桃を持った猿 2
マリヤは遠く、闇に沈む品の国の方角を見据える。
「名前は『文圍』。12神獣の一人。……ま、あなたにはピンと来ないでしょうけど」
「ブンイ……ジュウニシンジュウ……」
ランは慣れない単語を口の中で転がす。 やはり、意味は理解できない。政治も、権力構造も、彼の知る「強さ」の基準からは程遠い、複雑怪奇なシステムだ。 だが、理解する必要などなかった。 彼が理解したのは、もっと単純で、もっと根源的な事実だ。
こいつが、森を荒らした。 こいつが、子供たちを鎖で繋いだ。 こいつが、あの胸糞悪い「群れ」のボスだ。
それだけで、十分だった。
「……そいつは、どこにいる?」
ランが問う。 その問いかけと共に、彼の金色の瞳孔が、カッと縦に裂けたように収縮した。 夜目が利く獣の瞳。その奥に宿るのは、獲物の喉笛を食いちぎる瞬間を夢見る、純粋無垢な殺意。
「洛陽城……と言いたいところだけど、おそらく今はもうそこにはいないでしょうね。建岱たちが暴れたせいで」
「この荷物が来た先……『品の国』のさらに奥。おそらく、そこが奴らの拠点」
「北か」
ランは鼻を北の方角へと向ける。 冷たい風が吹いている。血と、鉄と、雪の匂いが混じった風。 その風の向こうに、まだ見ぬ強敵と、倒すべき悪が潜んでいる。
「俺が噛み砕いてやる」
ランは低く唸った。 それは決意表明というよりも、確定した未来を告げる予言のようだった。 彼の全身の筋肉が、興奮と闘志で波打つ。
「フフッ、頼もしいわね。でも、まずはこの子たちを安全な場所へ送るのが先よ。ヒーローごっこはそれから」
マリヤは軽くランの肩を叩くと、運転席へと乗り込んだ。 ファスナーの能力でこじ開けた天井を、逆再生するように閉じていく。 ズズズ……と音を立てて、鋼鉄の屋根が元通りに修復される。
「乗んなさい、野生児。助手席の乗り心地は保証しないけど、退屈はさせないわよ」
エンジンキーを回す。 巨獣が目覚めるような重低音が響き、トラックの車体が震えた。 ランは一度だけ、後ろの荷台――子供たちがいる場所を振り返り、それから力強く助手席へと飛び乗った。
「行くぞ、マリヤ! ぐずぐずしてると、そのサルが逃げちまう!」
「はいはい、わかってるわよ。……さあ、ドライブの時間だ」
マリヤがアクセルを踏み込む。 巨大なタイヤが荒野の砂利を巻き上げ、トラックは猛然と加速した。 ヘッドライトが闇を切り裂き、二人の行く先を照らす。 その光の先には、まだ見ぬ戦場と、交錯する運命が待ち受けている。
鉄の獣は、夜の胃袋を食い破るようにして北へと疾走していた。
車窓を流れるのは、文明の墓標(ビル群)と、変異した植物たちが絡み合う、この世界特有の混沌としたスカイラインだ。月光が、ひび割れたアスファルトに落ちる影を、まるで生きているかのように蠢かせる。
運転席のシートは、長時間の走行で硬く冷たくなっていたが、そのエンジン音だけは、心臓の鼓動のように規則正しく、そして熱く響き続けている。
ゴゥゥゥゥゥ……。
霊的燃焼機関の唸りは、単なる機械の作動音ではない。それは、封じ込められた霊素が物理的な駆動力へと変換される際の、断末魔にも似た悲鳴だ。その重低音が、ランの背骨を伝って脳髄へと直接響いてくる。
「……なぁ、マリヤ」
助手席で、ランが退屈そうに足をダッシュボードに投げ出した。そのつま先が、フロントガラス越しの星空を蹴り上げるような角度で止まる。
彼の金色の瞳は、流れる景色を追っているようでいて、もっと遠く、あるいはもっと深い場所を見つめているようだった。
「何よ、野生児。お腹でも空いた?」
ハンドルを握るマリヤは、視線を前方から外さずに答えた。その横顔は、夜の冷気よりも涼やかで、氷の彫像のように美しい。だが、ハンドルの革を握りしめる指先には、微かな、しかし確かな熱が宿っているのをランは感じ取っていた。
後部荷台からは、子供たちの寝息が聞こえない。おそらく、恐怖と疲労で泥のように眠っているのだろう。あるいは、目覚めることへの恐怖が、彼らを夢の底へと縛り付けているのか。
ランは鼻を鳴らした。
「腹は減ってるが、今はいい。……あの『臭い』の話だ」
「臭い?」
「ああ。この鉄の箱からする、あの甘ったるくて、それでいて腐った肉みたいな臭いだ。お前、さっき言ってたな。『文圍』とかいうサルの王様の話」
マリヤの眉がぴくりと動いた。
彼女はシフトレバーを操作し、ギアを一段上げる。エンジンが吼え、車体が加速のG(重力)を纏う。
「……そうね。そろそろ、敵の正体を教えてあげるわ。これから私たちが喧嘩を売ろうとしている相手が、どれほど厄介な『商人』かということをね」
マリヤの声色が、一段階低くなる。それは、戦場における指揮官の声だった。
「文圍。十二神獣の一角にして、この国最大の『貿易商』。……表向きはね」
「貿易? 物の売り買いか?」
「ええ。でも、彼が扱っているのは、ただの品物じゃないわ。彼の商品は、『感情』と『因果』よ」
ランが怪訝な顔をする。
感情を売る? 因果を買う? 野生の世界に生きる彼にとって、それは理解の範疇を超えた概念だった。獲物は肉であり、皮であり、骨だ。それらは形を持ち、重さを持ち、匂いを持つ。だが、感情とはなんだ?
「人間にはね、ラン。どうしても抗えない欲求があるの。安らぎたい、楽しみたい、認められたい、そして……『楽をしたい』という欲求が」
マリヤは独白のように語り始めた。その言葉は、夜の闇に溶け込みながら、ランの意識の奥底へと染み渡っていく。
「文圍という男は、その『欲』の隙間に入り込む天才なのよ。彼はね、人々に『無償』で物を与えるの。食料、娯楽、そして安全。飢えた民にはパンを、退屈した貴族には刺激的なショーを、怯える者には守護を。……タダでね」
「タダ? ……獲物を分け与えるのか? 気前のいいボスじゃねぇか」
「フフッ、そう思うでしょう? でもね、野生の世界でもそうでしょう? 餌付けされた獣は、どうなる?」
ランの瞳孔がすっと収縮した。
答えは明白だ。
狩りを忘れる。牙が丸くなる。そして、飼い主がいなければ生きていけない『家畜』になる。
「……食われるために、太らされる」
「正解。でも、文圍のやり方はもっと悪質よ。彼は肉を食らうんじゃない。彼が奪うのは『選択肢』という名の魂よ」
マリヤの瞳に、青白い街灯の光が滑る。
「彼の能力は『商談』。相手に『利』を与え、その対価として相手の『認識』や『行動』を縛る契約。彼から施しを受けた者は、知らず知らずのうちに彼のシナリオ通りに動く駒になる。……借金漬けの奴隷と同じよ。ただ、鎖が見えないだけ」
ランは、自分の手を見つめた。
節くれだった指。爪の間に染み込んだ土と血。
彼は知っている。自由とは、自分の足で立ち、自分の牙で獲物を仕留めることだと。誰かから与えられる餌は、甘いかもしれないが、それは毒だ。自由を殺す、緩やかな毒だ。
「奴は、国そのものを『巨大な商店』に変えようとしているのよ。国民全員が客であり、商品であり、そして彼の所有物。喜びも、悲しみも、全てが彼の計算の上で弾き出された数字に過ぎない世界……。想像できる? 自分が笑っている理由が、誰かに『買われた』結果だとしたら」
ランの脳裏に、閃光のような記憶が走った。
笑い。
歓声。
熱狂。
あの、極彩色の光に満ちた場所。
そうだ。俺は、あの『臭い』を知っている。
「……創始祭」
ランの口から、無意識にその言葉が漏れた。
「え?」
「思い出したぜ。その『文圍』って野郎。……俺は、あいつに会ってる」
ランの記憶の蓋が開く。




