野生児と追跡
鉄の獣? 小さい奴ら?
その単語の意味を咀嚼するのにコンマ数秒。彼女の聡明な頭脳は、彼独自の言語コードを解読した。
(この男、トラックを生き物だと思っているの? 中にいる人質を「食われた」と……?)
あまりに前時代的で、あまりに直感的な認識。
だが、その瞳に嘘はない。彼は本気で、この鉄の塊を殺して、中身を救おうとしているのだ。損得も、政治も、金も関係ない。「食われたから助ける」。その純粋すぎる行動原理に、マリヤは呆れと共に、微かな興味を抱いた。
だが、現実は待ってくれない。
ランの無茶な攻撃と、運転手のパニックによってバランスを崩したトラックは、制御不能になりつつあった。前方の道路脇に、巨大な岩塊が迫っている。旧時代のビルの一部が崩落し、そのまま風化したような巨大な瓦礫だ。
「馬鹿ッ、前を見なさい!」
マリヤの警告は遅かった。
いや、ランには聞こえていても、止まる気などなかったのかもしれない。彼の辞書に「ブレーキ」という文字はないのだから。
ガガガガガガッ――!!
トラックの左側面が、大岩に接触した。
火花が散り、耳をつんざく金属音が響き渡る。強烈な衝撃で車体が大きく跳ね上がった。装甲板が削ぎ落とされ、宙を舞う。
屋根の上にいたランは、その反動をまともに食らった。固定するものを持たない彼の身体は、慣性の法則に従い、呆気なく空間へと放り出される。
「ぐわっ!?」
空中に投げ出されるラン。
天地が逆転する視界の中、彼が見たのは、眼下に広がる「死の川」だった。
高速で流れる黒いアスファルトの地面。ランの認識において、それは「溶岩の地面」である。一度触れれば皮膚を削ぎ、肉を焼く、黒く固い絶望。
時速80キロを超える速度で叩きつけられれば、「野生児」といえども無事では済まない。肉体は挽肉となり、骨は粉砕されるだろう。
(……チッ)
マリヤは短く舌打ちをした。
彼女の任務はトラックの追跡と確保だ。勝手に自滅した「野生のサル」など、放っておけばいい。合理的判断を下すなら、それが正解だ。障害物が一つ減っただけのこと。
だが、彼女の中にある「甘さ」――あるいは、自分でも持て余している、捨てきれない「お人好し」な部分が、彼女の意志よりも早く身体を動かした。
「掴まりなさいッ!」
マリヤはバイクを極限まで傾け、車体を滑らせるようにして落下するランの軌道へと割り込ませた。
タイヤが悲鳴を上げる。車体側面のアスファルトに対する限界角度。火花が散る中、彼女は左手を伸ばした。
アスファルトに激突する寸前、彼女の手袋が、ランの腰に巻かれたボロ布を鷲掴みにした。
ドォン!
凄まじい衝撃がマリヤの腕にかかる。人間の関節など容易く外れるほどの負荷。
だが、彼女の軍服の下で、無数のジッパーが生物のように収縮し、筋肉と骨格を強固に補強した。繊維と金属が一体となり、絶対的な強度を生み出す。
「うおっ!?」
ランの視界が反転する。
迫りくる黒い「溶岩」が遠ざかり、次の瞬間、彼は硬いシートの上に強引に引きずり上げられ、叩きつけられていた。
バイクの後部座席だ。
「暴れないで! 舌を噛むわよ!」
マリヤは叫びながら、乱れた体勢を強引に立て直す。
バイクは大きく蛇行しながらも、奇跡的に転倒を免れ、再びトラックの後方へと食らいついた。
「……危なかった」
ランは後部座席で目を白黒させていた。
今の状況が理解できていない。自分が何故、死んだはずの瞬間に生き延び、この黒い女の操る「小さい鉄の獣」の背に乗っているのか。
だが、尻の下から伝わってくるエンジンの振動と熱は、不思議と不快ではなかった。むしろ、生命の鼓動のように力強く、心地よかった。
「おい、女! お前、何者だ!」
ランは風切り音に負けない大声で尋ねた。礼儀も遠慮もない、ストレートな問いかけ。
マリヤは前方を見据えたまま、冷たく言い放つ。
「命拾いしておいて、その口の利き方は何? 私はマリヤ。……感謝しなさい、野生児」
「マリヤ? 変な名前だな。俺はランだ!」
「聞いてないわよ」
マリヤは素っ気なく返すが、ヘルメットの下で微かに口元を緩めていた。
(本当に、ただの子供ね……)
だが、先ほど彼を掴んだ時に感じた、異常なまでの筋肉の密度と重さ。そして、あの高さから落ちても即座に状況に適応する「芯」の強さ。ただの子供ではないことは明白だった。
ランはマリヤの背中越しに、前方を行くトラックを睨みつけた。
トラックは大岩への接触で左側面の装甲を失い、速度を落としているが、まだ止まる気配はない。傷ついた獣が最後の力を振り絞るように、黒煙を吐いて逃走を続けている。
「あいつ、逃げる気だぞ! 追え! 追ってくれ!」
ランがマリヤの肩を叩く。
マリヤは苛立たしげに肩を揺すった。
「叩かないで。言われなくても追うわ。そうしてるんだから」
「? よくわからんが、獲物は一緒ってことだな!」
ランは勝手に納得し、ニカっと笑った。
その単純明快な思考回路に、マリヤは呆れを通り越して感心すら覚える。論理も戦略もない。あるのは「目的」と「行動」だけ。
だが、状況は依然として厳しい。トラックの荷台接続部は限界に近い。先ほどの衝突で完全に歪んでしまっている。強引に止めれば、荷台が外れて横転し、中の子供たちが犠牲になる可能性がある。
「いい? ランと言ったわね。あいつを止めるには、タイヤを潰すしかないわ」
マリヤは冷静に戦況を分析する。
彼女の能力「ジッパー」を使えば、遠距離からの射撃も可能だ。だが、走行中のバイクから、激しく揺れるトラックのタイヤを狙撃するのはリスクが高い。流れ弾が荷台を貫通する恐れもある。
ならば、この「野生児」を使う手もある。彼のあの異常な身体能力と、恐れを知らぬ蛮勇。それを誘導できれば、あるいは。
「足か! わかった、俺がやる!」
ランが身を乗り出す。
「待ちなさい。貴方のその蛮勇じゃ、また振り落とされるのがオチよ」
マリヤは彼を制する。
「私の合図で飛びなさい。それまでは大人しくしていること。……できる?」
子供に言い聞かせるような、だが有無を言わせぬ命令口調。
ランは不満そうに鼻を鳴らしたが、反論はしなかった。この女の言うことには、不思議と従わせる力がある。それに、一度命を救われた借りは、本能的に理解していた。
「わかったよ。お前の言う通りにしてやる。……今はな」
マリヤはアクセルを回した。
エンジンが唸りを上げ、タコメーターの針がレッドゾーンへと跳ね上がる。
バイクが再び加速する。漆黒の流星となって、二人は傷ついた鉄の獣へと肉薄していく。
「行くわよ、ラン。――狩りの時間だ」
マリヤの言葉に、ランは獰猛な笑みで応えた。
荒廃した世界のアスファルトの上、異質な二つの魂が、今、一つの軌道を描き始めた。




