九黎城 3
背後から、低くねっとりとした声が掛かった。
マリヤは瞬時に振り返り、左肩のジッパーから拳銃を抜いて構える。
気配はなかった。いや、完全に周囲の闇に溶け込んでいたのだ。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
白衣ではなく、仕立ての良い軍服の上に、血痕のような染みがついたエプロンをつけた男。角刈りにした黒髪、無精髭、そして口にくわえた太い葉巻。趣味の悪い金色の装飾具をジャラジャラと下げていた。
その目つきは、研究者というよりは、屠殺場の解体人のそれに近かった。
「……貴方が、ここの責任者?」
マリヤは銃口をぶれさせることなく問う。
男は葉巻を口の端で転がし、紫煙を吐き出しながらニヤリと笑った。
「責任者? いやいや、俺はただの『現場監督』だよ。不良品の処分と、現場の安全管理が仕事だ」
男はゆっくりと歩み寄ってくる。その腰には、身の丈ほどもある巨大な鉈のような武器がぶら下がっていた。その動作一つ一つに、圧倒的な重量感と、暴力の匂いが漂っている。
「俺の名は半興。文圍様の忠実な番犬さ。……もっとも、最近は餌の質が悪くてね。イライラしてるところに、こんな上等な獲物が迷い込んでくるとは」
半興の視線が、マリヤの全身をねめ回す。それは異性を見る目ではなく、肉の締まり具合や骨格の強度を品定めするような、不快極まりない視線だった。
「その軍服……どこかの組織のネズミか? まあいい。ここで俺に見つかったのが運の尽きだ。お前も、あのシリンダーの中身にしてやるよ……お前も、材料に 」
半興が腰の鉈に手をかける。
マリヤは冷静に距離を測った。
(間合いは十メートル。銃撃戦なら有利。でも……)
この男からは、ただならぬ圧力が漂っている。先ほどまでの研究者気取りの態度とは裏腹に、その身のこなしは歴戦の戦士のものだ。
それに、この狭い室内で跳弾が起これば、周囲の機材や保管されている危険物がどうなるか分からない。
「……シリンダーの中身? 丁重にお断りするわ。私は閉所恐怖症なの」
マリヤは皮肉を返しつつ、左手を背中のジッパーへと回す。
「交渉決裂か。残念だ」
半興が地面を蹴った。
巨体に見合わぬ速度。一瞬で間合いを詰める。
「死ねェッ!」
鉈が横薙ぎに振るわれる。風圧だけで肌が切れそうなほどの一撃。
マリヤはバックステップで躱しつつ、トリガーを引く。
バン!
バン!
二発の銃弾が半興の胸元を狙う。だが、半興は鉈の腹を盾にしてそれを弾いた。
「軽いねぇ!」
半興の追撃。鉈を振り下ろす。床のコンクリートが豆腐のように切断される。
マリヤは側転で回避し、実験台の影に滑り込む。
「ちょこまかと……! 出てこい! 切り刻んでミンチにしてやる!」
半興が実験台を蹴り飛ばす。重量のある鉄製の台が、紙箱のように宙を舞い、壁に激突してひしゃげた。
(パワー馬鹿かと思えば、技量も高い……。厄介ね)
マリヤは呼吸を整える。
正面からの撃ち合いでは分が悪い。ならば、搦め手でいくしかない。
「『ジッパー』……展開」
マリヤが呟くと、彼女の周囲の空間に、無数の小さな「裂け目」が生じた。
それは、彼女のアニマが生み出す亜空間への入り口。
「遊びは終わりよ、解体屋さん。……貴方のその自慢の玩具、しまっておきなさい」
マリヤが指を鳴らす。
空間の裂け目から、無数の銀色の鎖が射出された。
「なっ!?」
半興が反応する間もなく、鎖は彼の四肢に絡みつき、巨大な鉈をがんじがらめにする。
「なんだ、この鎖は……!?」
「捕獲完了。……さあ、鍵を渡してもらうわよ」
マリヤが冷ややかに告げた。
だが、半興の顔には、恐怖ではなく、狂気じみた笑みが浮かんでいた。
「捕獲? ……ハッ、面白い冗談だ」
半興の全身から、どす黒いオーラが噴き出した。筋肉が膨張し、絡みついた鎖が悲鳴を上げてきしむ。
「俺を縛れる鎖なんざ、この世にねェんだよォッ!!」
パキィィィン!!
鋼鉄の鎖が、いとも容易く引きちぎられた。
「……嘘でしょ」
マリヤの目が驚愕に見開かれる。
半興は自由になった腕で鉈を構え直し、舌なめずりをした。
「さあ、第二ラウンドだ、お嬢ちゃん。……次は細切れにしてやる」
地下の研究施設に、絶望的な殺意が満ちていく。
・・・
「愚かな!」
兵士が槍を突き出す。正確無比な刺突。心臓を貫く軌道。
だが、ランは止まらない。槍の切っ先が胸板に触れる寸前、彼は上半身をあり得ない角度で捻り、紙一重で回避した。
「遅せぇんだよ!」
槍の柄を脇で挟み込み、そのまま強引に引き寄せる。兵士の体が前のめりになった瞬間、ランの右拳が兵士の顔面甲冑を粉砕した。
ゴシャッ!!
鈍い音と共に、兵士が吹き飛ぶ。
「なっ……!?」
残る三人が動揺する隙を、ランは見逃さない。
「次ッ!」
吹き飛んだ兵士の槍を奪い取り、それを棍棒のように振り回す。風を切る音が唸りを上げ、背後から迫っていた二人の兵士をまとめて薙ぎ払う。
ガギンッ!
甲冑が凹み、二人が壁に叩きつけられる。
最後の一人が恐怖に顔を歪めながらも、決死の覚悟で魔法弾を放つ。
「消えろォッ!」
青い閃光がランを襲う。
ランは避けなかった。槍を捨て、両腕をクロスさせて正面から受け止める。
ドォン!
爆炎が視界を覆う。
「やったか……?」
兵士が安堵の息を漏らした、その時。
煙の中から、無傷のランが飛び出した。焦げた皮膚からは白い煙が上がっているが、その瞳の輝きは一切陰っていない。
「熱くもねぇな」
ランの蹴りが、兵士の鳩尾に突き刺さる。
四人の側近は、瞬く間に沈黙した。
静寂が戻る。
ランは肩で息をしながら、階段の上にいる蒜を睨みつけた。
「……次は、テメェだ。目隠し野郎」
蒜は、手すりから背を離し、ゆっくりと拍手をした。
パチ、パチ、パチ。
乾いた音が響く。
「ほう、やるねえ。ただの野良犬かと思ったけど、狂犬だったか。いい牙を持っているじゃないか……だが、所詮は個の暴力。組織の前では無力だ」
側近たちを瞬殺された蒜だったが、動揺する素振りも見せずその表情に焦りはない。むしろ、ランの力を値踏みするように、楽しげに口元を歪めていた。
蒜がゆっくりと体を起こす。身の丈を越える巨大な矛を肩に担ぎ、獰猛な笑みを浮かべている。その矛の刃先には、微かな放電を繰り返す「機構」が埋め込まれていた。
「面白い。面白いぞ、小僧! その細い腕に、どれほどの怪力を隠し持っているかは知らんが……この刃に刻まれた怨嗟は、貴様の理解を超える!」
蒜が矛を大きく振りかぶると、刃の隙間から青白いプラズマが溢れ出した。
大気がイオン化し、周囲の瓦礫が静電気で浮き上がる。
「でもさ、犬は所詮、犬なんだよ」
蒜の周囲の空間が、歪み始める。
咆哮と共に放たれた一閃だった。
視界が白に染まり、轟音が世界の理を上書きする。
蒜が笑う。
だが、その光の渦の中から、ランは平然と歩み出てきた。
衣服の一部が焦げ、肌には微かな火傷がある。
しかし、彼は膝を屈していない。
それどころか、その足取りは以前よりも力強く、確かな意思を持って蒜へと近づいていく。
「それ、光ってて綺麗だけど……重いだけで、届かないよ」
「な……に……っ!?」
蒜の矛が、次の充電に入る前に、ランが懐に潜り込む。
蒜は反射的に矛の柄でランを突き飛ばそうとしたが、ランはその柄を片手で受け止めた。
ミシミシ、という金属が悲鳴を上げる音が、二人の間で鳴り響く。
「おまえの命、すごく……うるさい。自分は偉いって、ずっと叫んでる」
ランの力が、蒜の巨体を押し込み始める。
「でも、死ぬときは、みんな同じだよ」
「ふざけるな……私は、品の将軍だ! 貴様のような、どこの馬の骨とも知れぬ野良犬に――」
「おなじだよ」
ランの声が、蒜の脳内に直接響いた。
それは言語ではなく、もっと根源的な、生命の「終わり」を共有する共感覚。
蒜の脳裏に、自分が切り捨ててきた数多の兵たちの、死の間際の表情がフラッシュバックする。
恐怖。絶望。そして、空虚。
それらは個別の痛みではなく、一つの大きな「消失」へと統合されていく。
初めて、蒜の声に焦りが混じった。
自慢の能力が通じない。側近もいない。
迫りくるのは、純粋な暴力の塊。
「お前も、邪魔だ」
ランが拳を振り上げる。
その拳には、一切の慈悲も、躊躇いもなかった。
「あ、あああああ……っ!ま、待て! 話せばわか――」
蒜の言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
ドゴォォォォォォン!!
ランの右拳が、障壁ごと蒜の顔面を捉えた。
「ぶべらっ!?」
蒜の体が吹き飛び、くの字に折れ曲がり、背後の手すりを突き破って宙を舞う。背後の金属扉を突き破って、その奥の闇へと消えていく。
「さよなら。次は、もっと静かなところへ行きなよ」
崩れ落ちた廃墟の壁に叩きつけられ、将軍の灯火は、呆気なく消え失せた。
静寂が戻る。
これで邪魔者はいなくなった。
彼は、倒れた将軍や側近たちを二度と振り返ることなく、彼にとって、これは「勝利」ですらなく、ただの日常の延長線上にある。新たなノイズが世界を浸食していく。
ランが踏みしめる一歩一歩が、この死に絶えた惑星の、最後の拍動のようであった。
「さて……次はどこだ?おい、リョクシ! 生きてるか?」
ランは虚空に向かって声を張り上げた。 返事はない。ただ、蒸気の噴出音が反響するだけだ。
「……チッ。あいつ、影に溶けるとか言ってたが、本当に消えちまったのか?」
ランは鼻を鳴らす。あの陰気な男のことだ。どこかの隙間に張り付き、あるいは配管の中を鼠のように移動しているのかもしれない。あるいは、もっと別の“層”に潜り込んだか。 情報処理に長けたあの男のことだ、この状況すら計算のうちなのだろう。
「ま、いいか。邪魔がいなくて清々するぜ」
ランは思考を切り替える。仲間とはぐれた不安など、彼の辞書にはない。 目的地は上だ。文圍のいる場所へ行き、あいつをぶん殴る。そして捕まった獲物を解放する。目的は単純明快だ。
リョクシが背後からつぶやく。
「ねぇ、ラン。君の力は本当に面白い。 怒りも、恐怖も、誇りも……全部、君の前では同じ形に潰れてしまう」




