荊州城の戦い
荊州城。
品の国における軍事の要衝であり、鉄と蒸気、そして汚濁した欲望が複雑怪奇に絡み合う魔窟である。城壁は黒ずんだ鉄板で補強され、至る所から噴き出す排気ガスが空を鉛色に染め上げている。
品の軍勢が駐留して以来、城壁の威容はそのままに、内部では極彩色の毒花が咲き乱れるような退廃が支配している。 その中枢、太守の間。 豪奢な調度品が並ぶ執務室に、硝子の破砕音が神経質に響き渡った。
「武漢が……堕ちただと……?」
百渡の絶叫が、石造りの壁を震わせる。 彼は品の国を統べる「十二神獣」の一角、文圍の忠実な手駒である。百渡の声は、怒りというよりも、理解の範疇を超えた事象に対する恐怖で震えていた。 投げつけられたワイングラスが床で赤い飛沫を上げ、高級な絨毯を汚していく。その赤は、彼の脳裏に焼き付いている戦場の惨劇を連想させた。 跪く伝令兵は、泥と脂汗に塗れ、言葉を紡ぐのもやっとの状態だった。
「は、はい……。建文率いる尊の正規軍と、現地の義勇兵が合流……。その数、万を超えると……。尊の軍勢による急襲を受け、武漢の守備隊は、半日も持たずに壊滅いたしました。武漢は完全に制圧されました」
「半日だと!? あの要害が、たかだか敗残兵の寄せ集めに!?」
「は、はい……。守備隊は半日で壊滅……。」
伝令兵が額を床に擦り付けんばかりに平伏し、震える声で報告する。 武漢は百渡にとってただの領地ではない。そこは資金源であり、兵站の心臓部であり、何より文圍に対し己の有用性を示すための重要な「財布」であった。それが失われた。百渡は執務机を拳で叩きつけた。文官上がりの細い指には似つかわしくない、憎悪によって増幅された膂力。 彼は、尊の者たちを憎んでいた。かつて味わわされた屈辱。見下された記憶。それらを晴らすために、文圍に取り入り、魂を売ってまで軍権を手にしたのだ。 それなのに。
「ええい、役立たずどもめが! 貴様ら、それでも軍人か! 湖の国を喰らい、尊を飲み込むはずの我が軍が、あのような田舎侍どもに後れを取るなど……!」
「しかも……報告によれば、建文軍は、この荊州城には目もくれず……」
伝令兵が言い淀む。その先にある言葉が、百渡のプライドを最も逆撫でするものだと知っていたからだ。死を覚悟したような悲壮な面持ちで進み出る。
「言えッ!」
「……はっ! 尊の軍勢、その先鋒と思わしき部隊が……建文軍は、荊州を『無視』し、そのまま北上を続けております! 目標は……おそらく、未だ帰属の定まらぬ北方の諸侯たちかと!」
無視。 その二文字が、百渡の理性を焼き切った。 恐れをなして攻めてこないのではない。眼中にないのだ。この百渡が守る荊州など、戦略上の価値すらない障害物だと断じられたのだ。 屈辱が、胃の腑からせり上がり、喉元を灼く。
百渡は手近にあった青磁の壺を蹴り飛ばした。砕け散る破片の音が、家臣たちの心臓を縮み上がらせる。 彼の脳裏をよぎるのは、文圍の冷徹な笑顔だ。『無能な部下をどう処理するか』。その想像だけで、百渡の背筋には氷柱が突き刺さるような悪寒が走る。
「おのれ……おのれぇッ! 建文! 建岱の息子風情が! 私を、この百渡を無視するなど……断じて許さん! 許されてなるものかァッ!」
百渡は狂ったように叫び、壁に掛けられた古地図を引き裂いた。 北へ向かうということは、勢力を拡大し、より強大な軍団となって戻ってくるということだ。そうなれば、荊州などひとたまりもない。 焦燥が、冷たい汗となって背筋を伝う。 今、叩かねばならない。奴らが背中を見せている今こそが、唯一の勝機であり、私の価値を証明する絶好の舞台なのだ。
「……兵を出す。ええい、構わん! 北だ! 全軍だ! 追撃し、背後から食い破ってやる!」
「し、しかし閣下! 現在、城内の兵力は分散しており、直ちに動かせるのは……」
「黙れ! 誰が私の兵だけで戦うと言った?金で雇った傭兵、罪人、奴隷、使えるものはすべて使え! 数で押し潰してくれるわ!」
百渡の瞳に、暗く濁った光が宿る。 それは、禁忌に手を染める者の眼差しだった。 彼には、切り札がある。文圍から預かった、制御不能の災厄たちが。
「……あの方々にお出まし願う。文圍様より借り受けた、最強の『道具』たちにな」
百渡は乱れた衣を正すと、大股で部屋を出た。向かう先は、城内で最も豪奢で、そして最も忌まわしい場所――「貴賓室(VIPルーム)」だ。
重厚な扉の向こうから、甘美な音楽と、獣の唸り声のような笑い声が漏れ聞こえてくる。 百渡は一瞬、扉の前で躊躇った。その中にいるのは、人ではない。人の形をした、純粋な暴力の概念だ。文官としての本能が、関わるなと警鐘を鳴らす。だが、復讐心がそれをねじ伏せた。 意を決して扉を開く。
むせ返るような酒気と、頽廃的な香油の匂い。 広大な室内は、酒池肉林と化していた。 絹のクッションに身を沈め、半裸の美女たちを侍らせているのは、四凶の三人。
「うははは! いいぞ、もっと注げ! この世の憂さを、全て飲み干してやる!」
白蓮――混沌が、硝子の杯を掲げて笑う。その整った顔立ちは、酔いと狂気で妖しく歪んでいる。彼の周囲では、美女たちが怯えながらも媚びを売り、その肢体を差し出している。 部屋の隅では、岩塊のような巨躯を持つ檮杌が、大樽ごとの酒を煽っていた。彼は言葉を発しない。ただ、破壊への渇望を酒で紛らわせているかのような、重苦しい沈黙を纏っている。 そして、部屋の中央。 窮奇が、食い散らかした果実のように女たちを放り出し、気怠げに百渡を見上げた。
「……あァ? なんだ、しけた面して。酒が不味くなるだろうが、元・文官様よォ」
その爬虫類めいた瞳に射抜かれ、百渡は思わず後退りそうになった。だが、彼は必死に虚勢を張り、声を張り上げた。
「宴は終わりだ! 貴公ら、出番だぞ!」
「あァ? 聞こえねぇな。俺たちは文圍の旦那に『休暇』を貰ってるんだ。テメェの指図なんざ受ける義理はねぇ」
窮奇が鼻で笑う。白蓮もまた、興味なさそうに女の髪を弄んでいる。 百渡の額に青筋が浮かぶ。この化け物どもは、私を対等な人間とすら見ていない。ただの給仕係程度にしか思っていないのだ。
「……建文だ。建文の軍が、すぐそこまで来ている」
百渡は切り札を切った。 その名が出た瞬間、場の空気が凍りついた。 白蓮の手が止まる。檮杌が酒樽を置く。窮奇の瞳孔が、針のように収縮する。
「……建文、だと?」
「そうだ。奴らは我々を無視し、北へ向かっている。……貴公らが恐ろしくて、逃げ出したのかもしれんがな」
百渡は煽った。彼らの肥大化したプライドを刺激することだけが、この猛獣たちを動かす唯一の手綱だと知っていたからだ。
「逃げた、だと? ……うはは、傑作だ」
白蓮がゆらりと立ち上がる。その手から杯が滑り落ち、床で砕け散った。
「退屈で死にそうだったんだ。……いいぜ、少し遊んでやるか」
窮奇もまた、凶悪な笑みを浮かべて立ち上がった。その全身から、どす黒い闘気が立ち昇る。
「無視されるってのは、一番ムカつくんだよなァ。……おい、檮杌。準備運動の時間だぜ」
巨岩が動く。檮杌が立ち上がると、それだけで床が悲鳴を上げた。 百渡は安堵の息を漏らすと同時に、暗い愉悦に浸った。 これで勝てる。この災厄たちが通った後には、建文軍など塵一つ残らないだろう。
「さあ、行こうか! 蹂躙の始まりだ!」
百渡が高らかに宣言しようとした、その時だった。
――ドォォォォン!!
腹に響くような爆発音が、城の北西から轟いた。 窓ガラスがビリビリと震え、貴賓室のシャンデリアが揺れる。
「な、なんだ!?」
百渡が窓へ駆け寄る。 北西の方角。そこにあるのは、捕虜や罪人たちを収容していた「区画E」。 そこから、黒い煙が天へと昇っていた。 ただの火事ではない。狼煙だ。 反逆の、狼煙。
「な、なんだ!? 失火か!?……まさか」
百渡の顔から血の気が引く。 外からの敵に目を奪われている間に、内側から腹を食い破られたのか。 煙の向こうから、地鳴りのような歓声が聞こえてくる。それは、抑圧された者たちが解き放たれた瞬間の、爆発的なエネルギーの奔流だった。
城壁の上で見張りをしていた兵士が叫ぶ。 その煙は、ただの火災ではない。何かが爆発し、何かが解き放たれた合図のように、天に向かって真っ直ぐに伸びていた。
区画E。 そこは、荊州城の汚物溜であり、百渡の恐怖政治の象徴だった。 薄暗い地下牢、悪臭漂う収容所。そこには、品に敗れた敗残兵、無実の罪で捕らえられた市民、そして尊の捕虜たちが、家畜以下の扱いで押し込められていた。 だが今、その場所は「革命の震源地」と化していた。
爆破された正門から、熱気が噴き出す。 看守たちが逃げ惑う中、煤と埃に塗れた一人の男が、瓦礫に片足を乗せて立っていた。 髙旗。 粗末な衣服に身を包んでいるが、その瞳に宿る輝きは、どんな宝石よりも鮮烈だ。彼の手には、奪ったばかりの剣が握られている。
「――ヒャッハー! 聞けぇッ! 野郎共ッ!!お前ら、起きろ起きろ! いつまで寝てんだ、このウスノロどもが!」




