華凰・晴洋VS蚩尤
リョクシの語る言葉は、トラックのエンジン音に重なり、奇妙な律動を持ってマリヤの鼓膜を叩いた。
「僕が見たのは、整列した蟻の群れを踏み潰す、巨大な子供の無邪気さでしたよ」
正規軍の陣形は完璧だったという。
盾を構えた重装歩兵が壁を作り、その後ろから弓兵と魔導士が死の雨を降らせる。教科書通りの、隙のない布陣。北の将軍、晴洋と雷誠の統率は、鋼鉄の規律そのものだった。
だが、その鋼鉄は、飴細工のように溶かされ、砕かれていた。
「……能力の詳細までは見えませんでしたが、現象は観測できました」
リョクシが声を低める。
「まず、白蓮。あの男は……“距離”を食っていた」
「距離を?」
「ええ。矢が届かない、剣が届かない、認識したはずの座標から消失する。まるで彼だけが、時間のフレームレートを無視して動いているような……そんな気味の悪い“舞踏”でした。正規軍の精鋭部隊が、何に斬られたのかも理解できないまま、首だけを落として踊っていましたよ」
ランの脳裏に、あの祭祀場での白蓮の姿がよぎる。掴みどころのない、風のような男。だが、その風は真空の刃を含んでいる。
「次に、橈骨。あれは……暴力だ」
リョクシは顔をしかめた。
「ああ、あの大男ですか。彼は一番シンプルで、一番タチが悪い。彼は戦場を“楽しんで”いた。正規軍の戦車隊が突撃したんですがね。彼、それを素手で受け止めたんですよ。止めたんじゃない。……“弾いた”んです。小石か何かのように。彼の周囲だけ、重力のベクトルが狂っているんじゃないかと思うほど、物理法則が仕事をしていない。槍も、魔法も、彼の皮膚一枚傷つけられない。あれは……災害です」
「そして、窮奇……」
マリヤが呟くと、リョクシはニヤリと笑った。
「ああ、あの彼ですか。彼が振るう鉄槌の一撃ごとに、地形が変わるんです。クレーターができ、衝撃波で兵士が紙吹雪のように舞う。能力じゃない。純粋な身体能力が、生物の限界点を超越している」
マリヤは黙り込んだ。
四凶。その力は知っていたつもりだったが、戦場という“解き放たれた場所”での彼らは、想像を遥かに超えているらしい。
「拮抗しているの?」
「ええ、辛うじて。北の将軍たちも化け物ですからね」
リョクシはハンドルを切る。トラックが大きく揺れ、轍を乗り越えた。
「雷誠将軍……彼は“軍神”の名に恥じない。あの一騎当千の武力で、三人の怪物を相手に立ち回っている。彼が動くたびに雷鳴が轟き、戦場を焼き払う。彼一人で軍隊一つ分の火力がある」
「晴洋は?」
「……彼こそが、この戦場の要でしょうね。彼の雷撃は、蚩尤の本陣を捉えている。唯一、あの神話殺しに届く刃を持っている」
リョクシの目が、ふと真面目な光を帯びた。
「ですが……結末は見えていますよ。この戦い、論理的に考えれば正規軍の優位ですが……感覚的には、“絶望”の匂いしかしない」
トラックは闇の中をひた走る。
その向こう側、魏趙平原では、運命の歯車が血を吸って軋んでいた。
魏趙平原・戦禍の爪痕。
空が割れた。
轟雷と共に降り注ぐ紫電の槍が、大地を抉り、兵士たちの影を焼き付ける。焦げた肉の臭いと、オゾンの刺激臭。悲鳴は轟音にかき消され、命の灯火はあまりにも呆気なく吹き消されていく。
「押し返せッ! 陣形を崩すな!!」
雷誠の咆哮が、戦場を震わせた。
身の丈ほどもある巨大な戦斧を振るい、迫りくる異形の兵士たちをなぎ払う。その一撃は衝撃波を伴い、十数人の敵をまとめて吹き飛ばす。
彼の全身には、青白い雷光が纏わりついていた。筋肉は鋼のように隆起し、血管には溶岩のような闘気が流れている。
まさに軍神。
だが、その軍神の顔には、隠しきれない焦燥の色が浮かんでいた。
「しぶとい……ッ!」
雷誠の視線の先には、三つの影があった。
白蓮が舞う。その動きは陽炎のように揺らめき、正規軍の精鋭たちが放つ矢や魔法を、紙一重ですり抜けていく。彼が通り過ぎた後には、喉元を切り裂かれた兵士たちが、遅れて血を噴き出して倒れる。
橈骨が進む。巨大な盾のように立ちはだかる彼は、集中砲火を浴びても歩みを止めない。爆炎の中から無傷で現れるその姿は、歩く要塞そのものだった。
そして、窮奇。彼は笑っていた。戦斧を受け止め、鉄槌を振るうたびに、正規軍の防衛線が物理的に粉砕されていく。
「雷誠! 遅いぞ、貴様の本気はその程度かァ!?」
窮奇の挑発に、雷誠は歯噛みする。
拮抗している。いや、させられている。
雷誠の武力は、確かに彼らと渡り合える。だが、彼は“軍”を守らねばならない。彼らが好き放題に暴れ回るのを防ぐため、広範囲に気を配り、攻撃を受け止め続けなければならないのだ。
それは、消耗戦を意味していた。
「晴洋……! まだかッ!」
雷誠は天を仰ぎ、叫んだ。
その視線の先、戦場の遥か上空に、もう一つの雷鳴が轟いていた。
晴洋は、空を駆けていた。
風を操る魔導具を纏い、雷雲の中を疾走する。彼が見下ろす地上は、無数の蟻が蠢く地獄絵図だ。だが、彼の瞳はただ一点、敵陣の最奥に鎮座する“王”だけを捉えていた。
蚩尤。
黒い軍馬に跨り、戦場の喧騒などどこ吹く風とばかりに静止している男。その周囲だけ、音が死んでいるように静かだった。
彼を守るように展開していた四凶が前線に出た今、本陣は手薄だ。
これこそが、正規軍の描いた唯一の勝機。
雷誠が四凶を引きつけ、その隙に晴洋が最強の雷撃で蚩尤を討つ。
「この一撃に、全てを賭ける……!」
晴洋は両手を掲げた。
晴洋は両手を掲げた。 天空の雷雲が渦を巻き、一点に収束していく。大気が悲鳴を上げ、空間が歪むほどのエネルギー密度。 それは、彼がその命を削って練り上げた、国家守護の極大魔術。 呪文詠唱が、雷鳴よりも高く響く。
「――天雷・断罪!!」
振り下ろされた手と共に、光の柱が落ちた。音速を超え、光速に迫る神の鉄槌。数億ボルトのエネルギーが圧縮され、物理的な質量すら伴って蚩尤の頭上へと殺到する。直撃すれば、城壁すら蒸発させる威力。回避は不可能。防御も無意味。
だが。蚩尤は動かなかった。ただ、腰に佩いた刀の柄に手をかけただけだった。
「……騒々しい」
鯉口が切られる音が、雷鳴の中で奇妙なほど鮮明に響いた。鞘から放たれたのは、鋼の刃ではなかった。白く、冷たく、濃密な“霧”だった。
宝刀「有霧」
蚩尤を中心に、半径五十メートルが一瞬にして乳白色の霧に包まれる。天から降り注いだ断罪の雷は、その霧に触れた瞬間、ジュッという音と共に拡散し、光の粒子となって霧散した。いや、防がれたのではない。霧そのものが、何らかの“意志”を持って雷を喰らったのだ。
「な……!?」
晴洋の目が驚愕に見開かれる。 霧が渦を巻く。 ただの水蒸気ではない。その霧は、瞬く間に形を変え、凝縮し、物質化していく。 槍、剣、斧、銃、砲塔。 古今東西、あらゆる時代、あらゆる文明の“武器”が、霧の中から無数に生み出されていく。 それこそが蚩尤のアニマの本質。 武器錬成。 彼が纏う霧は、全てが武器の種子であり、彼の想像力が及ぶ限り、そこは無限の兵器廠となる。
「……良い雷だ。だが、形ある暴力で、俺の“兵装”を上回れると思うな」
蚩尤が刀を一振りする。 それだけで、霧から生成された数千の武器が一斉に空を向いた。 晴洋の眼下に、鋼鉄の森が出現する。
「終わりだ」
号令なき射撃。 数千の刃と弾丸が、逆巻く雨のように空へ向かって放たれた。 晴洋は防壁を展開しようとしたが、遅すぎた。 風の加護も、雷の鎧も、圧倒的な物量の前には紙切れ同然だった。
痛みは一瞬だったかもしれない。 晴洋の身体は、無数の刃によって空中で裁断され、血霧となって散った。 北の知将と呼ばれた男の最期は、地面に落ちることさえ許されず、ただ空の一部となって消滅した。
「晴洋ォォォォォォッ!!」
.
雷誠の絶叫が、戦場に響き渡った。 相棒の“気”が完全に消滅したことを、彼の魂が感知したのだ。 怒りが理性を焼き切る。 雷誠は目の前の四凶を無視し、蚩尤へと特攻しようとした。だが、その足が止まる。 膝が、崩れた。 いつの間にか、彼の全身は無数の刃傷で刻まれていた。白蓮の不可視の斬撃、橈骨の重圧、窮奇の衝撃波。それらが蓄積し、軍神の肉体をも限界へと追い込んでいたのだ。
「ぐ、ぁ……っ!」
地面に膝をつき、戦斧を杖にして辛うじて身体を支える。 視界が霞む。血の海の中で、正規軍の兵士たちが次々と倒れていくのが見えた。 敗北。 その二文字が、重くのしかかる。 だが、彼のプライドは、まだ死を認めていなかった。王族としての、選ばれし者としての生への執着が、泥の中でもがいていた。
その時、戦場の空気が変わった。 蚩尤軍の後方から、一際場違いなほど清浄な気配が近づいてきた。 兵士たちが道を空ける。 輿に乗って現れたのは、桔妃だった。 豪奢な十二単を纏い、その顔は人形のように蒼白だが、瞳には揺るぎない光が宿っている。彼女は今や、蚩尤の庇護下にある“巫女”としてそこにいた。
「……兄様!」
桔妃が輿から降り、泥にまみれることも厭わずに雷誠の元へ駆け寄ろうとする。 雷誠は、血走った目で妹を見た。 そこには、再会の喜びなど微塵もない。あるのは、卑屈な計算と、醜悪な生存本能だけだった。 こいつは蚩尤に気に入られている。こいつを使えば、助かるかもしれない。
「き、桔妃……!」
雷誠は、戦斧を捨て、這うようにして妹に手を伸ばした。その姿は、かつての軍神の威厳など見る影もない、ただの命乞いをする老人のようだった。
「おお、桔妃……! よくぞ来た……! 頼む、俺を助けてくれ! 俺はお前の兄だぞ、唯一の肉親だぞ!?」
雷誠の声は震えていた。情けなく、哀れな響き。
「蚩尤に言ってくれ! 俺を見逃すように! お前の頼みなら聞くはずだ! なあ、そうだろ!? 今まで俺がどれだけお前を庇ってやったか覚えているだろ!? 今こそ恩を返す時だ!」
嘘だった。 彼は妹を庇ったことなど一度もない。いつも盾にし、道具として利用し、無能だと罵ってきた。 だが、今の彼にはその記憶さえ改竄されているのか、あるいは嘘を真実だと思い込もうとしているのか。 桔妃は立ち尽くし、兄の醜態を見下ろしていた。その瞳が揺れる。憐憫か、絶望か。
「兄様……」
桔妃が手を伸ばそうとした、その時。
ぬっ、と。 桔妃の視界が、大きな手によって塞がれた。 温かく、しかし絶対的な拒絶の意思を持った手。 蚩尤だった。
「――見るな」
低く、優しい声が桔妃の耳元で囁かれる。 蚩尤は、片手で桔妃の目を覆い、彼女の身体を自分の胸に引き寄せた。
「こんなものは、兄の顔ではない。ただの“肉塊”だ。お前が見るべきものではない」
「……っ」
桔妃の肩が震える。蚩尤はそのまま、彼女を回れ右させ、背中を押した。
「行こう。……終わったことだ」
蚩尤は雷誠を一瞥もしなかった。 視線すら向けない。殺意すらない。ただの路傍の石ころとして、完全に無視した。 それが、雷誠のプライドを粉々に砕いた。
「ま、待て……! 待てぇッ!!」
雷誠は絶叫した。 無視された屈辱。見捨てられた絶望。そして、自分を見下ろす蚩尤へのどうしようもない劣等感。 それらが混ざり合い、汚らしい罵詈雑言となって口から溢れ出した。
「ふざけるな! 待てと言っているんだ! この売女が! 敵に媚びを売って命乞いか!? 王族の恥晒しめ! 俺を見捨てるのか!? 貴様なんぞ産まれてこなければよかったんだ! この役立たず! 人形! 誰のおかげで生きてこれたと思っている! 俺を助けろ! 命令だ! 俺を助けろォォォッ!!」
泡を飛ばし、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして叫ぶ。 その声は、もはや人間の言葉としての意味を失い、ただの不快なノイズとなって戦場に響いた。
桔妃は振り返らなかった。 蚩尤に支えられ、彼女は泥の海を歩き去っていく。二人の姿が、霧の向こうへと消えていく。
「あ……ああ……くそッ、くそぉッ!!」
雷誠は地面を叩いた。 誰もいない。誰も助けない。 その孤独が、彼の心臓を冷たく握りつぶす。
その時。 彼の頭上に、巨大な影が落ちた。
「ギャハハハハハ! 傑作だぜ、元・軍神様!」
見上げれば、そこには窮奇が立っていた。 返り血で真っ赤に染まった巨躯。その顔には、嗜虐的な喜悦が張り付いている。
「最期まで吠える元気はあるじゃねぇか。だがよぉ、アンタの声、もう誰も聞いてねぇぜ?」
窮奇が、その丸太のような腕を振り上げた。
「地獄で詫びてきな。……自分の弱さに!」
窮奇は、さっきまで雷誠が持っていた愛用の戦斧を雷誠の上に掲げて手を離した。
「ひっ、あ――」
ドォォォォォォン!!
鈍い音が、断末魔をかき消した。 魏趙平原の泥に、新たな染みが一つ増える。 かつて雷鳴を轟かせた男の生涯は、誰にも看取られることなく、ただの肉片となって潰えた。
戦場に、静寂が戻ってくる。 風が、血の匂いを運んでいく。 九黎城への道は、屍によって舗装されていた。




