わない。 その攻撃範囲は、通路の幅いっぱいを埋め尽くしている。
ランは覚悟を決めて、受け止める態勢を取る――
「――無粋ですねぇ」
リョクシの声は、その破壊の嵐の中でも、耳元で囁くように明瞭に響いた。
風のような声が、ランの耳元を掠めた。
次の瞬間。 世界が、停止した。
ランの目の前。 振り下ろされた巨大な戦槌の、その直下。 いつの間にか、リョクシが立っていた。
彼は、ポケットから手を出しただけの、無防備な姿勢で。 ただ、右手を軽く、頭上に掲げていた。ただ、右手を、無造作に、ハンマーの軌道上へと差し出しただけだ。
ドォォォォン……ッ!!
衝撃音が響いたが、それは破壊の音ではなかった。 何かが、無理やり「止められた」音。
雷鉞の戦槌が、リョクシの掌の上で、静止していた。
雷鉞の放った、数トンにも及ぶ破壊のエネルギー。それが、リョクシの掌に触れた瞬間、すべてのベクトルが消失した。
ハンマーは、リョクシの手のひらに吸い付くようにして、ピタリと静止している。
火花も、衝撃波も、塵ひとつ舞わない。
ただ、リョクシの掌が触れている部分から、ハンマーの表面に「亀裂」が走り始めた。
「な……な、んだ……!? 私の……片手で……!?」
雷鉞の目が、限界まで見開かれる。 あり得ない。 自らの膂力と、戦槌の重量、そして突進の慣性。 それら全てが合わさった一撃は、城壁さえも粉砕する威力のはずだ。 それが、たった一本の、白く細い腕によって、受け止められている。
雷鉞の面頬の奥で、恐怖に満ちた瞳が揺れる。
彼は全力を込めてハンマーを引き抜こうとしたが、それはまるで、世界そのものに固定されてしまったかのように微動だにしない。
「……重いですね。肩が凝りそうだ」
リョクシは、退屈そうに呟いた。 その表情には、苦悶も、必死さも、微塵もない。 ただ、そこに落ちてきた枯れ葉を受け止めたかのような、軽やかさ。
「貴様ァッ! 何者だァッ!?」
雷鉞が吠え、さらに力を込める。 筋肉が悲鳴を上げ、血管が切れそうなほどに力む。 紫電が弾け、リョクシの掌を焼こうとする。
だが、リョクシの手は、焦げることすらなかった。 彼の掌と、戦槌の接触点。 そこに、奇妙な「歪み」が生じていた。 空間が捻じれ、力が分散されている。
「力任せに叩けばいいというものではありませんよ。……物は、壊れやすい箇所があるんです」
リョクシが、ふっと息を吐いた。 そして、掲げていた掌を、軽く、握り込んだ。
パキッ。
乾いた音がした。 氷に亀裂が入るような、繊細な音。
その亀裂は、戦槌の打撃面から始まり、瞬く間に鉄塊全体へと走った。
「え……?」
雷鉞が、間の抜けた声を漏らす。
バギィィィィィンッ!!
巨大な戦槌が、内側から弾け飛んだ。 堅牢を誇った特級合金のハンマーが、まるで乾いたビスケットのように、粉々に砕け散った。
粉々になった鉄片が、花火のように四散する。 柄だけを握りしめたまま、雷鉞は呆然と立ち尽くす。
彼の最強の武器が、素手で、握り潰されたのだ。
「……な、なにを……した……?」
雷鉞の声が震える。 恐怖。 目の前の優男から感じる、底知れぬ深淵への恐怖。
リョクシは、手についた鉄粉を払い落としながら、軽やかに振り返った。 その視線は、もはや雷鉞を見ていない。 後ろにいるランへと向けられている。
「ね? ……簡単でしょう?」
「……お前、何モンだよ」
ランもまた、口を開けていた。 今の現象は、ランの知る「強さ」の文脈にない。 速さでも、硬さでもない。 理屈そのものを書き換えるような、異質な力。
「さあ、ラン。仕上げは君の番ですよ」
リョクシが促す。 まるで、食事の最後の一口を譲るように。
雷鉞は、屈辱と恐怖で顔を真っ赤に染め上げた。 無視された。 武器を壊され、子供扱いされた。
雷鉞は、腰に佩いていた長剣を引き抜いた。 ハンマーを失っても、俺にはまだ剣がある。 この距離なら、背中を向けているあの優男の首を、一太刀で刎ねられる。
「舐めるなァァァッ!!」
雷鉞は動揺し、腰に帯びていた護身用の大剣を抜き放とうとした。
長年の戦場で培われた、死の間際の反射。
だが、リョクシは彼を見ていなかった。
彼は軽々しく、背後のランの方を振り返り、優雅に微笑んだのだ。
雷鉞が剣を抜き、振りかざす。
「死ねェッ!!」
雷鉞が踏み込む。 剣閃が、リョクシの無防備な背中へと走る。
刃がリョクシの首筋に届こうとした、その刹那。
殺った。 確信した瞬間。
ガッ。
雷鉞の動きが、糸の切れた人形のように静止した。
剣の先端は、リョクシの皮膚をかすめることすらできない。
雷鉞の動きが、止まった。 剣が何かにぶつかったのではない。 彼自身の身体が、意志を裏切って停止したのだ。
「あ……? が……っ!?」
剣を取り落とす。 カラン、と虚しい音が響く。
雷鉞は、自分の膝を見下ろした。 膝が、笑っている。 いや、砕けているわけではない。力が入らないのだ。 まるで、脳からの命令が、そこで遮断されたかのように。
ガクン。
巨体が、崩れ落ちる。 床に膝をつき、両手をつく。 土下座をするような、無様な姿勢。
「な、ん……だ……? 俺の、身体が……」
動かない。 指一本、動かせない。
彼は、リョクシが指一本触れることもなく、自身の重みに耐えきれなくなったかのように、膝から勝手に崩れ落ちた。
アスファルトに頭を打ち付け、ただ、空ろな目で空を見上げるだけの廃人へと成り果てる。
リョクシは、薄く笑った。
「そして、強いアニマは何もしなくても敵を退けられる。......さて、ラン。道は開けましたよ」
「……へっ、性格ワリィ戦い方だな」
ランが、ポツリと漏らした。
その声には、リョクシへの恐怖よりも、深い共鳴が含まれていた。
「アニマとは魂であり、生命そのもののエネルギーだ。 それは単なる破壊の道具じゃない。 傷を癒し、肉体の限界を突破し、意志の力で世界そのものを再定義するための鍵だ。 気配を消すことも、逆に太陽のように存在感を際立たせることも……すべては君の想い次第なんだよ」
ランは、崩れ落ちた猛将を見下ろし、そしてリョクシを見た。 この男の底知れなさに、改めて戦慄を覚える。 だが、同時に頼もしくもあった。
「……あんたは、うるさくない。」
「それは褒め言葉として受け取っておこう」




