高旗の狼煙
静寂は、唐突に破られた。 寝所の扉が、乱暴に叩かれることもなく、音もなくスライドする。 影のように滑り込んできたのは、四凶の一角、窮奇であった。 常ならば飄々(ひょうひょう)とした笑みを浮かべる男の顔に、今は鋭利な刃物のような緊張が走っている。 蚩尤は跳ね起きなかった。ただ、閉じていた瞼をわずかに開け、金色の瞳孔を暗闇の中でギラリと光らせただけだ。それだけで、空間の温度が数度下がったような圧力が生まれる。 桔妃もまた、身じろぎもせずにその気配を感じ取っていた。
「……報告しろ」
蚩尤の声は、寝起きの緩慢さを微塵も含んでいない。既に戦場のスイッチが入っている。
「狼煙が上がったぜ、大将」
窮奇が、ニヤリと唇を歪めた。その笑みは、凶報を楽しむ捕食者のそれだ。
「東だ。髙旗とかいう跳ねっ返りが、義勇兵を纏めて蜂起しやがった。規模はデカい。ただの農民一揆じゃねぇぞ」
髙旗。その名に、桔妃の眉が微かに動く。 民草の中から現れた、名もなき英雄。かつて圧政に抗い、自由を叫んだ男。 彼が動いた。それは即ち、この国の底流に溜まっていたマグマが、ついに地表を突き破ったことを意味する。
「それだけじゃねぇ」
窮奇は言葉を継ぐ。
「奴らのバックに、尊の正規軍がついてやがる。旗印は……建文。あの堅物王子の御出座しだ」
建文。建岱の息子。 冷静沈着にして、情熱を内に秘めた若き虎。 彼が髙旗と手を組んだ。それは、民衆の怒りと、王族の正統性が融合したことを意味する。最強の、そして最悪の化学反応。
「……尊の王族は?」
桔妃が、シーツを胸元まで引き上げながら問うた。その声には、君主としての冷徹さが戻りつつある。
「救い出されたそうだ。品の軍勢が包囲していたはずだが、髙旗の奴ら、鮮やかに裏をかきやがった。風のように現れて、風のように去る。ゲリラ戦の極意ってやつだな」
品からの進軍は、破竹の勢いだったはずだ。だが、その巨大な質量ゆえに、小回りの利く義勇兵の機動力に翻弄されたか。 歴史が、動いている。 この閉ざされた寝所の中とは対照的に、外の世界では血と鉄の嵐が吹き荒れている。
「……面白い」
蚩尤が、低く嗤った。 寝台から降り、鎧を再び身に纏う。カチャリ、カチャリと、金属が噛み合う音が、死へのカウントダウンのように響く。
「百渡はどうした?」
品の将軍。かつて文官でありながら、復讐心だけで軍を膨れ上がらせた男。 彼がこの失態を黙って見過ごすはずがない。
「ああ、そいつが一番の傑作だ」
窮奇が大袈裟に肩を竦める。
「百渡の野郎、完全にブチ切れだ。自ら失態の責任を取って大将として出張り直すとよ。……だがな、連れて行くメンツが尋常じゃねぇ」
窮奇の爬虫類めいた瞳が、愉悦に細められた。
「檮杌。混沌。それに俺、窮奇。……四凶揃い踏みだ。加えて、大将の『古の兵』と、正規軍の敗残奴隷兵共を全部引き連れて、汚名返上ときたもんだ」
桔妃が息を呑んだ。 それは軍隊ではない。 災厄だ。 神話の時代に封印されたはずの怪物たち。死を恐れぬ亡霊の軍勢。そして、使い捨てにされる奴隷たちの絶望。 それらが一つの塊となって、髙旗や建文たちに襲いかかる。 勝敗などという次元の話ではない。それは、一方的な蹂躙であり、世界の終わり-アポカリプス-の再現だ。
「……行くのか」
桔妃の問いに、蚩尤は兜を小脇に抱え、振り返った。
「俺は俺の仕事を熟すだけだ。……お前はここで待っていろ」
それは、先ほどの「側にいて」という懇願に対する、彼なりの拒絶であり、同時に守護の誓いでもあった。 戦場は俺が引き受ける。だからお前は、その綺麗な手を汚さずにいろ、と。 蚩尤と窮奇が部屋を出ていく。 残された桔妃は、再び訪れた静寂の中で、己の拳を固く握りしめた。爪が皮膚を突き破り、一筋の血が流れる。その痛みが、彼女を現実に繋ぎ止めていた。
尊の明胡城から遥か西、九黎城から東の旧・湖の国。そして税の国・武漢城。
「――起きろ! 寝てる場合じゃねぇぞ、ウスノロども!」
罵声と共に、粗末な木製の扉が蹴破られた。 場所は武漢城の城下、スラム街の一角に隠された地下倉庫。 湿気とカビの臭いが充満するその場所に、場違いなほど派手な民族衣装を纏った男が立っていた。
高旗。 だらしなく伸ばした髪を掻きむしり、女物の香水の香りを漂わせながら、彼はニヤニヤと笑っている。
「へっ、英雄・蚩尤サマが女とイチャついてる間に、こっちは祭りの準備だぜ!」
倉庫の中には、数百人の男たちが息を潜めていた。 尊の国の敗残兵。 文圍の圧政に耐えかねた義勇兵。 そして、その中心にいるのは、まだあどけなさの残る青年――建文王子だった。
「高旗殿……本当に、今なのですか?」
建文が不安げに問う。 彼は父・建岱を失い、国を追われ、泥水をすするような逃亡生活の末に、この地下へと流れ着いていた。かつての精悍さは影を潜め、瞳には疲労の色が濃い。
「今しかねぇよ、ボンボン」
高旗は懐からクシャクシャになった羊皮紙を取り出し、建文の胸に押し付けた。
「見ろよ、これ。正規軍の配置図だ。あの馬鹿でかい大戦の後だぜ? 兵士どもは疲れ切って、酒飲んで寝こけてやがる。武漢城の守りは、今が一番薄い『ザル』状態だ」
「し、しかし……九黎城には四凶がいるのでは……」
「いるさ。だがな、全員が万全じゃねぇ。橈骨は戦車の受け止めすぎで腕がイカれてる。窮奇は遊びすぎてガス欠だ。白蓮に至っちゃ、どっかへふらっと消えちまった」
高旗は嘘をついている。 四凶がそう簡単に弱体化するわけがない。だが、人を動かすために必要なのは、真実ではなく「勝てると思わせる熱狂」だと知っている。
「それに何より、アンタにゃ『味方』がいる」
高旗が指を鳴らすと、倉庫の奥から一人の巨漢がぬっと現れた。 酎畝。 高旗の親友にして、歩く破壊兵器。
「俺たちが道を開く。アンタはただ、その御立派な血筋を見せびらかして、尊の民を救い出せばいい。そうすりゃ、勝手に火は燃え広がる」
「……わかった。やりましょう」
建文が剣を握りしめる。その目に、微かに王族としての矜持が戻った。
「よっしゃ! 野郎ども、反乱の時間だ! 文圍の野郎に、特大の『お礼参り』をかましてやろうぜェ!!」
高旗の号令と共に、地下倉庫から喊声が上がった。 それは武漢城の地下水脈を伝い、都市の各所でマンホールを吹き飛ばす爆発音へと変わった。
ドォォォォン!!
夜空に紅蓮の炎が上がる。 警報の鐘が乱打され、寝静まっていた街が悲鳴で叩き起こされる。
「敵襲! 敵襲ゥゥッ!」 「どこからだ!? 数は!?」 「地下だ! 至る所から湧いてくるぞ!」
正規軍の兵士たちが慌てて武具を掴むが、高旗の手配した義勇兵たちは、路地裏や屋根の上、ありとあらゆる死角から襲いかかった。 真正面からの会戦ではない。泥臭く、卑怯で、それゆえに効果的な市街戦。
その混乱の中、建文率いる尊の残党部隊が、収容所へと突入する。 囚われていた尊の王族や貴族たちが、次々と解放されていく。鎖が切られ、剣が手渡される。 守られるべき「荷物」が、瞬く間に「兵力」へと変わっていく。
「進め! 父・建岱の無念を晴らすのだ!」
建文の叫びが、兵士たちの士気を爆発させた。 反乱の狼煙は、もはや鎮火不可能な業火となって武漢城を焼き始めていた。




