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or  作者: 真亭甘
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伝説の奥底

九黎城きゅうれいじょう。 品の国が誇る首都にして、鉄と蒸気と呪術が複雑に絡み合い、地殻から滲み出るうみのように築かれた魔都である。

大戦の熱が未だ冷めやらぬ夜気の中、凱旋の蹄音ていおんはとうに止み、今はただ、重苦しい静寂が城内を支配していた。石畳は月光を吸い込み、どこか血の色を含んだ濡羽色に沈んでいる。

回廊を歩む足音が一組だけ、規則正しく響いていた。 蚩尤シユウである。 かつて「兵主神」と怖れられ、神話の時代に葬られたはずの男。その腕の中には、ひとりの女が抱えられていた。

桔妃キキ。 洛陽城の主にして、先の戦で兄を失い、国を失い、そして己の魂の拠り所さえも戦火に焼かれた姫。

蚩尤の腕は鋼鉄のように揺るぎなく、それでいて、壊れ物を扱うような慎重さで彼女を支えていた。戦場で数多の命を奪ったその手は、今はただ、ひとつの体温を守るためだけに存在しているかのように錯覚させる。



「……降ろして」



桔妃の声は、枯れた花弁が擦れるような音だった。 蚩尤は立ち止まらず、視線を前方に向けたまま答える。



「足元が悪い。瓦礫ガレキと、死臭オモイデが残っている」



「私は……歩けるわ。もう、人形じゃないもの」



「ああ。お前は人形ではない。だが、今は俺が運びたい気分なんだ」



蚩尤の言葉には、拒絶を許さない絶対的な響きと、奇妙なほどの温もりが同居していた。それは強者の傲慢ではなく、深い井戸の底から湧き出るような、静謐な庇護の意志だ。

後宮ハレムへの扉が開かれる。 そこは、戦火の爪痕が比較的浅い場所だった。豪奢な絹のカーテン、異国の香炉から立ち昇る甘い煙、そして、主を失ったまま時を止めた調度品たち。

蚩尤は寝台ベッドの縁に、桔妃をそっと座らせた。 絹のシーツが衣擦れの音を立てる。その乾いた音が、桔妃の鼓膜を不快に叩いた。


(……ああ、嫌だ)


桔妃は、自身の震える指先を膝の上で強く握りしめた。 瞼を閉じれば、そこに焼き付いているのは、極彩色の悪夢だ。

魏趙平原の泥濘ぬかるみ。 兄であったはずの雷誠ライセイが、肉塊と化して命乞いをする無様な姿。 そして、優しかった晴洋セイヨウ兄様が、無数の刃となって空に散った瞬間。

『俺を助けろ! 命令だ! この売女バイタが!』

雷誠の罵倒が、呪詛ノイズとなって脳髄を駆け巡る。 幼き日、花束を踏みにじられたあの庭の記憶。蹴り上げられた痛み。 「女など、媚びて身体を開けばいい」と吐き捨てられた、唾棄すべき価値観。


(私は……あの時と、何も変わっていない)


蚩尤に抱きかかえられ、ここへ運ばれてきた自分。 それは結局、強い男に庇護されなければ生きられない、無力な「女」という役割ロールを演じているだけではないのか。



「……休め。夜は長い誰も入らせない」



蚩尤が背を向けた。 その背中は広く、あまりにも強大で、そして冷たいほどに「個」として完成されていた。誰の助けも必要としない、独りだけで完結した強さ。それが、今の桔妃にはまぶしく、そして残酷なほどに遠い。決定的に孤独だった。 なのに彼は何も求めない。見返りも、肉体も、感謝さえも。ただ、そこに「在る」だけで世界を歪めるほどの重力を持っている。

その背中が、遠ざかる。 行ってしまう。 この部屋に、私と、死んだ兄たちの亡霊だけを残して。




「――待って」



その言葉は桔妃の口から、意志とは裏腹に思考するよりも先に唇を言葉が滑り落ちた。

伸ばした手が、蚩尤の黒い軍衣の袖を掴んでいた。爪が白くなるほどに強く。布が悲鳴を上げるほどに、必死に。蚩尤が足を止める。振り返りもせず、ただその場に立ち尽くす。ただ、袖を掴まれた感触を確かめるように、わずかに肩を傾けただけだ。桔妃ののど痙攣けいれんした。言わなければよかった。頼ること。すがること。それは、かつて自分を道具として利用し、無力な女として支配しようとした雷誠の論理ロジックを、自ら肯定することになるのではないか。女は男に守られるもの。弱き者は強き者にかしずくもの。そんなのろいじみた価値観に、つばを吐きかけて生きてきたはずだった。だが、今の自分はどうだ。恐怖に震え、孤独におびえ、目の前の暴力装置おとこ安寧あんねいを求めている。彼女は懇願こんがん眼差まなざしを向けていた。その姿は、あまりにもなまめかしく、そして痛々しい。



「……何だ」



「行かないで……。一人に、しないで……側にいて、…………て」



その声は、桔妃自身が、一番嫌悪する声色。 雷誠が嘲笑い、強要した、「男に媚びる女」の声。甘ったるい媚態ビタイを帯びていた。それは命令オーダーではなかった。王としての威厳も、主としての矜持きょうじもない。ただの、弱り切った少女の、壊れかけた魂の叫び。  自分の中の「強さ」が音を立てて崩れ落ちていく音が聞こえる。雷誠がわらっている気がした。『やはりお前は、誰かに飼われることでしか生きられぬ』と。それでも、指を離せない。この指を離せば、二度と戻れぬ闇へ落ちていくような錯覚さっかくが、彼女を縛り付けている。



でも-


(違う。私はこんなことをしたいわけじゃない)


心の中で、もう一人の自分が絶叫している。 男に頼るな。自立しろ。お前は城主なのだろう。 だが、身体は恐怖に震え、魂は凍えている。晴洋という太陽を失った今、この絶対的な「闇」のそばにいなければ、自我が霧散してしまいそうだった。

頼ることは、雷誠の言葉を肯定することだ。 「女は無力だ」という呪いを、自ら受け入れることだ。 それでも――。



「……怖い、の。目を閉じると、あのアカ(血の色)が……」



桔妃の手が、着物の合わせ目に触れる。 無意識か、あるいは計算か。 帯が緩み、襟元が大きくはだけた。 露わになった白い肌は、月光の下で陶磁器のように冷たく、そして痛々しいほどに無防備だった。

それは誘惑ではない。 救済を乞う、溺れる者の身振りだった。 あるいは、自分という存在を「物」として差し出すことでしか、他者との接続コネクトを保てない、悲しき生存戦略。

蚩尤が、ゆっくりと振り返った。 その瞳には、欲情の色は微塵もなかった。その表情かおには、情欲よくも、憐憫レンビンも、軽蔑けいべつさえもない。 ただ、深淵のような静けさで、桔妃の「乱れ」を見つめていた。

あるのは、透徹とうてつした理解だけだ。彼は知っているのだ。 桔妃のその行動が、本心からの求愛ではないことを。 恐怖と自己嫌悪、そして喪失感が生み出した、歪な代償行為エラーであることを。孤独が演じさせた過ち。もし今、この手を取って彼女を抱けば、それは彼女の魂を殺すことになるだろう。雷誠と同じ、彼女を「弱き女」の枠に押し込める共犯者へとちることになる。  蚩尤自身も、そんなぬくもりなど求めてはいない。彼の中にあるのは、荒涼たる戦場の記憶と、かわききった虚無ニヒリズムだけだ。  



だが。


「……桔妃」


拒絶しなかった。  桔妃の手を振り払うことも、さとすこともせず、ただ静かに、蚩尤が近づく。その手は、桔妃の肌に触れることなく、乱れた着物の襟をそっと直し、合わせ目を閉じた。



「お前は、俺に身体を売る必要はない」



「……っ」



「だが」



寝台のふちに腰を下ろした。  きしむ音。  彼はよろいの留め具を外し、重い金属音と共に床へ置いた。  無防備な背中を見せ、彼女の隣へと身を横たえる。  触れ合わない。指一本分の距離。  けれど、その圧倒的な質量の存在感が、桔妃の震えを吸い取っていく。  言葉はいらない。なぐさめも、愛のささやきも、今の二人には劇薬どくにしかならない。  ただ、そこに「在る」こと。桔妃の隣。触れれば温もりが伝わる距離。



「俺もまた、独りで眠るには……今夜は少し、静かすぎる」



嘘だ。 戦神たる彼が、孤独や静寂を恐れるはずがない。 それは、桔妃のプライドを守るための、不器用で、あまりにも優しい「共犯」の提案だった。あるいは同じ地獄じごくを見る者として、夜明けまでの時間を共有すること。それが、蚩尤の選んだ答え(アンサー)だった。



「……蚩尤……」



「眠れ。俺はここにいる。夢魔が来るなら、斬り捨ててやる」



桔妃の目から、涙がこぼれた。 それは熱い雫となり、蚩尤の軍衣に染み込んでいく。 雷誠の呪縛に抗おうとして、結局は男にすがりついてしまった自分。その弱さを、この男は「許し」たのではない。「共有」したのだ。

蚩尤は、軍靴を脱ぐこともなく、ただ横たわった。 桔妃の背中に、自分の背中を向けて。 背中合わせの添い寝。 ただ、隣にある熱源おとこの呼吸音に耳を澄ませ、自らの中に巣食う雷誠の幻影と、静かに戦い続けていた。

それは恋人同士の甘い夜ではなく、戦場の塹壕ザンゴウで兵士たちが互いの体温を分け合うような、切実な安らぎの形だった。

桔妃は、蚩尤の背中の大きさを感じながら、泥のような眠りへと落ちていった。 その寝顔は、久しぶりに少女のものに戻っていた。

九黎城の夜は更けていく。 だが、その静寂は、次なる嵐の前触れに過ぎなかった。


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