北の大河 9
軍営のテント群が闇夜に蠢く。盾を叩く鈍い響きが地面を震わせ、酒臭い吐息が冷気に混じる。兵士たちは上半身を露わにし、肌に焚き火の影を躍らせながら踊っていた。足元で空の酒瓶が転がり、誰かの笑い声が金切り音のように響いた。その騒乱の只中を、和装の男性が滑るように通り過ぎる。彼の着物は煤けた緋色。帯には刃物の傷のような歪みが走る。兵士の一人が脇に積まれた戦利品の山を蹴散らすと、男性は無造作に掴んだ割れた陶器の飾りを、焚き火へ投げ込んだ。
炎が爆ぜた。橙色の火柱が天を衝く。熱風が兵士たちの髪を逆立て、踊りは一瞬止んだ。最も近くにいた若い兵士が喉を詰まらせた。炎の粉が頬に当たると、彼は和装の男性へ右手を伸ばした。
「おい、危ねえだろ!」
その声は騒音に掻き消された。伸ばした指先が男性の袖に触れたかと思えば、虚空を切っただけだった。男性は振り返らず、闇へ溶けるように消える。兵士は眉をひそめ、触れた感触を疑う。袖は蜘蛛の糸のように薄く、しかし確かにそこにあった。
騒ぎは収まらない。盾を叩く音はより激しく、兵士の罵声が飛び交う中、若い兵士は溜息をつき、傍らの酒瓶へ視線を落とした。喉の渇きを覚え、右手で瓶を掴もうとした。瓶は動かない。彼は力を込める。それでも瓶は地面に張り付いたままだった。不審に俯くと、若い兵士の顔色が蝋のように変わった。自分の右腕が、酒瓶を握ったままそこに転がっている。切断面は鏡のように滑らかで、血の一滴すら滲んでいない。腕だけが独立した生き物のように、瓶の首根っこを固く握りしめていた。周囲の兵士たちは踊り続け、誰も異常に気づかなかった。切断された腕の指が、火明かりで微かに痙攣した。
若い兵士は左腕で右肩を触る。皮膚は無傷で、骨も筋肉も完璧に連続している感覚だった。しかし現実に、彼の右腕は酒瓶と共に地面にある。脳が理解を拒む。心臓の鼓動が耳朶で鳴る。踊っていた巨漢の兵士が近づき、瓶を奪おうと手を出す。
「どけよ、のど乾いた」
巨漢の足が切断された腕を蹴った。腕は瓶ごと軽く揺れ、指関節が軋む音を立てた。若い兵士は叫びたかった。声帯が凍りついた。巨漢は呆然と腕を見下ろし、瓶を諦めて去った。残された腕は、焚き火の光で不自然な影を伸ばした。まるで大地から生えた異形の枝のようだった。
大河の中流域、月明かりが水面を銀色に染める静寂の中で、一台の荷馬車がひっそりと停車していた。深夜の河岸に佇むその馬車は、金糸の刺繍が施された絹の幌に覆われ、明らかに高貴な身分の者が使うものだった。周囲には護衛の兵士の姿も見当たらず、この危険極まりない状況は常識では考えられないものだった。夜風が河面を撫でて行き、馬車の幌を微かに揺らす。馬たちは首を垂れ、疲れた様子で静かに佇んでいた。
荷馬車の内部では、絹の敷物に身を横たえた一人の女性が、まるで何の不安もないかのように優雅に眠っていた。彗だ。雅竹の愛人として知られる彼女は、妖艶な美貌と穏やかな性格で多くの者を魅了した。その豊満な胸元を飾る胸飾りは、月光を受け、鈍く輝いていた。胸飾りの中央には大きな水晶の珠が埋め込まれており、その透明な輝きは彼女の美しさを一層引き立てていた。 しかし、その水晶の珠に、突如として細いひび割れが走った。最初は髪の毛ほどの細さだったが、やがて蜘蛛の巣のように広がり、ついには完全に割れた。水晶の欠片が胸飾りの中でカラカラと音を立てた。彗の瞼がゆっくりと開き、暗闇に慣れた瞳が胸飾りの変化を捉えた。
「一ちゃん!もう行きましょうか。待つ必要はなくなりました。」
彗の声は、馬車の外で警戒に当たっていた一に向けられた。彼女の声には、何かを悟ったような静かな諦めが込められていた。水晶の珠が割れたことが、何かの終わりを告げていると理解していた。雅竹との心の繋がりを示すその珠が砕けたということは、彼がもはやこの世にいないことを意味した。
馬車の外で月明かりの中に立つ一は、常に冷静で整った顔立ちを保っていた。彼は彗の言葉を聞くと、短く頷いた。多くの女性との色恋沙汰を重ねてきた彼だが、それらは全て道具や駒としての利用に過ぎなかった。しかし、彗に対しては一定の敬意を抱いていた。
「わかりました。では次は…」 「そうね。一度…洞に、帰りましょうか。」
「よろしいのですか?」
「仕方ないわ、こうなっては。…案外楽しかったけれど。」
彗の言葉には、わずかな感傷が込められていた。雅竹の下で過ごした日々は、確かに刺激的で充実していた。恐怖による支配の中にも、確かな結束と熱い想いがあった。彼らは雅竹のカリスマに魅せられ、その野望に賭けていた。
馬車が静かに動き出した。馬たちの蹄の音が夜の静寂を破り、車輪が河岸の砂利を踏みしめる音が響いた。彗は割れた胸飾りを手に取り、その重みを確かめた。雅竹への愛情の証として大切にしてきたこの飾りも、今はもう意味を失っていた。
走る馬車の幌から、彗は割れた胸飾りを静かに投げ捨てた。それは月光の中で一瞬きらめき、やがて大河の流れに呑み込まれていった。水面に小さな波紋が広がり、すぐに消えた。胸飾りは、雅竹と共に過ごした日々の記憶と一緒に、永遠に河底に沈んでいった。
焼け爛れた宝物庫の中心で、建岱は微動だにしなかった。鎧の隙間から滴る血と汗が床の灰を濡らし、鉄錆と焦げた木材の臭いが重く淀む。雅竹の消えた跡には、わずかな朱の炎の残滓がちらつき、すぐに風に消え去った。その静寂を破ったのは、甲板から聞こえる慌ただしい足音だった。軋む階段を駆け下りる影――寅の一人、兵似だった。彼の呼吸は荒く、額には脂汗が光っていた。鎧の胸当てに深い斬り痕が走り、左腕を不自然に押さえていた。それでも、建岱の前に跪くと、顔を上げた瞳には揺るぎない忠誠が燃えていた。
「建岱殿!ご無事で……!」
「兵似か。遅かったな。」
「申し訳ございません!上層甲板の炎が通路を塞ぎ、ようやく抜け出しました。」
「雅竹は消えた。だが、油断は禁物だ。お前の傷は?」
「かすり傷です。むしろ、殿のお体が……!」
建岱は軽く手を挙げて兵似の言葉を制した。古錠刀を鞘に収めると、その動作は疲労で鈍りながらも威厳を失っていなかった。周囲を見渡す――崩れた火薬樽、溶けた金銀、天井から垂れる炎の雫が見えた。船全体が死の呻きをあげていた。
「兵似、今すぐ動け。船の被害状況を掌握せよ。特に火薬庫の残存状態と、生き残った兵の数だ。雅竹の部下の掃討も急げ。」
「かしこまりました!では、報告場所は?」
「操舵室だ。半刻後を期す。」
「はっ!」
兵似が立ち上がろうとした時、建岱の視線が部屋の隅を捉えた。がれきの影に、獣のように蹲るランがいた。彼は雅竹との戦いを終始無言で見つめ、今も灰まみれの服のまま動かない。瞳だけが、闇の中で琥珀のように鋭く光っていた。
「ラン。」
「……ん。」
「後で、わが自室へ来い。用がある。」
「…わかった。」
短い応答だった。ランは建岱の目を一瞬まっすぐ見据え、うなずくと、再び影に溶け込んだ。兵似は一礼し、階段へと駆け上がっていった。その背中を見送りながら、建岱は肩の傷を押さえた。鎧の下で血が滲んだ。雅竹の最後の一撃が効いている。
操舵室は意外なほど損傷が少なかった。巨大な舵輪は無傷で、羅針盤のガラスにもひび一つ入っていない。しかし、壁一面の海図は焼け焦げ、床には砕けた望遠鏡が散らばる。窓の外では、夕陽が血のように海を染め、軍船の帆柱が傾いたシルエットを浮かび上がらせていた。兵似が息を切らして入ってきた。手には羊皮紙の報告書があった。
「建岱殿!確認できました!」
「述べよ。」
「まず、火薬庫は三箇所中、二箇所が全壊です。残る一箇所も浸水しており、使用不能。兵士の損害は……死者四十八名、重傷者三十名です。雅竹配下の残党は、ほぼ掃討済み。ただ…」
「何だ?」
「船体中央部の大穴が致命傷です。浸水は止まらず、このままでは沈没は避けられません。」
兵似の声には悔恨が滲んだ。建岱は報告書を受け取らず、窓の外を見つめた。波間を漂う木材や布切れ――部下の亡骸だった。彼の拳がわずかに震えた。
「…生存者の避難は?」
「小型艇は七割が無事です。すぐに手配を。」
「急げ。重傷者を優先だ。わしの命令で動かせ。」
「はっ!では、殿は?」
「構うな。わしには、まだ果たすべきことがある。」
兵似は深く頭を下げ、踵を返した。その足音が遠ざかる中、建岱は操舵室の机に手をついた。無傷に見えた室内も、柱に深い亀裂が走っていた。彼は息を吐くと、肩の傷を押さえながら自室へ向かった。廊下は崩落がひどく、迂回を余儀なくされた。壁には無数の斬り痕が刻まれ、所々に黒い血痕が飛び散っていた。雅竹の狂気の爪痕だった。
自室の扉は半分吹き飛んでいた。建岱が中へ一歩踏み入れると、異様な冷気が肌を刺した。夕闇に浮かぶ机の上には、一輪の花が置かれていた――鮮やかだが、花弁の縁が不自然に炎色に輝いていた。その前で、背筋を伸ばして立つ人影があった。黒い長衣が微風に揺れ、顔は影に隠れていた。しかし、その存在感は、雅竹以上の重圧を放つ魔人だった。
「…待っていたぞ、建岱。」
「よくもこの船に。」
「面白い実験場だった。特に…お前の戦いぶりはな。」
魔人の声は平坦で、感情の襞一つなかった。彼はゆっくりと振り向いた。顔は整っているが、目には焦点がなかった。まるでガラス玉のようだった。右手が自然に挙がる――その掌から、半透明の大砲がにわかに具現化した。
「ふん。お前の目的は何だ?何を企む!」
「あの炎?雅竹?どうだった?楽しかった?次は僕とやろうよ。これは進化の証明だ。お前も…その一環になる。」
建岱の古錠刀に。黄金の炎が刀身にまとわりついた。一方、魔人の大砲の砲口が、静かに朱色の光を蓄え始めた。室内の空気が張り詰め、机の上の花が突然散った。花弁が床に触れる瞬間、炎に変わった。
「愚かな!十二神獣を誰だと思っておる!」
大砲の砲口が閃光を放つ――だが、それは銃弾ではない。光の奔流が螺旋状に渦巻き、空間そのものを歪ませながら建岱へ襲いかかった。建岱は刀を構えた。黄金の炎が竜のように唸った。
「虎王焔舞陣!来い!」
夕闇が海を紫に染める中、ランはマストの頂で微動だにしなかった。風が黒髪を乱暴に梳り、傾いた甲板から立ち上る焦げ臭い煙が鼻孔を刺す。右腕をゆっくりと掲げ、掌から指先までを凝視する。見た目には何の変わりもない。だが、あの巨漢・啊との死闘で感じた異物感が、今も筋肉の奥深くで蠢き続けていた。
「刻まれたぞ……俺の中に、貴様の"祈り"が」
「祈りって何だ」
風の唸りに混じって、あの最期の言葉が脳裏を掠める。全身の骨を砕かれた格闘家は、喉から迸る血の泡と共に何を託そうとしたのか。ランが拳を握りしめると、腕には力強い血管が浮かび上がった。それでも何も起こらない。あくまで凡庸な血肉の塊に過ぎなかった。
呟きは波音に消えた。祈るという行為が、彼の生存本能には理解を超えている。獲物か狩人か、強者か弱者か、生か死か。それこそが世界の全てだった。しかし、あの巨漢の瞳に宿っていた異質な光が、単純明快な価値観に僅かな亀裂を走らせたのだ。
甲板下から兵士たちの怒号が響く。負傷者を運ぶ軋む担架、消火の為に撒かれる水音、船体を貫く不気味な軋み。沈没が目前であることは誰の目にも明らかだった。ランはマストから落下せず、軽やかに宙返りを描いて崩れた甲板へ着地した。足音は風に消える。
「建岱殿がお待ちだ。即刻、御前の居室へ」
兵似の声だった。左腕に巻いた包帯から血が滲み、疲労の影を落とした顔に安堵の色が浮かんでいる。ランは黙って頷き、瓦礫の山となった甲板を駆け抜けた。右腕の異物感は薄れていなかったが、今は気にする時ではない。建岱が待っているのだ。
船内は修羅場と化していた。梁から滴る血、壁に飛び散った内臓の破片、呻きながら這う兵士たち。木材が軋む度に船体が痙攣し、硝煙と鉄臭が淀んだ空気を満たす。ランは獣の嗅覚だけで迷宮を進む。あの戦いの匂い──啊の汗と鉄の味が道標となった。
「ラン。建岱殿のもとへ向かう所か」
振り返れば綾が立っていた。黒の長襦袢に紫の長着を纏った青年は、礼儀正しく手を組みながらも、瞳の奥に研ぎ澄まされた警戒を宿している。その声は冷静そのものだったが、ランには分かった。まるで天敵の気配を察知した獣のように、この男の全身が緊迫に震えているのだ。廊下は戦禍の爪痕に埋もれている。壁を貫いた巨大な拳の跡、血に染まった鎖帷子の破片、刃こぼれした槍の穂先。あの格闘家がいかに桁外れの怪物であったかを物語る遺構だった。
綾が歩調を合わせながら問う。打刀の鞘が微かに揺れる。
「あの巨漢・啊の最期の言葉を聞いたか」
「祈りが刻まれたと」
「祈り、か」
「理解できん。何の意味か」
「お前らしい答えだな。だが、そのお前らしさこそが他者を動かす。それもまた祈りの形と言うべきか」
ランは再び右腕を見つめた。見た目には無傷だが、骨髄の奥底で何かが脈打つ感覚が消えない。綾の言葉は理解を超えていたが、その声には奇妙な温もりがあった。まるで凍った湖底に灯った炎のようだ。
建岱の居室は船の心臓部にある。二人が近づいた瞬間、雷鳴が船内を劈いた。天を裂く轟音と共に船体が跳ね上がり、ランは無意識に前のめりになった。綾の指が刀の鍔に白く食い込む。
「何事だ!?」
「急げ!」
綾の声に初めて軋みが走った。二人が駆け出すと同時に、ランは胸奥に嫌悪感を覚えた。あの格闘家が放った殺気とは次元の違う、底知れぬ悪寒が脊椎を駆け上がる。
扉は歪んで半開きになっていた。隙間から漏れる灯火が、廊下に長い影の蛇を這わせる。綾が刀で扉を押し開けた刹那、二人の息が止まった。
建岱が部屋の中央に立っていた。否、立たされていた。巨剣が彼の煌びやかな鎧胸を貫通し、背中から血染めの刃先が突き出ている。白銀のたてがみは赤黒く濡れ、威風堂々たる体躯から力が抜け落ちていた。そして、その剣柄を握る人物──綾の喉から悲鳴が迸る。
「ラエル!!!」
「綾、久しぶりだね」
「この裏切り者が!」
綾の絶叫が硝煙を揺らした。常に水のように冷静な青年の表情が、初めて激情で歪む。ラエルは串刺し状態の建岱を弄ぶように揺らしながら、無邪気な笑みを浮かべていた。手の甲に滴る血しぶきが、絨毯に暗い花を咲かせる。
綾の打刀が閃いた。居合いの極意が空気を斬る。普段の礼節を捨てた純粋な殺意が刀身に宿っている。同時にランも飛びかかった。右腕最深部で、あの"祈り"が突然激しく脈動し始めた。
「ぎゃははは!寅と遊べて満足満足!だから──」
「***」
ラエルの哄笑が壁を震わせる。その声は子供のようでありながら、狂気の鋭さを孕んでいた。彼が口を開いた瞬間、船全体が握り潰されるように歪んだ。見えざる巨神の掌に掴まれたかのように、船体が四方から圧縮される大音響が轟いた。
梁が蜘蛛の巣状に裂け、鉄板が悲鳴を上げて剥がれ落ちる。天井から木材の雨が降り注ぎ、床が波打つように隆起した。
「畜生が!」
「ラエル──!」
ランは建岱の身体を引き抜こうとしたが、瓦解は想像を超えていた。甲板が垂直に傾き、壁が雪崩のように崩れ落ちる。綾は瓦礫の海で踏ん張るが、船の自壊は加速するばかりだ。まるで巨大な生体が内側から腐敗するように、全てが崩れていく。
綾の叫びは轟音に飲み込まれた。船体が断末魔の呻きを上げて分解し、暗い大河の流れに呑まれていった。冷たい水が轟音と共に廊下を満たし、建岱の白髪が水中でゆらめく。ランは最後に、ラエルが崩れる天井の向こうで手を振っている幻影を見た。そして全てが闇に沈んだ。
第2章が終わりました。お疲れ様です。
バットエンド風ですが、だんだんとランがアニマを習得したりと、物語が進んでいきます。




