九黎城
その光景を、遠く離れた荒野から観測している者たちがいた。
北へと向かう一本道。 文圍がこじ開けた「裏のシルクロード」を、一台の巨大な装甲トラックが爆走していた。
――ガタゴト。ガタゴト。
無骨な振動と、ディーゼルエンジンの唸り声。 荒野をひた走る大型トラックの荷台は、鉄と油と、男たちの汗の臭いで満ちていた。 ランは、揺れる木箱の上に胡座をかき、窓の外を流れる荒涼とした景色を眺めていた。 隣には、漆黒の軍服に身を包んだマリアが、腕を組んで目を閉じている。その身体中を走る無数のジッパーが、走行の振動に合わせて微かな金属音を奏でていた。
「……おい、リョクシ。まだ着かねぇのか」
ランが、運転席に向かって吠える。 運転席には、リョクシと呼ばれた男がハンドルを握っていた。常にどこか遠くを見ているようで、それでいて全てを見通しているような、底知れぬ知性を宿している。 彼はバックミラー越しにランを一瞥し、人の好さそうな、しかしどこか食えない笑みを浮かべた。
「焦るなよ、野生児。九黎城は逃げやしないさ。……もっとも、中の連中が逃げ出していなければの話だがね」
「逃げる? あの蚩尤ってのがか? 笑わせるな」
ランは鼻を鳴らす。 彼の野生の勘が告げている。あの男は、決して背を見せない。獲物が来るのを、牙を研いで待っている類の獣だ。
「違いない」
リョクシはハンドルを切る。トラックが大きく傾き、タイヤが砂利を噛む音が響く。
「だが、状況は動いた。……いいか、よく聞けよ」
リョクシの声色が、ふと真面目なものに変わる。
「たった今入った情報だ。品の将軍、百渡が動いた。奴は、全戦力を投入して反乱軍を叩き潰すつもりだ。……四凶も含めてな」
「どういうことよ、リョクシ」
マリアの目が、パチリと開かれた。その瞳に、冷徹な計算の光が宿る。
「荊州城で火の手が上がりました。高旗たちが仕掛けたようです。……が、旋律が変わった。重低音が効きすぎている」
マリヤが身を乗り出す。
「四凶……。あの化け物共が、ついに檻から放たれたってわけね」
「つまり?」
「つまり……『玄関』ががら空きだってことですよ。番犬たちは全員、庭のネズミ退治に夢中だ。本丸にいるのは、眠れる獅子(蚩尤)と、囚われの姫君だけ」
「ああ。檮杌、混沌、窮奇。それに華凰正規軍の敗残兵・・・いわゆる捕虜だ。……まともにぶつかれば、髙旗たちに勝ち目はない。すり潰されて終わりだ。九黎城は今、空っぽですよ。中身を全部、外にぶちまけた状態だ」
リョクシは淡々と、しかし残酷な事実を告げる。 だが、その言葉を聞いたランの顔に浮かんだのは、絶望ではなかった。 獰猛な、捕食者の笑み。 金色の瞳孔が、興奮に収縮する。
「……チャンスか。へっ、面白ぇじゃねぇか」
ランは立ち上がり、天井の鉄板を拳で叩いた。
「化け物が巣から出てきたってことは、巣は空っぽに近ぇってことだろ?」
「……ほう?」
リョクシが感心したように眉を上げる。
「ええ、大好機です。今なら、真正面から突っ込んでも、誰にも止められませんよ。百渡は怒りに任せて、守りを捨てて攻めに出た。九黎城の本丸は今、手薄だ。……もっとも、空っぽと言っても、そこには“王”がいるがね」
蚩尤。 全ての元凶であり、最強の障害。 だが、ランにとっては、それこそが最高の獲物だった。
「上等だ! 雑魚がうじゃうじゃいるより、デカいのが一匹の方が、狩り甲斐があるってもんだ!」
マリアもまた、口元に薄い笑みを浮かべていた。 彼女の指先が、胸元のジッパーを愛撫するようになぞる。
「合理的ね。敵の主力が外に出ている間に、心臓部を叩く。……リスクは高いけど、リターン(見返り)も大きいわ」
彼女たちの目的は、この狂った戦争を終わらせること。そのための最短ルート(ショートカット)が、今、目の前に開かれたのだ。
「リョクシ! アクセル踏み込め! 九黎城までノンストップだ!」
ランが叫ぶ。
「言われなくても!」
マリヤが応じると、リョクシは「はいよ、お客さん」と軽く答え、アクセルペダルを床まで踏み抜いた。 エンジンが咆哮を上げる。黒い排気ガスを撒き散らしながら、鉄の獣は荒野を切り裂いて加速した。 目指すは九黎城。 伝説の奥底で待つ、最強の鬼神の元へ。 運命の歯車が、狂った速度で回転を始めていた。
灰色の海だった。海といっても、そこに水はない。かつて文明の澱として堆積した瓦礫、鉄骨、そして人々の生活の残滓が、巨大な暴力によって平され、強制的に「無」へと還元された更地である。地平の果てまで続くその灰色の平野は、まるで神が定規で引いたかのように不自然な水平線を描いていた。
風が吹くと、細かいコンクリートの粉塵が舞い上がり、視界を白く濁らせる。その乾いた荒野を、一台の大型輸送車両が疾走していた。
旧時代の軍用トラックを無理やり民間仕様に偽装したような、歪なシルエット。錆びついた装甲板の上から、さらに鉄板を溶接して補強されたそのボディは、もはや元の形状を留めていない。六つのタイヤは、硬化した地面を噛むたびに、低い唸り声を上げていた。
黒鉄の巨獣は、大地に刻まれた傷跡のような道を、ただひたすらに貪るように疾走していた。
車輪が踏み砕くのは、かつて岩盤であり、森であり、生命の苗床であった場所だ。それらは高熱で溶解され、冷え固まり、黒曜石の如き滑らかさと冷たさを持つ「人工の動脈」へと変貌していた。排気管が吐き出す青白い蒸気は、森の緑を侵食する毒素であり、同時にこの鉄塊を生かし続ける血液の残滓でもあった。
運転席には人影はなく、自動操縦を示す緑色のLEDだけが、無機質に明滅していた。アクセルペダルは床まで踏み込まれ、エンジンは悲鳴のような高回転音を奏でている。だが、その音も広大な更地の中では、蚊の羽音ほどにしか響かない。
やがて、フロントガラスの向こう、灰色の地平線に、異質な隆起が現れた。
最初は蜃気楼のように揺らめいていたその影は、距離が縮まるにつれて、圧倒的な質量を持った「壁」へと変貌する。
地平線の彼方、陽炎の向こうに、異形の墓標群が姿を現していた。
重慶。
華凰の欲望と通貨が血液のように循環する巨大都市。
かつての地形を無視し、文明の記憶を悪夢として再構築したかのような威容を誇っていた。天を衝く摩天楼の群れ。錆びついた鉄骨と、ひび割れた強化ガラス、そして脈打つように明滅するネオンの光が、腐肉に群がる蛍のように都市の輪郭を縁取っている。
それは、ポストアポカリプスの荒廃した大地に突き刺さった、巨大な棘のよう。
外壁には無数の配管が血管のように這い回り、蒸気とネオンサインが都市全体を極彩色の霧で包み込んでいる。紫、極彩色、毒々しい緑。それらの光は、荒野の灰色とは対照的に、暴力的なまでの「生」を主張していた。
トラックの荷台には、文圍の刻印――「桃を持った猿」が、不敵な笑みを浮かべて描かれている。その印は、この車両が誰の所有物であり、この道が誰のために切り開かれたのかを、無言のうちに誇示していた。
道は一直線だった。
地形を無視し、起伏を削り取り、ただ効率のみを追求して敷設された「文圍の道」。それは都市の入り口で減速することなく、むしろ加速するための滑走路のように機能していた。
重慶の街並みが迫る。
都市の境界線には、かつて検問所があったはずの痕跡があるが、今は何もない。ただ、道路のアスファルトが、ひび割れた荒地から、滑らかな強化樹脂へと変わるだけだ。タイヤの走行音が、低音の唸りから、ヒュンヒュンという鋭い摩擦音へと変化する。
ここから先は、文圍の庭だ。饕餮の名を冠する男が支配する、飽食と搾取の迷宮。
トラックのフロントガラスに、都市の光が反射し、猿のマークがニタリと笑ったように見えた。
都市内部に入ると、風景は劇的に変化した。
左右に流れるのは、スラム化した旧市街の残骸だ。崩れ落ちたコンクリートの壁にへばりつくようにして暮らす人々が、轟音を上げて通過するトラックを、虚ろな目で見上げていた。彼らは知っているのだ。この「桃を持った猿」のトラックが通る時、それは支配者の意志が通る時であることを。道を塞げば轢き殺され、声を上げれば消される。それが、この都市のルール(理)だった。
ここは都市の最下層。
富裕層が捨てた排気ガスと、生活排水(汚水)が重力に従って降り注ぐ場所。
ビルの谷間は常に薄暗く、太陽の光は遥か上空の広告用ホログラムに遮られて届かない。湿度は高く、油と香辛料、そして腐敗した有機物の臭いが入り混じった、独特の都市臭が充満している。
だが、道は異様に真っ直ぐだった。
かつてこの地にあった複雑な路地や、人々が営んでいた商店街、猥雑な市場。それらすべてが、「区画整理」という名の下に消滅していた。
効率。速度。物流。
文圍の支配において、迷い道は許されない。利益は最短距離で輸送されなければならないのだ。
トラックの自動操縦システム(AI)は、路面に埋め込まれた誘導磁気に従い、一切のステアリング操作なしに直進を続ける。ハンドルは固定され、まるでレールの上を走るトロッコのように、車両は運命に拘束されていた。
左右の車窓を流れるのは、画一的な居住区画の壁だ。窓のない灰色の壁が、延々と続く。そこにはかつて人が住んでいた温もりはなく、ただ労働力を保管するための棚としての機能だけが存在していた。
「到着予定時刻(ETA)、修正。誤差、ゼロ」
車内のスピーカーから、合成音声が流れる。
トラックは、都市の中心部、そのさらに奥深くにある「九黎城」の領域へと吸い込まれていく。
高架道路の先、都市の中心に鎮座するのは、周囲のビル群すら及ばぬ巨大な要塞建築だった。
九黎城。
かつて戦神・蚩尤が拠点とした伝説の地名を冠したその場所は、今や文圍の私的な要塞と化していた。
周囲の建物が徐々に低くなり、代わりに巨大な防壁が姿を現す。
それは城というよりは、巨大な工場と宮殿を悪魔合体させたような醜悪な美しさを持っていた。黒い煙を吐き出す煙突群と、金箔を施された屋根瓦。むき出しのパイプラインと、精緻な彫刻が施された石柱。相反する要素が、強引な力技で接合されている。
トラックは、その城の巨大な顎へと吸い込まれていく。
検問はない。この車両に描かれた「猿」の紋章こそが、最高位の通行手形なのだ。鋼鉄の扉が重々しい音を立てて左右に開き、鉄の獣をその胎内へと迎え入れた。
トラックは何の躊躇もなく、その口腔へと飛び込んでいく。
闇。
そして、静寂。
外部の騒音が嘘のように消え失せ、タイヤが鳴らす走行音だけが、高い天井に反響する。
ここは屋敷の地下搬入路。
トンネルの内壁には、青白い照明が等間隔に配置され、それが超高速で後方へと流れていく様は、まるでタイムトンネルを抜けているかのような錯覚を覚えさせる。
トラックの荷台の中で、暗闇に潜む「積荷」たちが、静かに息を潜めていた。
木箱やコンテナの隙間。そこに、人の気配がある。
「……随分と、趣味の悪い道だ」
微かな声が、エンジンの振動に紛れて漏れた。
その声には、冷ややかな軽蔑と、研ぎ澄まされた刃物のような緊張感が宿っている。
トラックが減速を始める。
前方に見えるのは、広大な地下ドック。
そこには、すでに数台の同型トラックが停車しており、無数の作業用ドローン(働き蜂)が、忙しなく物資を積み下ろしていた。
プシューッ……。
排気の余韻が、冷たいコンクリートの壁に反響す
エアブレーキの排気音が、地下空間に鋭く響き渡る。
トラックは、広大な地下搬入路を滑走し、やがて油圧式ブレーキの唸りと共に指定された白線の上に、ミリ単位の狂いもなく停車した。
エンジンが停止する。
冷却ファンが回る余韻だけが残る。
そして、その奥に広がる、人工照明の海。
そこは、九黎城の最深部、文圍が収集した「富」が、世界中から流れ着く物流の集積所だった。
「……着いたな」
運転席の後ろ、影の中からリョクシの声が響く。彼はいつものように気配を殺し、トラックの一部になりすましていたかのように、ぬらりと姿を現した。
「……趣味の悪い場所ね」
マリヤが冷ややかに吐き捨てる。
「鉄と油の臭いが充満しているわ。それに、この空気……」
「ああ。腐った肉を香水で隠したような臭いだ」
ランが鼻をひくつかせる。




