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or  作者: 真亭甘
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北の大河 7

軍艦の巨体が、容赦なく押し寄せる波に打たれ続けた。船全体を包み込む轟音と、甲板に張り詰めた不気味な静寂とが、奇妙な均衡の中で溶け合っている。風は大きな帆をはらませ、重厚な木組みが軋み、呻き声を上げた。その船の中心で、二人の男が互いに対峙していた。彼らの間に流れる空気そのものが、まるで研ぎ澄まされた刃のように張り詰め、微かな震えを伴っていた。


「…理を知らぬ、獣の化身。だが…この身には、どんな打撃も通じぬ。」


雅竹の部下である(アギ)の巨躯は、微動だにせず、まるで一枚の岩壁のように強固に屹立していた。その深淵のような双眸は、獲物を冷静に見定める猛禽のように、挑戦的な眼差しでランを捉え続けていた。その目は、ランの存在そのものを根底から見透かすかのようだった。

次の瞬間、ランは啊の視界から完全に消え去った。いや、消え去ったのではなく、あまりにも速く動いたのだ。ランが踏み込んだ足元の甲板が、わずかに沈み込む。そして、風を切り裂く鋭い音が、彼の動きに遅れて追いついた。


「消えた!? いや、速度が——!」


啊の心中に驚愕が走るよりもさらに速く、ランの拳が炸裂した。幾多の戦いを経て鍛え上げられたその拳骨は、まるで鉄砲玉のように、啊の無防備に見えた腹部へと、躊躇なくめり込んだ。凄まじい衝撃が甲板全体を伝播し、船を揺らす。だが、その強烈な拳を受け止めた巨漢の体は、驚くべきことに微動だにしなかった。まるで打たれたのが自身の肉体ではなく、何の関係もない他人の肉体であるかのように、啊は平然としていた。


「浅い。」


啊の低い、地の底から這い上がってくるような声が、周囲の激しい波音をも完全に掻き消した。その声に含まれたわずかな戸惑いが、一瞬、ランの心を掠める。


「……え?」


次の刹那、水が流れるような滑らかな動きで振り抜かれた啊の鉄の肘が、ランの側頭部を直撃した。鈍く、重い衝撃音が響き渡る。ランの体重を軽々と上回る破壊力が、彼を吹き飛ばした。船縁まで後退するランの足が甲板を深く削り取り、砕けた木屑が宙に舞う。しかし、ランは倒れない。獣じみた本能と反射神経で即座に体勢を立て直し、両足を甲板に深く食い込ませて、その場に踏みとどまった。彼の目に宿るのは、むしろ激しく燃え盛る闘志の炎であった。


「チッ…!」


吐き捨てるように荒々しく舌打ちすると、ランは再び地を蹴った。彼の中で湧き上がる無念と、己の拳への信頼が呼応し合う。右、左、上段、下段、胴、顔面——ランは打点を変え、角度を変え、容赦ない怒涛の連打を啊の巨体に叩き込んだ。拳骨が肉に叩き込まれる重々しい音。蹴りが啊の防御の腕を打つ鈍い音。甲板全体がランの打撃の衝撃で大きく揺れ、軋み、波の轟きと不気味な合唱を奏でる。しかし、そのすべてが啊の前では無力化される。啊の動きは最小限で、まさに完璧な防御術。流れるように攻撃を受け流し、捌き、弾く。その巨体は一枚の岩盤の如く、嵐のようなランの攻撃の前にびくともせず、一歩たりとも後退することはなかった。


(…なにこれ、かたい。岩よりも。)


ランは歯を食いしばった。拳の骨が悲鳴を上げて軋む感覚が、はっきりと伝わってくる。打ち込む度に、反動で己の拳が砕け散ってしまいそうになる。まるで巨大な鉄塊、いや、それどころか山そのものを殴り続けているような感覚だった。この異常な硬度は、ランがこれまでの人生で経験したことのない、まさに未知の領域であった。

ランの攻撃の波が、ほんの一瞬途切れた隙に、啊はゆっくりと一歩を踏み出した。その動きは緩やかに見えながらも、ランに対して途方もない重圧を叩きつける。海の精気すらも凍りつくような、圧倒的な威圧感が甲板全体を支配した。


「その拳に、意味はあるか?」


啊の目は、ランの肉体だけではなく、その存在そのものの奥底を覗き込むかのようだった。彼の声は低く、静かでありながら、甲板の軋みをも完全に凌駕して、ランの耳に直接届く。


「硬さとは、生の重み。次なる一撃が問う、“信念”の質。」


その言葉が終わるよりも早く、啊の反撃が炸裂した。その動きは、先ほどまでの防御とは一変していた。静から動への転換が、物理法則をあざ笑うかのような、ありえないほどの加速を生む。ランの視認できるのは、巨大な鉄槌が振り下ろされるかのような、その圧倒的な軌跡だけだった。ランは咄嗟に両腕を交差して防ごうとする。が、その防御は、何の役にも立たなかった。


轟音!


衝撃は甲板を完全に貫き、ランが立っていた場所の木材が砕け散った。防ごうとした腕を強引に押し込まれ、そのままランは宙へと吹き飛ばされる。彼の体が宙を舞い、船縁を越えそうになる寸前、甲板の一角へと豪快に叩きつけられた。背中から受けたあまりにも激しい衝撃で、肺の空気が全て絞り出され、視界が一瞬にして真っ白に染まる。砕けた木片が、鋭く肌を切り裂いた。


「ぐはっ…!」


唾とともに、微かに血の味が口の中に広がる。全身の骨が悲鳴を上げている。叩きつけられた甲板は、ランを中心にまるで蜘蛛の巣状にひび割れ、深く陥没していた。だが、その陥没の中心で、ランは動いた。傷だらけの腕で体を支え、ゆっくりと上半身を起こす。額から流れ落ちた血が片目に入り込み、視界を赤く染めた。彼は袖でその血を乱暴に拭い払う。その動きと同時に、ランの口元がゆるんだ。血と埃で汚れたその顔に、まるで獣のような、純粋で荒々しい微笑みが浮かんだ。


「チッ……こいつ、岩かよ……! でも——」


ランは深く息を吸い込み、荒々しい吐息をゆっくりと吐き出す。全身を襲う痛み、骨が軋む不快な音を、まるで歓迎するかのように。傷ついた肉体から、逆に熱い力が噴き出してくるのを感じる。守るべき何かがあるわけではない。ただ、目の前のこの巨大な壁が、己の拳で砕けるかどうか。それだけが、今のランにとっての全てだった。


「オレの拳、まだ終わっちゃいねぇ!」


血糊で滑りそうになる甲板を、ランは一歩、力強く踏みしめた。膝は微かに震えているが、彼の背筋はピンと伸びている。どんなに打ちのめされようと、決して膝は屈しない。それが、この野生児が過酷な弱肉強食の世界を生き抜く中で、その体に深く刻み込んだ、唯一無二の鉄則だった。ランは再び拳を強く握りしめ、指の関節が白くなるほど力を込める。次なる一歩を踏み込むその瞬間、全身の筋肉がまるで鋼の如く収縮し、今にも解き放たれんとする計り知れない力を漲らせた。


全身の筋肉が鋼の如く収縮したその瞬間、ランは地を蹴った。踏みしめた鉄の甲板が、悲鳴を上げて砕け散る。爆風と見紛う加速で彼の巨体が前方へ迸り、炸裂した木片と追いすがる波しぶきを置き去りにした。両者の間にあったはずの距離など一瞬で無と化し、振り抜かれた拳が空気を灼く。直撃──を、思わせて。


「ッ!」


空気を揺るがす炸裂音が響き渡る。だが、それは拳が肉を打ち砕いた音ではない。まるで必然であるかのように差し出された啊の掌が、ランの拳を、巨大な岩が小石を包むように、完全に受け止めていたのだ。凄まじい運動エネルギーは啊の掌の中で無惨に霧散し、行き場を失った風圧だけが二人の衣を激しくはためかせる。


「……なっ」


ランは驚愕に目を見開く。己の全霊を込めた渾身の一撃が、目の前の微動だにしない巨体に、あまりにも無造作に封じられた。ただ硬いだけではない。まるで、自分の力が自分のものではなくなったかのような、底なしの虚無に吸い込まれる感覚。


血と汗に濡れた前髪の奥、ランの眼差しは依然として野生の光を失っていない。むしろ、理解不能な現象に対する苛立ちと、獣のような純粋な疑問が渦を巻いている。

啊の深淵のような眼が、わずかにランを見下ろす。その瞳に感情の色はない。ただ、そこにある事実を告げるように、静かに唇を開いた。


「お前の拳には、“理由”が足りない」


「なに…?」


「拳はただの凶器にあらず。魂の形なり。お前のそれは、あまりに空虚だ」


言葉と共に、啊はランの拳を掴んだまま、流水の如き動きで軽くいなす。力のベクトルを逸らされ、前のめりになったランの体に、がら空きになった胴体へ、追撃の回し蹴りが嵐のように襲い来る。

ランはそれを左腕一本で受け止め、甲高い衝撃音を響かせる。常人ならば骨ごと砕かれるであろう一撃を耐え抜き、逆にその勢いを利用して啊の足首を掴み取った。


「説教くせぇんだよ!拳で守る? てめぇも結局、殴ってんだろうが! 同じじゃねえか!」



だが、啊はその体勢を意にも介さず、静かに続ける。掴まれた足に微かな揺らぎもない。


「打つに理由あれば、その一撃は山をも砕く。守るに信念あれば、その身は城壁をも超えん。俺の打撃は祈りであり、お前のそれは単なる暴力だ」


「祈りだと? ふざけるな!」


啊が掴まれた足に僅かに力を込める。すると、まるで巨大な万力に締め上げられたかのように、ランの指が悲鳴を上げて弾かれた。体勢を立て直した啊に、一瞬の隙も与えない。


「理屈もクソもあるか! 拳は拳だ! 目の前の敵を、邪魔な壁を、ぶっ壊すためにあるんだろうが!」


唾を飛ばすように叫び、ランの攻撃が再び加速する。獣の咆哮を伴った連撃。右フック、左アッパー、胴への膝蹴り──荒削りだが、一撃一撃が致命的な質量を宿した、命がけの獣の動き。嵐のような猛攻に、さしもの啊の巨体が僅かに後ずさったかに見えた。


「無為に振るう力は、砂上の楼閣に等しい」


しかし、啊の眼はランの猛攻のさらに先を見据えていた。彼の拳が、因果の隙間を縫うように、ランのラッシュの僅かな呼吸の乱れを潜り抜けた。


「──崩れるは、必定」


「ぐおあっ…!」


静かに、しかし絶対的な破壊力を込めて沈み込んだ一撃。的確に急所を捉えた拳が、肺腑を抉る衝撃となってランの体を貫く。彼の巨体が弓なりに反り、口から泡のような唾液が飛び、足が完全に地面から浮いた。先程とは比較にならない衝撃が全身を駆け巡り、彼は再び吹き飛ばされる。船縁の頑丈な手すりに激突し、鉄と木でできた柵が悲鳴を上げて粉々に砕け散った。


「はあ……はあっ……はっ……」


甲板に叩きつけられ、数度転がり、ようやくその勢いが止まる。荒い息が乾いた甲板の埃りを巻き上げた。腹を押さえた手が、じわりと熱く濡れていた。鉄の匂いが鼻をつく。血だ。視界がぐらぐらと揺らぐ。全身の骨が軋み、筋肉が断裂を訴えている。


(…また、同じかよ…)


脳裏に、物心つく前の記憶が霞のように浮かぶ。食い物を奪い、奪われ、ただ生きるために牙を剥き続けた日々。強大な存在の前に、何度もこうして打ちのめされてきた。だが。

諦めるか。

そんな選択肢は、彼の魂の奥底には、生まれた時から存在しない。


「オレは……信じてる」


うつ伏せの状態から、震える腕で体を押し上げる。ミシリ、と全身の骨が悲鳴を上げるが、構わない。額から滴る血が、甲板に小さな赤い染みを作った。ゆっくりと、だが確実に、彼は膝立ちになる。ぬぐわれた血と泥で汚れた顔を、ゆっくりと上げた。その瞳には、今なお揺るぎない原初の輝きが宿っていた。

声はひどくかすれている。だが、その芯は微塵もぶれていない。

膝をついたまま、再び拳を握りしめる。砕かれたはずの指に、黒い紋様が蛇のように浮かび上がり、急速に修復されていく。


「オレの拳は……間違ってねぇ」


「道も、壁も……理屈も……運命も! 全部、ぶっ壊すためにあるんだ!」


「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」


魂そのものが叫びとなった咆哮が、軍艦を、海を、空を揺るがす。膝立ちの状態から、全身を投げ出す最後の捨て身の突進。彼の背後で突風が渦を巻き、粉々になった木材が意志を持ったかのように竜巻となって舞い上がった。彼の右腕に、黒い獣の紋様が明確な形を取り、肘から先を漆黒に染め上げていた。抑圧を破壊し、信念を突き通す力。能力の片鱗が。

啊は、その全てを真正面から見据えていた。感情のなかった瞳に、初めて警戒と、そして微かな憐憫の色が浮かぶ。


(…迷いなき破壊。それ故の、この純度か。このままでは、我が積み上げた"祈り"の重さでさえ、その純粋さに飲み込まれるか?否!)


彼もまた、決然と拳を構えた。もはや、いなすのではない。受け止めるのでもない。守るためではない。打ち砕くために。


轟鳴!


両者の拳が、空間の一点で激突した。

大地が割れるような凄まじい音と共に、衝撃波が空間そのものを歪ませながら炸裂する。二人を中心に半径数メートルの甲板が瞬時に消し飛び、巨大な軍艦が木の葉のように大きく傾いだ。衝撃は海面にまで達し、巨大な白い水柱が天高く上がる。

粉塵が渦巻く爆心地。交錯した拳の圧力が、世界を滅ぼすほどの力で拮抗する、刹那の静寂。

その中で、啊の巨体が流れるように半歩後退し──その反動を利用した反撃の鉄槌が、光より速く、ランのがら空きの防御の隙を、顎を、正確に貫いた。

肉と骨が砕ける鈍い衝撃音。


「──ッ!」


ランの意識が一瞬、真っ白に染まる。今度こそ、全てが砕け散ったかのように、体が吹き飛ばされる。船縁の向こう、荒れ狂う海へと落ちかねない境界線ぎりぎりまで、甲板を削りながら滑っていく。

だが、今回はただやられてはいない。空中で強引に体を捻り、衝撃を受け流そうとする獣の本能が見えた。背中から甲板を擦り、血と木屑のおぞましい道を残すが、その勢いは先程までより明らかに殺されている。

彼は、倒れなかった。

膝をつき、前のめりになりながらも、両手を甲板に深く突き立てて、その体を支えている。顎から滴る血が、ぽたぽたと音を立てて落ちる。息は切れ切れで、肩が激しく上下している。だが、立っている。

ゆっくりと、信じられないほど重い首を持ち上げる。

血に濡れた睫毛の隙間から、揺らぐ視界の先を、ただ真っ直ぐに見据えている。

向こうに、不動のまま立つ巨漢を。

膝はついていても、その眼は、決して死んではいなかった。


(…見えた。速さじゃねぇ。理屈でもねぇ.アンタの拳が、どこから来るのか。……その“祈り”ってやつの、一番深い場所。次で、捉える)


ランの口の端が、血に塗れたまま、微かに吊り上がる。それは、紛れもない笑みだった。



獣のような咆哮が木霊する。


「────ぅおおおおおああああああああッ!!!」


甲板を砕きながら駆けるランの脚は、もはや二足歩行の域を逸していた。爪先で蹴り上げた木片が爆ぜ、風を巻き込むように身体が一気に加速する。視界の全てが一点へと収束した。粉塵の向こう、不動の巨漢。その拳。

 叫び声を引き裂くように、次の瞬間には拳が交差していた。風圧すら置き去りにする速さで、正面から衝突する。


「吼えるだけの野獣が……貫けるとでも思ったか」


啊の低く沈んだ声がぶつかると同時、激震が船体を包み込んだ。

 拳と拳がぶつかりあう音ではなかった。それは、空間ごとひしゃげるような、破壊の轟音。互いの拳が大きく弾け、爆風に乗ってランの体が横滑りに甲板を抉る。だが、同時に啊の拳も大きく反らされていた。その瞬間、わずかに露出した胸元の隙。


「喉なんて狙わねぇ……!ぶっ壊すッ!!」


叫びと同時に拳を引き絞り、胴体めがけて一直線に突き出す。その軌道は、迷いなく一直線だった。もはや野蛮でも無謀でもない。それは、喰らい尽くす獣の一撃。あらゆる防御を無視した一打が啊の巨体を砕き、地に伏せさせた。

呻きとも叫びともつかぬ音を発しながら、啊の体が甲板へと叩きつけられる。だがそれで終わらなかった。衝撃は木板を引き裂き、爆散するように船の内部へと吸い込まれていく。砕けた板、鉄骨、血。あらゆるものが引きずり込まれ、ついには両者の姿が甲板から消えた。

 空虚な沈黙が残る。

 甲板にぽっかり空いた大穴。その奥深く、船内の闇の底に、ふたつの影が沈んでいた。


「……ああ。力とは……どれだけ、祈ったとしても……救えぬものを……砕くしかない時がある」


割れた肋骨の奥から絞り出されるように、啊の声が漏れた。呻きのようでありながら、その響きには確かな意志が宿っていた。痛みも、敗北も、認めながらもなお否定するかのような、低い声。

血の塊を吐き出しながら、ゆっくりと喋る。顔は血と汗に塗れているが、その眼差しは依然として鋭く、ランを射抜くように見つめていた。


「……祈り、か。知らねえな、そんなもん。でもよ、今の拳は、ぜってぇ負けねぇって。俺のを止められるわけねぇんだ。だって、止まったらそこで、終わりなんだよ!だからその全部でぶっ叩いただけだ!」


拳を握り直す。破れた袖口から覗く腕には、裂けた血管が浮き出ていた。血を滴らせながらも、なお力強い。

心底嬉しそうに笑いながら叫ぶと、立ち上がった。あの甲板の衝撃を受けた身体とは思えぬほど、堂々とした姿勢だった。

啊は微かに笑った。血が歯を赤く染め、その笑みはまるで静かに燃える業火のようだった。

そう言うと、ランは地に伏す啊の横を、静かに通り過ぎていった。


「……初めて咆える、か。貴様の拳……確かに、届いた。理屈も、信念も、貫かれた。──存在を、聞いた」


自嘲気味に呟いたあと、目を伏せる。拳を握りかけるが、そこにはもう力がなかった。

そして、また静かに視線を上げる。


「刻まれたぞ……俺の中に、貴様の“祈り”が」



その瞳は、もはや戦う者のものではなかった。語りかけるように、己の中心から一言一言を吐き出すように、語った。

ランは肩を揺らしながら、くつくつと笑っていた。笑いながらも、そこにはどこか切なさが滲んでいた。

その背に、啊の声が届く。


「貴様の拳は……“祈り”だったのかもしれんな。俺より……ずっと深いところから、響いた」


声に力はなかったが、その分、余計に心に染み渡るような音だった。

ランは振り返らなかった。ただ、その背にある言葉を、黙って受け止めた。


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