北の大河 6
金属の軋みが消え、船内通路は重い沈黙に包まれる。
騒動の種は、もはや彼の関知するところではない。
「――来るか」
綾の声が、通路の奥から冷たく響く。刃を研ぐような鋭さだ。彼は動かず、ただ示志を視界の中心に捉え続ける。紫の長着の裾は微動だにしない。
「うははは……いい目だ。だがな――」
示志は音もなく間合いを詰める。影のように滑り、腰の刀の柄を愛おしげに撫でる。狂気の笑みが口元に張り付き、その瞳が綾の愛刀「双相」を貪っていた。
「俺の望みは“勝つ”ことじゃねぇ。“斬る悦び”、それだけだ。貴様のその刀でな、綾よ」
「……ならば、遊び半分では斬れんぞ」
綾の指が、腰の「双相」の柄に触れる。その僅かな動きで、通路の空気が刃の切っ先で満たされるかのようだ。冷たい硝子の如き視線が示志を貫く。秩序を重んじる者と、混沌を愉しむ者。相容れぬ理念が、見えざる火花を散らす。
「うははは、それがいい! 遊びきった“末”に斬る。それこそが“美”だ! 存分に愉しませろよ、綾!」
示志の体が鞭のようにしなり、次の瞬間、その姿が霞む。視界を歪めるほどの速度で左へ流れ、同時に腰の刀が抜かれた。だが、刃は綾へ向かわず、虚空に無数の斬撃の軌跡を描く。背中から触手が噴き出したかと錯覚させる、妖しい背車刀。
「双相」が、鞘の中で低く唸る。綾は、示志が放つ殺気の奔流を真正面から受け止める。床板が軋むほど微かに踏み込む。心眼を持つ示志にとって、幻惑的な動きも明確な軌跡として映る。しかし、その速さは純粋な脅威だ。放たれた最初の一閃が、綾の頬を掠める。血の一粒が、白い肌に赤く浮かんだ。
「速い……だが!」
綾の体勢が沈む。抜刀の気配すら感じさせない神速で、「双相」が虚空を薙ぐ。「溢」――居合の初歩「湧」を昇華させ、鞘走りの初速をそのまま斬撃と化す一閃。鞘から放たれた鋼線が、示志の無数の斬撃をただ一本で断ち切った。
鋭い金属音が炸裂し、火花が散る。
「おおっ? やるじゃねぇか! だが、それだけか! もっと見せろよ、名刀『双相』の真髄をよォ!」
示志は流れるように後退し、再び不可解な軌道で間合いを詰める。刀身を逆手に持ち替え、毒蛇が鎌首をもたげるように、地を這う斬撃を放つ。
綾は跳躍でそれに応じ、空中で体を捻り「双相」を振るう。刃が激突し、鈍い衝撃が互いの腕を痺れさせる。着地と同時に、示志の追撃が牙を剥く。乱れ打ち。その一撃一撃が致命傷でありながら、全てが遊びの域を出ない。殺意と愉悦の暴風が綾に襲いかかる。
「はははっ! いいぞ、いい反応だ! 刀が泣いてるぜ、綾! もっと熱くなれ、もっと狂え! それが貴様の正義か? つまらねェ秩序など、この俺が斬り刻んでやる!」
「……黙れ」
綾の声に、初めて鋭い棘が宿る。示志の言葉が、彼の内に眠る復讐心――失った友の記憶を抉った。その一瞬の感情の揺らぎが、致命的な隙を生む。示志の目が、獲物を見定める猛禽の如く細まった。
「うはははは! そうだ、そうでなくっちゃな! 正義の仮面を剥ぎ取って、その奥にある“本物”を見せろ! それが、俺が望む“悦び”だ! 綾よォォ!」
示志の咆哮が船内を揺らす。彼の刀が、今度は真上から豪剣となって振り下ろされた。一撃必殺の気迫。綾は「双相」を頭上で構え、渾身の力で受け止める。
激突!
鈍重な衝撃が二人の足元の床を凹ませ、軋ませる。火花が飛び散る中、至近距離で、狂気に満ちた示志の瞳と、冷徹を極めた綾の瞳がぶつかった。
「……斬る」
綾の唇が、確かな殺気を湛えて動く。示志の口が、耳まで裂けるほどに歪んだ。
「そうこなくちゃなァァ!」
綾の一閃は、虚空を切り裂いた。黒い襦袢の裾が舞い、紫の長着が残像を描く。「双相」の刃は、示志の眉間を貫くべく、凝縮された殺意と共に突き出される。理の通った、無駄のない一撃だ。
「――綺麗だ、その軌跡。だが、“刃の音”がまだ甘ぇな」
声は、刃が到達するはずの数センチ後ろから響いた。示志の巨体は、異様な反応速度で紙一重、これを回避する。地面を踏む音も、風を切る気配すらない。まるで最初からそこに立っていたかのようだ。
示志の口元が歪む。その笑みと同時に、彼の無骨な刀身が横滑りし、綾の鋭利な「双相」の切っ先へ、わざとらしく寄り添うように触れていく。
――キィィン!
「唾合わせ」。それは衝突でも斬り合いでもない。互いの刃が触れ、滑り、火花を散らす、危険極まりない“遊び”だ。示志の刀は、「双相」の切っ先から棟へ、その軌道を優しく、しかし確実になぞっていく。
「――ッ!?」
綾の目が見開かれ、瞳の奥に動揺が走る。己の刀筋を完全に見透かされ、その切っ先を「遊ばれている」。この男の技量は、尋常の域を遥かに超えていた。
「うはははっ! 抜き取り合う“瞬間”――それこそが至高だよ、綾ィ! 己の刃の肌理、相手の鍛え……うははは、それらをこの手で知りてぇんだよ! 触れて、感じて、その全てを味わい尽くす!」
狂気の笑い声が、刃の軋む音に重なる。示志の刀は生き物のようにしなやかに動き、「双相」の刃を舐めるように滑り、時に軽く弾き、時に押さえ込む。それは攻撃ではない。完全なる“鑑賞”だ。
彼の眼差しは、狂気の奥底に紛れもない陶酔と渇望を宿していた。刀と刀が触れ合う刹那、火花が散る瞬間、刃が呻く音色そのものを、貪るように愛でているのだ。
「――だから、すぐには斬らねぇ」
示志の声が、奇妙なほど深く、甘く響く。言葉と共に、彼の刀が再び「双相」の刃を、根元から先端へと、撫でるように滑り上がる。
キィィィィィン……!
長く尾を引く金属音が、綾の鼓膜を震わせる。
「焦らす悦びもまた美よ……! その、追い詰められた時の刃の震え、瞳の揺らめき……! うははははっ!!」
速さだけではない。この男は、戦いの全てを“楽しんで”いる……!
綾の歯が軋み、額に冷たい汗が滲む。相手が純粋な殺意だけならば計算が立つ。だが、示志の目的は違う。綾そのものを、彼の剣を、その反応を、じっくりと弄び、味わい尽くそうとしている。目的が「殺すこと」ではないからこそ、その行動は予測不能で、その執着は恐ろしいほどにしつこい。単純な殺人鬼以上に厄介な狂気であった。
「――だが、焦らしもそろそろ佳境かァァ?」
示志の口元に、獣じみた狩人の笑みが浮かぶ。その瞬間、刀捌きが微かに、しかし確実に変化した。これまでの“撫でる”動きから一転、明確な“力”が込められる。綾の「双相」の軌道を、根元から下へ、そして――外へ弾き飛ばそうとする動き!
「ほぉらッ!」
示志の無骨な刀が、大地を穿つように跳ね上がる。「すくい取る」一撃。「双相」の下から襲う重い軌道が、綾の刀を宙へと弾き飛ばさんとする。風圧が紫の長着を激しく翻した。
「――ッ!」
綾は足で地面を蹴る。腕力で抗うのは無謀と判断し、弾かれる刀身の動きに体重を乗せ、体ごと半回転する。風車のように、「双相」の切っ先が銀色の円弧を描き、示志の跳ね上げる力を流し切った。
「ふっ――」
示志の口元に、獲物の反応を楽しむ狩人の笑みが浮かぶ。それは綾の踏み込みを誘う羅だった。回転で体勢がわずかに崩れた刹那、示志の巨体が滑るように半歩踏み込む。彼の左手が、待ち構えていたかのように伸びる。
――ズン!
「うははは……もらったぜ、その“意匠刀”!」
示志の掌が、「双相」の鍔元を確かに押さえつけた。剣士にとって最も致命的な制圧の一つ。刀の自由を封じる、鉄の楔だ。掌から伝わる重く冷たい圧迫感が、綾の指先を痺れさせる。
「……っ!」
綾の細長い瞳が、驚愕に見開かれた。
手首の遊びを読まれた!? まさか、この位置を……!
示志は軌道のみならず、綾の手首の可動域、刀を扱う際の微妙な「遊び」までも見抜き、その一瞬の隙を衝いたのだ。死の重圧が、瞬時に綾の背筋を這い上がる。
「いい! それでいい! “刀と剣士の一体”――その完璧な調和が、俺の掌一つで歪み、崩れ落ちる瞬間が何よりも甘美よ! うははははっ!」
示志の狂おしい笑い声が、押さえつけた刀の上で炸裂する。その目は、獲物の絶望的な抵抗を貪る捕食者のそれだ。至高の芸術品を自らの手で破壊する、歪んだ陶酔に満ちていた。刀と剣士が一体となった美しい調和の崩壊そのものを、心の底から味わい尽くそうとする狂気が、その笑い声に込められている。
「だが……今度はどうだ?」
示志の口調が、突如として甘く、危険なほどに低くなる。押さえつけていた掌の圧が微かに緩む。それは解放ではない。新たな狂宴の始まりを告げる合図だ。
示志は、通常の斬り合いの間合いよりも、さらに一歩深く踏み込んだ。互いの刀身が交錯するには近すぎ、斬り込むには中途半端な、危険極まりない領域。彼の無骨な刀が静かに動き出す。斬撃ではない。振りかぶる気配すらない。示志の刀身は、綾の「双相」の切っ先へと、ゆったりと、しかし確実に向かってくる。
「――ッ」
綾が刀を引こうとするが、一歩深い間合いがその動きを封じる。示志の刀は、「双相」に触れることなく、まるで刃の表面を撫でるかのように、危険なほど密着して滑り過ぎていく。火花の美しさすら拒絶し、刃そのものの存在感と切れ味だけを極限まで強調する、異様な撫で斬り。示志の目は恍惚と揺らめき、刀の軌跡そのものを愛でていた。
その動きの終端で、彼の口が歪む。
「ふん……斬るのは“表面”だけじゃねぇよ、綾ィ?」
低い声が、刃の軌跡に重なる。刹那、綾の左肩付近の空間が微かに歪んだ。斬風はない。だが――
ズキッ!
「――っ!?」
鋭い、剥き出しの痛覚が神経を突き刺す。まるで斬られる感覚だけが、刃の到達に先立って襲ってきたかのようだ。綾の細長い瞳が瞬間的に見開かれる。
(感覚が……斬られた感覚が先に来る!? この男、何を――!?)
思考を遮るように、左肩の黒い長襦袢がぱっくりと裂け、赤い血が一筋滲み出る。深い傷ではない。だがそれは、紛れもなく物理的な到達の証左。刃は触れず、痛覚と結果だけが現れる、理不尽な一撃。
「……ほらよ、一滴目。次はもっと深く、“芯”を知ってやる……お前という剣士の、刀の、なァ!」
示志の目が、綾の肩に滲む血滴を貪るように捉える。その言葉は、獲物の内臓を味わう前の、貪欲な予告に等しかった。
「――ッ!」
綾の構えが鋭く変わる。左足を引き、刀をやや高く掲げる攻撃的な姿勢へ。示志の異常な剣技に対抗すべく、間合いを再構築せんとする意志がその身に満ちる。
「うははは! いいぞ綾ィ! 剣が応えてきたじゃねぇかッ!」
示志の狂喜の声が轟く。その巨体は、先ほどよりさらに速度を増し、完全に「回避と試し斬り」の狂宴へと移行した。綾が間合いを読み直そうとする思考の刹那さえ、示志は異様な反応速度で先読みし、常に半歩先を踏み続ける。綾の刀筋は、彼の体をかすめる事も叶わず、空虚な空間を切り裂くだけだ。
「くっ……!」
焦燥が綾の眉間に刻まれる。その瞬間、「双相」が閃いた。左斜め下段から逆袈裟に、示志の脇腹を抉る速攻。流れるような反撃の起動!
「――おおっ?」
示志の目が危険な光を増す。右手の無骨な刀が奇妙な角度に傾き、刃を完全に「寝かせた」状態になる――
鈍い金属音が響く。キィィィン!
《滑鬼唾》(かっきだ)――!
寝かせた刀身が、「双相」の逆袈裟斬りを真正面から受け流す。刃と鋭角に触れる通常の唾合わせとは異なり、その斬撃は逃げ水のように表面を滑り、威力が強制的に逸らされた。
「はァッ!」
刀を流され、わずかに前のめりになった綾の胸部中央へ、示志の右肘が鉄砲玉のごとく炸裂する。
「――ぐっ!」
衝撃に綾の体が大きく反り、息が詰まる。だが、足は地を削りながら必死に踏み止まった。その一瞬の隙を、示志は見逃さない。
「うははは……次は背中の影からだァ、綾ィ!」
嘲笑が耳元を掠め、示志の巨体が視界から消える。否、異様な体捌きで、綾の真正面から背後の死角へと文字通り「滑り込んだ」のだ。
《影廻り》(かげまわり)――!
カシャッ!
乾いた金属音が響き、示志の右手首が関節を外したように反転する。握られた刀が背中に回され、刃は背骨に沿うように立てられる。そのまま――肩越しに、真横から水平に、回り込むように斬り込まれる!
完全に視界を外した、死角からの絶妙な一撃。
「!」
危険感知が脊髄を駆け抜ける。思考より先に体が反応した。膝を強く地面に叩きつけ、上半身を極限まで沈める、回転を伴う防御姿勢! 刀を構え直す間もない。生死を分けるのは、鍛え抜かれた肉体の反射のみだ。
スッ!
冷たい斬風が、綾の左肩を掠めた。先ほど血を滲ませた部位を、今度はさらに深くえぐるように。黒い長襦袢が裂け、新たな血の筋が浮かぶ。間一髪。しかし、完全には避けきれなかった。
「“鋼の舞”も悪かねぇな……だが、舞が遅ぇよ、綾ィ」
示志の声が、冷たくも熱を帯びて響く。至高の芸術を鑑賞する批評家の、しかし同時に、飽くなき渇望を隠さない狩人の声。
その目つきが一変する。
狂気的な愉悦の奥底に、深淵のような集中力が急速に凝縮されていく――
【示志の最高潮】《剣円》(けんえん)
示志の周囲の空気が、重く淀む。荒々しい呼吸音が唐突に消え、真空の如き静寂が戦場を支配した。彼の存在そのものが、「音すら遅れる」という矛盾を体現し始める。動きは見える。だが、それに伴うはずの風切り音、足音、衣擦れの音、その全てが、動作に「遅れて」追い付いてくる。不気味な時空の歪みだ。
「うははは……さァ、“心”まで裂いてやるぜ……お前の、刀の、全てをなァ……!」
示志の歪んだ笑みだけが、異様に明瞭に響き渡る。
彼の巨体が、右半身を極限まで絞り込み、左半身を解放する、矛盾した構えを取る。まるで巨大な竜巻の目が一点に凝縮されるようだ――
時計回りの円軌道斬り。
もはや剣技ではない。それは自然現象に等しい。
示志の刀身が描く完璧な円弧。その始動と同時に、綾に「斬られる感覚」が襲いかかった。刃が到達する前に、皮膚が裂け、肉がえぐられる幻痛が神経を焼く。物理的な攻撃以前に、魂を鈍らせる魔刃。それが《剣円》の本質だ。
「――――ッ!!」
心臓を直接貫かれたかのような幻痛。思考を置き去りにし、綾の肉体は本能で動いた。
バンッ!
足元の床材が砕け散る。
綾の体は弾丸のように後方へ跳躍し、目にも止まらぬ速度で離脱を図る。紫の長着の裾が、空中で激しく波打った。
だが――
「逃がすかよォォッ! 喰らえェッ! 《裂界》(れっかい)――!」
示志の哄笑が、綾の耳朶を焼く。 その巨体は《剣円》の完璧な円軌道を描く最中、綾の跳躍先の空間へ「断裂」した。空間そのものを踏み破る異様な追従。着地点は既に塞がれ、跳躍は完全な罠と化した。 もはや斬撃の体系を超越した、フリッカージャブの如き乱斬撃の奔流! 示志の右半身が微細に、しかし凄まじい速度で振動し、その振動が刃筋を狂わせながら、刀の間合いを遥かに超越した射程へと膨張させる!
ヴヴヴヴヴッ! バキッ! ザッッ!
無数の刃風が空間を歪ませる。それは風圧ではない。刃の概念が無軌道に乱反射し増幅する現象だ。触れてもいない黒い長襦袢が裂けていく。着地した綾の周囲を、見えない刃の檻が閉じていた。
「ぐあっ……!?」
綾の膝が地面に付きかける。無数の裂傷が全身に浅く、しかし確かに刻まれていく。軌道が読めない。受けるべき刃、流すべき衝撃の区別すらつかぬ混沌。血の霧が、綾の周囲に微かに立ち昇った。 示志の眼が、獲物の隙を獰猛に捉える。彼の巨体はさらに異様な動きを見せ――膝を深く曲げ、爆発的な跳躍力で漆喰の剥がれた天井へと舞い上がった。
「はァッ……! 足、止まったなァッ! 上だァァッ! 《影乱》(えいらん)――!」
空中で示志が叫ぶ。その背中という概念すら歪み、空間が濁る。一瞬にして、無数の「刃」が漆黒の触手のように蠢きながら乱れ生えた! 《裂界》の応用であり、かつてない狂気の具現。無数の刃が、軌道を持たずに竜巻の如く、あらゆる角度から綾へと襲いかかる!
ヴィィィン! ザザザッ! ギギギッ!
恐ろしいほどの多角的乱舞。綾が刀を構えるも、その防御は無意味に等しい。
「く……っ! どこで……どこを……!?」
「うははははっ! わかるか綾ィ!? どこで受け、どこを払えば止まるのかわからねぇ……この恐怖がたまらねぇんだよォォ!」
示志の狂喜の声が降り注ぐ。軌道なき刃の奔流は、防御の概念を嘲笑う。
「もっと……もっと見せろォ! その鋼が軋む音を! 血が踊る軌跡をォッ!」
降り注ぐ刃の雨の中心で、示志の眼がさらに深い愉悦に染まる。追い詰めた獲物に、最後の一撃を刻む時だ。彼が重力に逆らい急降下し、その手に握られた刀が異様な輝きを放つ――
《裂美輪》(れつびりん)
極短距離。着地と同時に、示志の刀が狂い咲く。「多段唾合わせ」という名の、超高速の刃の饗宴。双相の刃へ、示志の刀身が次々と触れ、弾き、撫で、叩く! 火花と金属音の奔流が空間を埋め尽くし、一瞬で十を超える衝撃が綾の手のひらを襲う!
「ぐあッ……!?」
耐え切れず、綾の指が痺れる。その刹那、示志の刀が「双相」の鍔元を強烈に弾き上げた。
スカッ!
綾の愛刀が手から離れ、無情にも空中へ弧を描く。無刀。絶体絶命。
「うははは……これじゃあ、召喚する間もねぇぞぉ!!! “骨の鳴る音”まで聴かせてくれやァ!!!」
狂悦を顔に刻み、示志の刀が動く。弾き上げた反動を利用し、流れるように刃先を跳ね返す。刺突。避けようのない殺意の軌跡が、綾の心臓を狙った。
(刺突――! 刀が、ない――!)
思考が絶望に染まる。死が目前に迫る――その時。
『―――刀とは、
物ではない!!
イメージです。
心で!
魂で!
形作る物!』
言葉が、雷となって魂を貫く。 示志の刺突が迫り、風圧が肌を裂く。無刀のまま、綾の右足が地を砕くように踏み込まれた! 呼吸が止まり、思考が浄化される。全てを一瞬の「斬り」に託す――
「颯」(はやて)
無刀のまま、綾の体が前へ疾走する。示志の刺突の軌道上へ、自ら飛び込んだ! その動きは、刀を握っていた時と寸分違わぬ体幹軸回転。右手は虚空を握り、振りかぶる――見えない刀身で、袈裟斬りの軌跡を描く!
空気そのものが刃と化し、魂が放つ無音の一閃!
激突。
しかし、それは肉を穿つ鈍い音ではなかった。
スゥッ―――ッ!!
鋭く、清冽な、何かを断ち切る高音。 そして、
ドサリッ!!
重いものが地面に落ちる鈍い音が響いた。
「…………ッ」
示志の視界が、不自然に跳ねる。違和感。信じがたい空白。斬撃を放ったはずの、己の右肩から先が――見当たらない。虚ろな空間に、鮮やかな赤い花が遅れて咲き乱れた。 噴き出す血潮が、朱の軌跡を描く。 遅れて、もう一度、ドサリ、と鈍い音が響いた。示志自身の右腕と、その手に握られたままの刀が、床に転がっている。
示志が、一歩、静かに後ずさる。顔面を己の返り血が奔流のように流れる。だが、表情に怯えも怒りもない。あるのは――剥き出しの驚愕と、それを凌駕する恍惚。口元が、耳まで裂けるほどの、狂おしい笑みへと歪んだ。
「………ほぉ! やるじゃねぇか……! うははははっ!!! 最高だな、最高だッ! 俺の“遊び”に、ようやく“遊び返す”奴が出たってわけだァァッ!!!」
声は歓喜に震えていた。 爆発的な哄笑が、血塗れの戦場を揺るがす。示志は、失った右腕の断面すら顧みず、天を嘲笑うように笑い続ける。その純粋な、狂おしいほどの愉悦は、最高の獲物への賛歌だった。彼の眼は、血の滴る先に立つ綾を、もはや獲物ではなく、己と対等に刃を交わす「相手」として、貪欲に焼き付けていた。
綾は、深く、深く息を吸い込む。虚空を斬った右手は、今、ゆっくりと降ろされる。示志の血潮を浴び、紫の長着はより深い色に染まっていた。その細長い瞳は、眼前の狂人を、鋭い静謐さをもって凝視していた。
「……もっと……見せてくれよ、綾ィ……その……刀と魂の……“続き”をよォ……!」
示志の衰弱した声が空気を震わせる。激しい出血も意に介さず、彼の左手が床に転がった自身の愛刀へと伸びる。ぐっと柄を握りしめ、崩れかけた体勢で踏み直し、片腕で不自然ながらも確かな切先を綾へ向けた。狂人の執念が、死の淵でなおも殺気を増幅させる――
バキッ!! ガガガガン――ッ!!!
天井が突如爆裂した。 漆喰と木材が粉砕され、巨大な影が豪雨のように降り注ぐ。その中心に――ランがいた。 ランは、岩のような筋肉に覆われた巨漢・阿の背中を踏み台に、全速力で落下してきたのだ。
ドサリッ!!
凄まじい衝撃と共に二つの巨体が床を叩きつける。木屑と埃の雲が舞い上がった。
「わあ!? なんか柔らか……って痛っ!?」
乱暴に転がり起き上がったランの無垢な表情には、血まみれの剣士も、崩れた天井も、等しく「珍しい光景」と映っている。 綾の細長い瞳が一瞬、落下現場へと鋭く動いた。 (天井から!? このタイミングで――)
その思考は、すぐに切断された。示志の姿が、視界から消えている。
(……!?)
綾の視線が素早く周囲を駆ける。瓦礫の山。血の海。埃が舞う闇。しかし、狂人の気えはいは完全に途絶えていた。
(いや……奴が瓦礫の下敷きになるようなヘマはしない。……逃げたのか?)
示志は消えた。文字通り、血の海と闇の中へと溶け込むように。残されたのは、広がる血溜まりと、床に転がった一本の右腕だけ。 狂宴は幕を下ろし、静寂が急に重くのしかかった。




