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or  作者: 真亭甘
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シルクロード


拳が巨顎に触れたその瞬間、鈍い砕ける音が山肌にこだました。鱗が剥がれ、肉が裂け、骨が軋む。大蛇の頭部は、ランが叩き込んだ一点を中心に、蜘蛛の巣状に亀裂が走り、それらが瞬く間に巨体全体へと広がっていった。次の瞬きの瞬間に、巨大な躯は崩れ落ち、塵を舞い上げながら静寂に帰した。


ランは拳を引く。指の関節からは血が滴り、それらは地面の土に染み込んでいく。彼は微動だにしない大蛇の屍を見下ろし、深く息を吸い込んだ。空気には鉄臭い血の匂いと、土の湿り気が混ざり合っている。頬に伝う汗が、戦いの熱を冷ましていく。


「終わったな」

呟く声は、荒々しい呼吸の中に消えた。彼は振り返り、来た道を眺めた。村へと戻るべきだ。この知らせを届ければ、あの老人も男も、ようやく安心できるだろう。しかし、足を一歩踏み出そうとしたその時、ランの耳が微かに震えた。



風が変わった。



それは、雨を告げる湿った重さでもなければ、猪の群れが下草を分けて進む際に巻き起こる熱気を含んだ風でもなかった。その風は「死んで」いた。花粉の甘さも、腐葉土の豊かな発酵臭も、樹皮の乾いた香りも、一切を含んでいない。ただひたすらに乾燥し、鋭く、そして舌の上に灰色の砂のような味を残す、不吉な風だった。

ランは、樹齢数百年を数える巨大な杉の梢に近い枝に、豹のようなしなやかさで身を潜めていた。その身体は、陽光に焼かれた青銅のような肌と、しなやかな筋肉の束で構成されている。ランは微動だにしなかったが、その金色の瞳孔は針のように細まり、鼻翼がわずかに震えて大気を探っていた。


(……雷?)


ランの野生の勘が、最初にはじき出した答えはそれだった。

鼻腔の奥を刺すような、金属的で鋭い刺激臭。それは夏の午後に積乱雲が空を引き裂いた直後、大気が帯電したときに感じる「オゾン」の臭いに酷似していた。清潔でありながら、どこか暴力的で、吸い込むと肺の奥がチリチリと痺れるような感覚。


だが、空はあざといほどに青く、雲ひとつない。太陽は無関心に地を焼き続けている。雷雲の気配はない。それなのに、この臭いはどうだ。まるで、見えない雷が地上を這いずり回り、何もない空間を焼き焦がしているかのようだった。

そして、そのオゾンの下から、もっと重く、粘着質な悪臭が這い上がってくる。腐った卵のような、あるいは火山の火口から漏れ出る毒ガスのような、黄色い警告の色をした臭い――硫黄だ。


ランは不快感に顔をしかめた。ランの認識において、これらの臭いは「自然界の怒り」や「危険な場所」を示すシグナルである。だが、今のこの臭いは何かが違っていた。自然現象としての調和がない。人工的で、無理やり混ぜ合わされたような、歪な気配がした。


ズン……ズン……


その時、振動が届いた。

それは耳で聞く音ではなかった。足の裏、太ももの筋肉、そして骨髄へと直接伝わってくる、低周波の震えだった。

ランは反射的に枝を掴む指に力を込めた。地震か? いや、違う。地震の揺れには、大地全体がうねるような巨大な波がある。だが、この振動はあまりにも規則的すぎた。


ズン、ヒュウ、ズン、ヒュウ。


一定のリズム。まるで心臓の鼓動のようだ。だが、生き物の心臓にしては、あまりにも硬く、あまりにも重く、そしてあまりにも冷たい。生き物の鼓動には「揺らぎ」がある。恐怖すれば早まり、安らげば遅くなる。だが、この振動には感情がない。ただひたすらに、機械的な正確さで、大地を叩き続けている。


「……気持ち悪い」

ランの口から、無意識に言葉が漏れた。ランは言葉を多く持たない。社会的な概念、数字、金銭、そういったものはランの頭の中からすっぽりと抜け落ちている。ランにあるのは、食うか食われるか、生きるか死ぬかという、古代の部族が持っていたような原始的な真理だけだ。

そのランの感覚が、この音を「異物」だと断定していた。これは森の音ではない。風の音でも、水の音でも、獣の音でもない。


自然界に存在しない不協和音。


ランは動いた。考えるよりも先に、身体が反応したのだ。ランは高さ数十メートルの枝から、まるで重力という枷を外されたかのように軽やかに落下した。空中で体をひねり、下層の枝を一度だけ手で弾いて減速すると、音もなく腐葉土の上に着地する。

地面に降りると、振動はより鮮明になった。足の裏を通して、大地の悲鳴が聞こえるようだった。何かが近づいてくる。西の方角から。かつて、村の古老が「大蛇が現れた」と恐れたあの方角からだ。


(また、ヘビか?)


ランの脳裏に、かつて戦った大蛇の記憶がよぎる。あの圧倒的な質量、森をなぎ倒す尾の破壊力。だが、今の気配はあれとは違う。大蛇には「生」の熱気があった。血の臭いと、獣の欲求があった。だが、近づいてくる「これ」には、それがない。

ランは走り出した。助走なしでトップスピードに乗るその動きは、爆発的でありながら静寂を保っている。ランは森の影に溶け込み、シダを揺らすことなく、風下へと回り込んだ。

その「源」を見るために。



森が、唐突に途切れた。



そこは、ランが知っている森の終わり方ではなかった。崖でもなければ、川岸でもない。まるで神が巨大ななたを振るって、世界の一部を切り落としたかのような、あまりにも暴力的で唐突な境界線だった。


目の前に広がっていたのは、「道」と呼ばれるにはあまりにも異様な光景だった。

幅はおよそ五十歩分(約30メートル)。それが、森の奥深くから地平線の彼方まで、定規で引いたように一直線に伸びている。地形を無視し、丘があればそれを削り取り、谷があればそれを埋め立て、ただひたすらに「真っ直ぐ」であることだけを強制された空間。


それが「文圍ぶんい」の資金力によってこじ開けられた、「裏のシルクロード」だった。



ランは息を呑んだ。



「……木が、死んでる」



伐採されたのではない。根本からへし折られ、あるいは引き抜かれ、道の両脇に無造作に積み上げられた巨木たち。それらはまだ青々とした葉を茂らせたまま、枯れはじめていた。切り口は白くささくれ立ち、まるで骨折した骨のように天を突き刺している。樹液の甘酸っぱい臭いが立ち込めていたが、それはランにとって「森の血」の臭いだった。


そして、地面。


ランは恐る恐る、その「道」の表面に触れようと手を伸ばし、寸前で止めた。

土ではない。岩でもない。そこにあるのは、かつて岩盤だったものが、超高熱によってドロドロに溶かされ、再び冷え固まった「溶岩の河」のような黒いガラス質の物質だった。



「焼いたのか……? 石を?」



ランの無垢な理解力では、この現象を正確に把握することはできなかった。だが、直感的に理解した。これは「暴力」だ。火を使い、熱を使い、本来あるべき姿を無理やりねじ曲げた痕跡。自然の摂理を無視し、ただ「通る」ためだけに大地を焼き尽くした、傲慢な力の具現化。

この道を作った者たちは、森と対話をしなかった。森を恐れもしなかった。ただ、邪魔なものを消し去っただけだ。



(許さない)



ランの胸の奥で、小さく、けれど熱い火種が生まれた。それは義憤というよりは、もっと根源的な、縄張りを荒らされた獣の怒りに近かった。

その時、振動が爆発的に大きくなった。

道の向こう、陽炎が揺れる黒いガラス質の地平線から、その「姿」が現れた。







それは、悪夢の中から這い出してきた城塞のようだった。


全長、十五メートル超。高さは森の下層の木々を見下ろすほど。


その巨体は、艶消しの黒鉄くろがねで覆われていた。

光を反射するのではなく、飲み込むような深い黒。

装甲板は一枚板ではなく、無数の鉄板を巨大なリベットで打ち付け、継ぎ合わせることで構成されている。その荒々しい継ぎ目は、まるで傷だらけの甲殻類の皮膚のようでもあり、フランケンシュタインの怪物のようでもあった。

車体の四隅には、ガーゴイルの意匠が施されていた。中世の教会にへばりついているような、翼を持った悪魔の石像。

だが、これは石ではない。

黒鉄で鋳造されたそれらの口からは、黒いすすが吐き出されている。




「……なんだ、あいつ」


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