桃を持った猿 4
ランの話が終わっても、マリヤはしばらく何も言わなかった。
ただ、ハンドルを握る指が白くなるほど力を込めていることだけが、彼女の感情を物語っていた。
やがて、彼女は静かに口を開いた。その声は、氷点下の冷徹さを装っていたが、奥底には隠しきれない震えがあった。
「……そう。それが、建岱の最期だったのね」
「あぁ。……あいつは、死んだのか?」
ランの問いに、マリヤは視線を逸らさずに答えた。
「ええ。……洛陽からの情報が入っているわ」
マリヤは一度言葉を切り、息を吸った。事実を告げることが、ランに、そして自分自身にどれほどの痛みを与えるかを知りながら。
「洛陽城の城門に……建岱の首が、晒されているそうよ」
「……ッ!」
ランの息が止まる。
脳裏に浮かぶ、あの豪快な笑顔。不器用だが温かい手。それが、物言わぬ肉塊となって、見せ物にされている。
「『逆賊の末路』としてね。文圍は、自分への反逆を許さない。死してなお、その尊厳を踏みにじることで、恐怖を植え付けようとしているのよ」
ランの全身から、どす黒い殺気が噴き出した。
野生動物が敵を前にした時の、毛が逆立つような気配。
だが、その殺気は行き場を失い、車内で渦を巻く。
「許さねぇ……」
ランの喉の奥から、獣の唸り声が漏れる。
「文圍……ラエル……! 俺は、あいつらを絶対に許さねぇ! 噛み砕いてやる! 骨の髄まで!」
「ええ、そうね。……でも、今は堪えなさい」
マリヤの声が、鋭くランを制した。
「怒りで我を忘れるな。それは奴らの思う壺よ。建岱が命を賭けて守ろうとしたものを、アンタが無駄にする気?」
「……守ろうとしたもの?」
「後ろを見てみなさい」
マリヤが顎で後部座席を示す。
そこには、鉄格子越しに、疲れ果てて眠る子供たちの姿があった。
ランが命がけでトラックを襲い、救い出した子供たち。
「あの子たちは、これから生きるのよ。建岱が望んだ『未来』の一部としてね。アンタが今すべきことは、復讐に走って死ぬことじゃない。あの子たちを、確実に安全な場所へ送り届けることよ」
ランは唇を噛み締め、子供たちの寝顔を見つめた。
泥だらけの顔。涙の跡。
彼らは弱い。守られなければ、すぐに死んでしまう。
建岱は言っていた。「守るために立つ」と。
「……わかったよ」
ランは深く息を吐き出し、殺気を収めた。
だが、その瞳の奥に灯った金色の炎は、消えるどころか、より静かに、より高温で燃え続けていた。
「まずは、こいつらを送る。……話はそれからだ」
トラックは速度を落とし、舗装されていない砂利道へと入っていった。
しばらく進むと、木々の間に隠れるようにして存在する、小さな集落が見えてきた。
マリヤが事前に手配していた、避難場所だ。
「ここで降ろすわ。ここの村長は信用できる。子供たちを頼む手はずになっているの」
トラックが停まると、村人たちが駆け寄ってきた。
荷台を開けると、子供たちは不安そうに、しかし安堵の表情を浮かべて外へ出て行った。
村の女性たちが彼らを抱きしめ、温かい毛布で包む。
その光景を見届けたランは、小さく鼻を鳴らした。
「……悪くねぇな」
「そうね。……さて、行くわよ」
「次はどこだ?」
「九黎城」
「キュウレイ?」
「ええ。文圍の本拠地……そして、蚩尤を祀る聖地よ。全ての因縁が集まる場所」
マリヤは感傷に浸る時間を自らに許さず、再び運転席へと。
ランもまた、後に続く。しかし、
誰もいないはずのその場所に、一人の人物が座っていた。
身軽になったトラックは、再びエンジンを唸らせて走り出した。
車輪が泥を噛む音が、湿った大気に重苦しく響いていた。
トラックの荷台から降りた人々の背中は、どれも一様に小さく、煤と疲労で灰色に沈んでいる。彼らは礼を言う気力さえ削ぎ落とされたように、ただ深々と頭を下げ、名もなき集落の薄闇へと消えていった。かつて文圍の“商品”として運ばれていた彼らを、元の場所へ――あるいは、元いた場所に近いどこかへ――還す。それがこの旅路の、ほんの些細な清算だった。
運転席のドアが重々しい金属音を立てて閉ざされる。
再びエンジンが唸りを上げ、巨大な鉄の獣は身震いと共に動き出した。目指すは九黎城。かつて「兵主神」と呼ばれた男が拠り所とした、都である。
助手席に座るマリヤは、フロントガラスの向こうに広がる荒野を見つめながら、不機嫌そうに溜息をついた。その指先は、軍服の袖口にあるファスナーの金具を、無意識にいじり続けている。
彼女の苛立ちの源泉は、ハンドルを握る男にあった。
「……で? いつの間に乗り込んでいたのよ、貴方。リョクシ!!」
マリヤの声は、零度に近い冷たさを帯びている。
運転席には、いつの間にか一人の男が座っていた。ランが眠りこけている後部座席とは違い、そこには確かな質量と、奇妙なほど希薄な気配が同居している。
男の名はリョクシ。
くすんだ緑色の外套をまとい、目元を長い前髪で隠したその青年は、ハンドルを握る指先があまりにも細く、白かった。まるで鍵盤を叩くピアニストか、あるいは死体の脈を取る医者のようだ。
「いつの間に、とは心外ですねぇ。僕は最初からいましたよ。……いえ、正確には“並走”していた、と言うべきかな」
リョクシの声は、風に揺れる枯れ葉のように頼りなく、それでいて耳の奥に粘着質に残る響きを持っていた。
彼は視線を前方から逸らさず、独り言のように続ける。
「貴女が派手に暴れ回っている間、僕は影の中でずっと待機していたんです。燃料の補給、ルートの確保、追手の攪乱……地味な裏方仕事ですよ。誰かさんが、正面突破しか能のない脳筋坊やと遊んでいる間にね」
「……減らず口を」
マリヤは舌打ちを一つ。だが、その表情には微かな安堵も混じっていた。
リョクシは、彼女が指揮する部隊の中でも特異な存在だ。戦闘能力は皆無に等しいが、その“潜伏”と“情報処理”の能力はずば抜けている。彼がいるということは、退路が確保されているということだ。
「それで? 九黎城への道は開いているの?」
「ええ、今のところは。ただ……少しばかり“ノイズ”が酷い」
リョクシは片手をハンドルから離し、空中の見えない鍵盤を弾くような仕草をした。
「魏趙平原の方角から、強烈な不協和音が聞こえてきます。悲鳴、爆音、そして……何かが“壊れる”音。どうやら、あちらでは盛大な宴が始まっているようだ」
「戦争、ね」
「それも、ただの戦争じゃない。理が軋む音がする。……文圍が動かした“駒”たちが、正規軍と正面衝突したようです」
マリヤは眉をひそめた。
華凰正規軍。北の守護者である晴洋と雷誠が率いる、この国最強の矛と盾。彼らが動いたとなれば、事態はもはや小競り合いでは済まない。
「正規軍相手に、あの寄せ集めの烏合の衆がどこまで持つかしら」
「烏合の衆、ですか。……フフ、甘いですねぇ」
リョクシは楽しげに笑った。その笑いは、どこか壊れた玩具の音に似ていた。
「集められたのは“蚩尤”の軍ですよ。かつて神話を焼き尽くした、凶神の残滓だ。それに……あそこには“四凶”がいる」
リョクシの指が、フロントガラスの向こう、赤黒く染まり始めた地平線を指し示す。
「見てください。空が泣いている」
その言葉通り、遠くの空には、雷雲とも硝煙ともつかぬ黒い渦が巻いていた。時折走る閃光は、自然の稲妻にしてはあまりにも禍々しく、紫色の静脈のように天を切り裂いている。
「僕が隠れていた間、少し覗いてきたんです。あの戦場の“匂い”をね」
リョクシは語り始めた。その口調は、まるで遠い異国の惨劇を語る吟遊詩人のようだった。
「魏趙平原は、今や人の住む場所じゃない。あそこは……“人外魔境”だ」




