九黎城 4
鉄錆とオイルの死臭が沈殿する九黎城の深層。 青白い照明が明滅し、無機質な影が脈打つように揺らめいている。 蒜と呼ばれた将軍が、瓦礫の山へと消え失せた後には、ただ静寂だけが残されていた。 それは安息ではなく、次の捕食者が現れるまでの空白に過ぎない。
ランは、足元に転がるひしゃげた鉄骨を無造作に蹴り飛ばした。 カラン、と乾いた音が、果てしなく続く回廊の闇へと吸い込まれていく。
「……で、どっちだ」
ランは鼻を鳴らし、左右に伸びる通路を交互に睨めつけた。 獣の勘は鋭いが、この城の構造は生物の理から外れすぎている。 上へ行きたいという欲求はあるが、どの穴が天に通じているのか、この鉄の迷宮は教えてくれない。
「あっちか? いや、こっちのほうが風がするな」
ランが右側の、一際暗い通路へと足を踏み出そうとした、その時だ。
「どこへ行くんだい?――そっちは廃棄孔ですよ、野生児」
背後から、温度のない、微かな「電子のささやき(ノイズ)」を孕んだ声が鼓膜を撫でた。
ランの背筋を、氷の刃が撫でる。
反応は反射だった。ランは地面を蹴り、空中で身を捻りながら着地する。着地した先は、先ほどまで蒜が歩いてきたはずの、瓦礫の堆積した死地。
そこには、誰もいなかったはずの空間に、一人の男が佇んでいた。
リョクシ。
くすんだ緑色の外套をまとい、長い前髪の隙間から、感情の読み取れない瞳が覗いている。 足音も、気配も、呼吸の音さえもしなかった。 まるで、最初からそこの影の一部であったかのように、彼はそこに“在”った。
「……テメェ」
ランは警戒心を露わにし、低く唸った。 蒜との殺し合いの最中、この男はどこにいた?それが今、唐突に、なんの脈絡もなく現れた。
「どこに隠れてやがった。……ずっと見てたのか?」
「隠れる? 心外ですねぇ」
リョクシは、細く白い指先で前髪を払った。 その動作には、戦場に似つかわしくない優雅さ
と、触れれば切れそうな鋭利さが同居している。
「僕は、ずっとここにいましたよ。君の影が床に落ちる、そのほんの数ミリ後ろにね」
「……ハッ、冗談がきついぜ。ずっといた? ……嘘だ。俺の鼻も耳も、あんたの『音』を拾わなかった」
ランは鼻で笑い飛ばそうとしたが、背筋を走る悪寒までは誤魔化せなかった。 コイツは、嘘を言っていない。 野生の直感が告げている。この男は、認識の外側に潜む術を心得ているのだと。
リョクシは、ランの警戒を意に介さず、崩れ落ちた壁の断面――ランが素手で粉砕した痕跡――に視線を走らせた。 そこには、分厚い合金の装甲が、まるで濡れた粘土のように捻じ切られ、ひしゃげている。 暴力の痕跡。 純粋な質量の奔流が通り過ぎた証左。
「それにしても……呆れるほどの破壊力だ」
リョクシの声に、微かな感嘆と、それ以上の分析的な響きが混じる。
「装甲の硬度、魔導障壁の出力、それらを全て無視して、物理的に『貫通』させている。……ねぇ、ラン」
リョクシが、ゆっくりとランの方へ向き直った。 その瞳の奥には、深淵のような静けさが湛えられている。
「それは光栄だ。君のその、原始的で、かつ純粋な感覚には敬意を払おう。だがね、ラン。君の身体能力……それは果たして、純粋な肉体の研鑽による君のその力……それは、『自然体』なのかい? それとも……無自覚なこの世界の理に触れた『アニマ』かい?」
「……あ?」
ランは眉根を寄せた。 まただ。マリヤも、あの船で戦た巨漢も、同じようなことを言っていた。 アニマ。祈り。魂の形。 そんな小難しい理屈など、知ったことではない。
「アニマだかなんだか知らねぇが……俺は、俺の身体を使ってるだけだ。腹が減れば食うし、邪魔な壁があれば壊す。それだけだ」
ランは拳を握りしめた。 節くれだった指。古傷の残る拳頭。 それは、彼が生き延びてきた歴史そのものだ。
「ふむ……理解していないのか。道理で、動きが粗いわけだ。アニマとは、この『虚空』から漏れ出す情報の残滓……いや、生命の根源的な出力のことだ。この世界、アドリムに変貌してからというもの、我々の肉体は単なるタンパク質の殻ではなくなった。感情、意志、殺意。それらすべてが、物理現象を書き換えるコードになる」
リョクシは顎に手を当て、値踏みするようにランを見つめた。
「身体操作の極致、あるいは……『存在』としての強度が異常に高いのか。面白い素材ですねぇ」
「テメェ、人を肉みてぇに言うな」
「おっと、失礼。……でもね、ラン。この先へ進むなら、ただ振り回すだけじゃ足りませんよ」
リョクシが一歩、ランに近づく。 その一歩が、奇妙なほど遠く、そして近く感じられた。 距離感が狂うような錯覚。
「君は、蒜が来た方へ行こうとしていた。……つまり、この城の『神経系』を逆流しようとしていたわけです」
「……神経?」
「ええ。将軍クラスが現れる場所は、重要区画へと繋がっている。つまり、君の勘は正しい。……ですが、このまま進めば、君は『感知』される」
リョクシが、天井を指差した。 そこには、無数の配管とセンサーが張り巡らされている。
「九黎城は生きているんです。侵入者を排除するために、免疫機能が過剰に反応している。……今の君は、暗闇の中で松明を振り回して歩いているようなものだ」
ランは不満げに口を尖らせた。
「じゃあどうすりゃいいんだよ。コソコソ隠れて進めってか? 俺はそういうのは苦手だ」
「隠れる必要はありませんよ。……ただ、『消せば』いい」
「消す?」
「気配を。殺意を。そして……『存在』の輪郭をね」
リョクシの姿が、ふっと揺らいだ。 視界から消えたわけではない。確かにそこに見えている。 だが、意識が彼を「認識」することを拒否するような、奇妙な感覚。 風景の一部。壁のシミ。空気の揺らぎ。 彼という存在が、世界の情報量の中に埋没していく。
「な……っ!?」
ランは目をこすった。 目の前にいるのに、いない。 殴ろうとしても、空振りする未来しか見えない。
「これが、『アニマ』の初歩的な応用ですよ。……内系に近いかな。自己の存在情報を希釈し、環境に同調させる。……まあ、僕の場合は少し特殊ですがね」
リョクシの声が、どこか遠くから、あるいは頭蓋骨の内側から響いてくる。
「ラン、君にも出来ますよ。……君は野生だ。森の中で獲物を待つ時、君はどうしますか? 息を殺し、心臓の音を鎮め、森そのものになりきるでしょう?」
ランの脳裏に、かつての記憶が蘇る。 深い森。湿った土の感触。 獲物が通る獣道。 風下に立ち、自分の匂いを消す。 鳥の声に耳を澄ませ、葉擦れの音に同化する。
「……ああ。やってたな」
「それです。……その感覚を、もっと鋭く、もっと深く、意識的に行うんです。……自分の『我』というノイズを消し去るように」
ランは目を閉じた。 呼吸を整える。 吸って、吐く。 肺の中の熱を冷まし、筋肉の緊張を解く。 意識を、皮膚の外側へ、空気の中へと溶かしてゆく。
(……俺は、いない。俺は、風だ。壁だ。……ここにある、ただの石ころだ)
数秒後、ランが目を開けた時、彼の纏う空気が変わっていた。 先ほどまでの、触れるもの皆傷つけるような刺々(とげとげ)しい殺気が消え、静謐な湖面のような静けさが漂っている。
「……ほう。筋がいいですね」
リョクシが、感心したように目を細めた。
「無意識に行っていたことを、意識下に置いた。……それが『制御』の第一歩です」
「……なんか、身体が軽いな」
ランは自分の手を見つめた。 力が抜けたわけではない。むしろ、必要な時に、必要な場所へ、瞬時に爆発させるための予備動作が整った感覚だ。
「さて、基本が出来たところで……次は応用といきましょうか」
リョクシが、ニヤリと口角を上げた。 その笑みは、悪戯を企む子供のようでもあり、猛毒を調合する錬金術師のようでもあった。
「感知を覚えたら、次は『逆』です。……特定の相手にだけ、自分の存在を強烈に知らせる」
「……あ?」
ランは首を傾げた。 気配を消せと言ったり、知らせろと言ったり。 この男の言うことは、まるで禅問答だ。
「釣りですよ、ラン。……この広い城内で、雑魚をいちいち相手にしていたらキリがない。だから……『大物』だけを一本釣りするんです」
リョクシが、長い指を一本立てた。
「この先、第七区画。……そこに、極めて濃密で、凶暴な『雷』の気配が澱んでいます。……おそらく、文圍の懐刀の一人でしょう」
「そいつにだけ、届くように。……君の殺意を、針のように研ぎ澄ませて、突き刺すんです」
リョクシの指導は、奇妙なほど具体的で、感覚的だった。 意識を集中し、見えない糸を手繰り寄せるように。 遠く離れた敵の鼓動を感じ取り、そこに自分の敵意を同期させる。
ランは、再び目を閉じた。 闇の中で、感覚の触手を伸ばす。 鉄の冷たさ。オイルの臭い。 その奥に、バチバチと弾けるような、焦げ付いた気配がある。
(……いた)
巨大な質量の塊。 荒々しい呼吸。 そして、底知れぬ破壊衝動。
ランは、その気配に向けて、心の中で吠えた。




