桃を持った猿 3
鉄の獣は、夜の胃袋を食い破るようにして北へと疾走していた。
ごうごうと唸る霊的燃焼機関の鼓動が、ランの背骨を伝って脳髄まで震わせる。車窓の外では、文明の墓標(ビル群)と変異した植物が複雑に絡み合った影絵が、ものすごい速度で後方へと飛び去っていく。
助手席にふんぞり返ったランは、ダッシュボードに両足を投げ出し、退屈そうに鼻を鳴らした。その金色の瞳は、流れる闇を見ているようで、もっと遠く、あるいはもっと深い場所にある「何か」を睨みつけているようだった。
「……臭ェな」
ランが呟く。
ハンドルを握るマリヤは、前方を凝視したまま、冷ややかな視線をわずかにランへ向けた。彼女の黒い軍服は、夜の闇に溶け込みながらも、至る所に走る銀色のジッパーが街灯の光を鋭く反射している。
「まぁこいつらおっさんがただ運ぶだけに使っていたからね。あ!私が臭いとでも? 野生児のアンタに言われたくないわね」
「違う。この鉄の箱からする、甘ったるくて、それでいて腐った肉みてぇな臭いだ。……覚えがある」
ランは鼻翼をひくつかせた。その臭いは、オイルや排気ガスの類ではない。もっと根源的な、欲望が発酵したような悪臭。
マリヤはふと、表情を緩めた。それは嘲笑に近い、冷たい笑みだった。
「あら、鼻だけはいいのね。それは『文圍』の臭いよ。この国を裏から操る、欲深き猿の王様」
その名を聞いた瞬間、ランの脳裏に鮮烈な光景がフラッシュバックした。
極彩色の提灯。天を突く楼閣。そして、笑顔で溢れかえる人々。
そうだ。あの場所だ。
「……思い出したぜ。あの『創祀祭』だ」
ランの声色が一段と低くなる。
マリヤの眉がぴくりと動いた。
「へぇ? アンタみたいな山猿が、あんな華やかな場所にいたの? 迷い込んだ野良犬の間違いじゃなくて?」
マリヤの言葉には刺があった。だが、ランはそれに乗らなかった。むしろ、ニヤリと不敵な笑みを浮かべ、マリヤの方を向く。
「なんだ、お前。俺が祭りにいたのがそんなに意外か? まぁ、お前みたいな堅苦しい女には、あそこの飯の味なんざ分からねぇだろうけどな!」
「……は?」
「食った食った! 山のような肉に、甘い果物! お前、あんな美味いもん食ったことねぇだろ? 可哀想になぁ、いっつもそんなしかめっ面して、鉄の味みてぇな顔しやがって!」
ランはケラケラと笑う。それは無邪気な挑発だったが、図星を突かれたマリヤの額に青筋が浮かぶ。
「アンタねぇ……! 私は任務で忙しいの! 呑気に飯を食ってる暇なんてないわよ!」
「へっ、強がるなよ。本当はヨダレ垂らして見てたんだろ?」
「黙りなさい!」
車内に一瞬、コミカルな空気が流れる。だが、ランの笑みはすぐに消えた。
彼は真顔に戻り、フロントガラスの向こうの闇を見据えた。
「……でもよ、あの祭りは、ただの祭りじゃなかった」
ランの声に、重い鉛のような響きが混じる。
マリヤもまた、口元の笑みを消し、静かに次の言葉を待った。
「俺は見たんだ。あそこで何が起きたか。……あの『建岱』ってオッサンが、どうやって戦ったかをな」
ランの語り口は、独特だった。
主語が飛び、擬音が混じり、時系列が前後する。だが、その情景描写は、まるでその場にいるかのような生々しい熱量を持っていた。
――あの日、洛陽城の大広間は、光と音の洪水だった。
ランは主賓の末席で、隣に座った大柄な男「九」と、どちらが多く食えるかを競い合っていた。九は豪快で、気持ちのいい男だった。互いに皿を積み上げ、笑い合った。
だが、その空気は一変する。
壇上に立った文圍。その口から語られる「利」と「金」による支配の論理。
そして、それを真っ向から否定する男が現れた。
白銀のたてがみを揺らし、炎のオーラを纏った巨漢――建岱だ。
「建岱のオッサン、凄かったぜ。あいつ、文圍に向かって指を突きつけて言ったんだ。『金で人の心を縛るな』ってな」
ランは興奮気味に語る。
建岱は、文圍の腹心であった左紹の不正を暴き、文圍を糾弾した。帳簿を叩きつけ、その欺瞞を白日の下に晒したのだ。
追い詰められた文圍。だが、奴は笑っていた。
そして、舞を舞っていた青年「彭」に手を伸ばし、自らの能力「商談」を発動させた。
「そしたらよ、あの踊り子が……化け物に変わっちまったんだ」
ランの瞳孔が収縮する。
彭の体から噴き出した煙が、異形の鎧となり、姿となり、神話の存在へと変貌していく。
――蚩尤。
古の軍神。
その圧倒的な威圧感は、広間の空気を凍りつかせた。
だが、異変はそれだけではなかった。
「俺が殴りかかろうとしたらよ……止められたんだ。俺の隣で、一緒に飯を食ってたあの『九』にな」
ランの声に、隠しきれない悔しさが滲む。
九は敵だった。四凶の一角、「窮奇」。
さらに、どこからともなく現れた岩のような巨人「檮杌」。
そして、煙管を燻らせた優男「白蓮」――「混沌」。
文圍の正体である「饕餮」を含め、四つの災厄がその場に揃ったのだ。
「オッサンは戦った。炎の剣を振り回して、あのデカブツの檮杌と殴り合った。俺も九とやり合った。……あいつ、強かった」
ランは拳を握りしめる。
乱戦。
ルナが銃を乱射し、綾が刀を振るう。だが、敵の力は底知れなかった。
蚩尤は、ただ立っているだけで戦場を支配していた。指先一つで矢を弾き、圧倒的な「格」を見せつけた。
ジットの判断で、撤退が決まった。
爆炎を煙幕にして、彼らは城を脱出した。
話は、逃走劇へと移る。
城を抜け出し、大河に停泊していた船に乗り込んだ一行。
だが、安らぎはなかった。
川の上で待ち受けていたのは、雅竹という名の、炎を操る狂人だった。
「あいつ、船ごと俺たちを焼き殺そうとしやがった。炎の竜巻みてぇなのを刀から出してよ」
ランは身振り手振りでその激闘を再現する。
建岱と雅竹の、炎と炎のぶつかり合い。
船は火に包まれ、沈没寸前まで追い込まれた。
だが、建岱は退かなかった。
「虎王焔舞陣」――建岱の放った黄金の虎が、雅竹の朱い炎を喰らい尽くした瞬間を、ランは昨日のことのように鮮明に覚えていた。
「勝ったんだ。オッサンは、あのバケモノに勝った。……俺たちは、助かったと思った」
ランの声が、ふつりと途切れる。
トラックの走行音だけが、車内に響く。
長い沈黙の後、ランは絞り出すように言った。
「……でも、違った」
安堵が弛緩を生んだ、その一瞬の隙間。
建岱の自室。勝利の報告に向かったランと綾が見たもの。
それは、無惨に貫かれた建岱の姿だった。
「……ラエル」
その名は、呪いのように響いた。
鳥か何かが飛来したかと、それは人間。しかも少年。無邪気な顔で笑う。
巨剣が、建岱の胸を貫通していた。
綾が絶叫し、ランが飛びかかった。だが、ラエルは笑っていた。
「ぎゃははは! 寅と遊べて満足満足!」
その言葉と共に、ラエルが何かを呟いた瞬間――
「船が……潰れたんだ」
見えざる巨人の手で握りつぶされたかのように、船体が一瞬でひしゃげた。
轟音。悲鳴。冷たい水の感触。
ランは建岱の手を掴もうとした。だが、崩落する瓦礫と激流が二人を引き裂いた。
水の中に沈んでいく建岱の白髪。
それが、ランが見た最後の光景だった。
「……俺は、流された。気づいたら、あの村の近くで倒れてたんだ」
ランは拳を膝に叩きつけた。
ドンッ、と鈍い音が車内に響く。
「守れなかった。……飯を食わせてくれたオッサンも。一緒に戦った仲間も。……俺は、ただ流されて、生き残っちまった」
悔恨。
それはランがこれまでの人生で知らなかった、苦く、重い感情だった。
野生の世界では、生き残ることは勝利だ。だが、今のランにとって、この生還は敗北よりも惨めなものに感じられた。




