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or  作者: 真亭甘
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北の大河5

雅竹の振るう刃は、もはや斬撃ではなく暴威の顕現であった。その一振り一振りが灼熱の風を孕み、船を呑み込む炎嵐の如き連撃が綾の全身を苛む。虚空が裂かれる度に轟音と衝撃波が迸り、鼓膜を内側から破壊する。先刻までとは比較にならぬ密度と速度で織りなされる斬撃の軌跡は、人の眼では到底捉えきれぬ灼熱の檻と化していた。一撃の軌道は次第に大振りとなる。だが、その分だけ込められた質量と破壊力は倍増し、綾の肉体を、その魂魄さえも一片ずつ削り取っていくのだ。

踏み込み、ただそれだけで足元の分厚い鉄板が砕け散る。牙を剥いた巨獣の顎の如き一撃を、綾は極限の集中力と体捌きによって紙一重で捌いた。直撃は免れた。しかし、その余波だけで臓腑が激しく揺さぶられ、骨の髄まで染み渡る衝撃が全身を駆け巡る。


「ぐっ……ぅ……!」


堪えきれず、呻き声が血の味と共に漏れる。顎の骨が軋むほどに食いしばるが、限界は、あまりにも近かった。咄嗟に、最後の力を振り絞って反撃を試みるも、その僅かな動き出しの気配すら、雅竹の獣じみた感覚は見透かされていた。一瞬の隙を、彼の刃が容赦なく捉える。甲高く、悲鳴のような金属音が響き渡った。綾の手から、長年連れ添った魂の半身たる愛刀「双相」が、無情にも弾き飛ばされ、闇の中を虚しく舞った。 武器を失った腕を、反射的に振りかざす暇すら与えられなかった。雅竹の蹴りが、がら空きになった綾の鳩尾を、槍の如く深く、鋭く貫いた。内臓という内臓が圧搾され、肺に残っていた最後の空気が、完全に奪い去られる。意識が急速に白く霞み、現実の輪郭が溶けていく中、綾の体は、まるで壊れた人形のように、無様に宙を舞い、背中から鉄の壁に激しく叩きつけられた。

「ははっ! なんだ、この程度かよぉ!」

勝者の、全てを嘲弄するかのような哄笑が響き渡る。その振動が、綾の口内に逆流した生暖かい血を、さらに溢れさせた。壁を伝って崩れ落ちた綾の視界は、もはや焦点を結ぶことができず、激しく揺らぎ続けている。己の身体から滴り落ちる血液が、冷たい床にじわりと不気味な染みを作っていく。だが、消えかかった意識の最後の残滓が、朦朧としながらも、ただ一つの命令を、動かぬはずの四肢へと下し続けていた。落ちた刀へ、手を伸ばせ、と。 しかし、その痛々しいまでの執念を、雅竹は、ただただ深い嘲りを浮かべて見下ろすだけだった。彼は、血振るいもせずに刀を無造作に肩へと担ぎ、その双眸には、もはや興味を失った者特有の、冷え切った虚無の色が宿っていた。


「いくらてめぇのような雑兵が、何年、何十年と修練を重ねたところで、所詮は紛い物よ。生まれ持った器、真の意味での『強さ』には、決して届かねぇってことや。まぁ、嘆くことはねぇぜ。後で、ずらずらと仲間を送ってやるでよ。そっちの世界によぉ……てめぇが守れなかった、昔の友達もなァ!!」



雅竹の毒舌は、氷の楔のように綾の心臓を打ち抜いた。


「どうした、その程度か。貴様の掲げる正義とやらは、友の名を汚されて黙り込むほどに安いものだったか?」


その言葉が引き金だった。時間の歯車が歪み、脳裏の奥底で軋む音が響く。鉄の扉で厳重に封印し、二度と開けてはならぬと誓った忌まわしき記憶の倉庫が、無理やりこじ開けられていく。

あの喪失感――魂の一部を永遠に抉り取られたような、空虚で痛切な喪失感が、冷たく湿った亡霊の手のように心の闇から這い上がってくる。それは彼が、己という存在の全てを賭けて決して触れまいとしていた傷口だった。全身の無数の古傷が一斉に疼き、閉じたはずの裂け目が再び開く。生温かい液体が肌を伝う。血だ。滴り落ちる赤が、荒れた地面の埃を黒く染めていく。


「ぐっ…!」


呻き声と共に、稲妻のような激痛が四肢を駆け巡った。視界が白く揺らぐ。膝が、生まれたばかりの小鹿のようにがくがくと震えた。壁に手をつく。爪が漆喰を削り、白い粉が舞う。倒れる訳にはいかない。ここで膝を折れば、全てが終わる。雅竹が口にしたあの名――穢された尊い記憶を、この男の嘲笑のままに無様に消し去ることだけは、綾の魂が断固として許さない。


執念。それはもはや肉体という枷を超えた、燃え盛る業火そのものだ。震える足に、残された生命力の全てを注ぎ込む。骨の髄まで削り取られるような消耗感。それでも彼は、ゆっくりと、しかし確かに倒れかけた体を持ち上げた。その姿は、もはや人間というより、一つの執念がかろうじて形を保った塊であった。瞳の奥底には、冷たく揺らめく蒼い炎が灯っている。


その執念が、ことわりを歪める。

突如、左腕に重く冷たい感触がまとわりついた。確かに何も持っていなかったはずの腕に、確固たる存在感を持った金属の気配。馴染み深い感触。刀の鞘…? あり得ない。最初の戦闘で、腰から抜け落ちたはずだ。だが、その感覚は鮮明で、否定の余地がない。


さらに、鞘に収まるべき柄の感触が、虚空から浮かび上がる。滑らかな鮫皮の手触り。確固たる重心。まるで愛刀「双相そうそう」そのものが、鞘に納まった状態で彼の掌に吸い付くようだ。幻覚ではない。五感を超えた第六感が、神経を焼き切るほどの確信を告げている。そして、意識の片隅で、鈴が鳴るような微かな声が響いた気がした。


――使エ――


かつてないほどの切っ先の昂り。


刀が、鞘の中で、今まさに抜け出さんと震えているのを全身で感じ取る。


思考はなかった。


本能がーー


魂がーー


すんでのところではしる。


握りしめるべき存在を、虚空で確かに掴んだ。


指がーー


柄に深く食い込む。


その瞬間ーー


全身に衝撃が走った。


背筋が雷に打たれたように伸びーー


筋肉が意思を待たずに収縮する。



抜刀。


それは、風を切り裂く音よりも速く、光よりも鋭く発動した。

空間、時間、因果。その全てを無視した一閃。虚空から刃が「湧き出る」という、理不尽そのものの具現。彼の唇が、無意識のうちにその真理を紡ぎ出す。



「――わく



声になっていたかは分からない。それでも、空間そのものがその言葉を刻印した。雅竹の目が、僅かに――ごく僅かに見開かれる。驚愕というより、予期せぬ事象への純粋な反応だ。彼の天賦の才と修練が磨き上げた反射神経は、常人を遥かに凌駕する。しかし、綾のその一撃は常軌を逸していた。物理的な動きを超え、存在の理すら歪める不可解な速さと軌跡。


「…チッ!」


舌打ちと同時に、雅竹の巨躯が驚異的な機動力で反応し、かわさんとする。その動きは流れる水の如く滑らかで、間一髪を絵に描いたような回避動作だった。


ザシュッ――。


鋭く、そして鈍い、布と肉を断つ音が重なった。 二人の影が閃光と共に交差し、すれ違う。風圧が、舞い上がった塵と血の匂いを運ぶ。一呼吸。二呼吸。凍り付いた時が再び動き出す。

綾は、振り抜いた見えない刀を構えたまま、微動だにしない。自らの肩口にも深い裂傷が走っていた。雅竹の反撃か、あるいは限界を超えた動きの代償か。だが、彼の目は一点――雅竹の右肩へと釘付けになっていた。



そこに、一条の赤が浮かび上がる。雅竹の豪奢な衣装の肩口が、縦にぱっくりと裂けていた。その下から、真紅の液体が勢いよく噴き出し始める。最初は細い線だったそれが、瞬く間に幅を広げ、衣を黒く染め、滴り落ちる。派手好きな雅竹の衣装を、自らの血がさらに鮮烈に彩っていた。切り傷。深さは不明だが、確かな出血。それは、雅竹の絶対的な防御、その不可侵の領域に、確かに一撃が届いたという紛れもない証だった。



雅竹は、ゆっくりと傷ついた肩へと視線を落とす。血の流れを直視するその表情には、痛みの影すら見当たらない。むしろ、驚きや怒りよりも前に、深い、底知れぬ興味――獲物が予想外の牙を見せた狩人のような、研ぎ澄まされた好奇心が鋭く光る。血が彼の指先を伝い、地面に落ちた。ポタリ、ポタリ。その音が、張り詰めた沈黙を打ち破る。



「……ほう」



低く、唸るような声が喉の奥から零れ落ちた。それは嘲笑でも侮蔑でもない。純粋な感嘆に近い、奇妙な響きを帯びている。彼は血を流す肩を気にも留めず、ゆっくりと体を捻り、真正面から綾を見据え直した。目と目が鋭く交錯する。





雅竹の口元が、ゆるやかに、しかし確実に歪んだ。心の底から湧き上がる、残酷なほどの歓喜の笑みだ。



「面白い。実に面白いじゃねえか。てめぇの中に……まだ、そんな玩具が仕込まれてたとはよ。まったく、骨の髄まで愉しませてくれる」



その言葉に、綾の握る見えざる柄が微かに震える。疲労か、怒りか、あるいは――未知の力に触れた戦慄か。左腕に感じる冷たい鞘と柄の感触は、今も消えていない。それは確かにそこにあり、重く、不気味に、しかし紛れもなく彼の一部として存在し続けていた。



心象世界の岩場で、又が膝の上の分厚い本をばたんと閉じた。くるっと跳ねるように振り返り、荒涼とした風景に弾けるような声を響かせる。「



やっと、己の『アニマ』を理解しましたか!しかし、まだこれからですぞ!我が流派は!」



その純粋な喜びが、まるで青空を突き抜ける光の柱のように、歪んだ空間を揺らした。





現実の船の上で、その歓声と共振するかのように、雅竹の口元が耳元まで裂けるような不気味な笑みへと歪んだ。



「はははっ!いい、本当にいいぞォ!存分に味わってもらおうかァ!貴様ごときが舐めた真似をした代償を、骨の髄まで刻み込んでやるぜぇ!」



雅竹の咆哮が炎の轟音を掻き消す。

巨体が僅かに沈み込み、踏み込んだ甲板が軋む。右手に握られた刀身が、一瞬で灼熱の太陽核へと変貌した。見る見るうちに膨れ上がる炎の渦が、周囲の空気を啜い込み、光さえも歪ませて巨大な焔の竜巻へと成長する。熱風が唸り、綾の髪と衣を激しく後方へなびかせ、肌を焦がす。その熱量は、鋼すら瞬時に熔断するほどだ。



あの大振りすぎる構えは、明らかな挑発であり、絶対的な余裕の表れだった。刀身に渦巻く炎の竜巻は、もはや一撃という概念を超え、移動する天災そのものだ。船梁が高温で歪む音が、悲鳴のように響く。



「喰らえぇ!」

灼熱の焔竜が船全体を喰らい尽くさんと振り下ろされる刹那、甲板に張り詰めた重い空気が不自然に歪んだ。炎の轟音と熱風が、まるで舞台の幕が下りるように突然消え去る。雅竹の巨体が僅かに後ずさり、刀身に渦巻いていた灼熱の奔流が蜃気楼のように揺らめいて散じた。



「……なっ?」

彼の眉間にかすかな驚愕の皺が刻まれる。

その時、炎が消え去った空間の中心に、漆黒の衣をまとった長身痩躯の剣客が足音一つ立てず立っていた。示志である。鋭い眼光が綾の握る刀へ、次いで雅竹の巨大な炎刀へと滑る。口元が耳元まで吊り上がり、白い歯が覗いた。



「うははは……いいじゃねぇか!実にいい!鍔鳴り、刃鳴り、火花に血飛沫。これほど愉しいもそうはねぇ。」



その声は、刃が鞘に触れるかすかな音のように、鋭く低く響く。



「――俺にも、一振り、舞わせてくれやしねぇか?……ここからは、この身にお任せ願いたい。」



彼は一歩前に出る。黒衣の裾が微かに揺れる。視線を雅竹に定め、歪んだ笑みを深くする。

雅竹は巨大な刀をずしりと肩に担ぎ直した。片目を細め、鼻の奥で笑う。



「ほう……“お任せ願いたい”だと?……ふん。今更のこのこ出てきたか、いぬめ!俺がこの剣戟けんげきを楽しんでいる最中にか!?この舞台ステージは俺のものだ!!他人に譲る義理も気はねぇ!!が、それとも――」



口元が歪み、捕らえた獲物を弄ぶ肉食獣のような眼差しで示志を睨む。

「欲望が抑えきれなくなったと見えるな?」



「……まァ、否定はせんよ。ただ――俺は、ただ斬りてぇだけだ。中でも――こいつぁ……“試す価値”がある。」



示志は頭を下げず、むしろ微笑を浮かべたまま一歩踏み込んだ。

右手が、腰に差された自らの刀の柄をそっと撫でる。動作は愛撫のようであり、刃を探るようでもある。その指先が、ゆっくりと、しかし確かに綾の方向へ向けられる。撫でていた自らの刀を、今度は刃文を確かめるように指先で軽く弾く。



「……一本、いや二本、こいつの御刀の“中身”を見てぇ。折るなり、抜くなり、遊ばせろや。」



雅竹の目が細い裂け目へと変わる。唇の端が、わずかながら、しかし確実に吊り上がった。



「……“遊ばせろ”だと?クク……随分と好き勝手言いやがる。面白ェ。――ならばやってみろ。だが忘れるな。交代ではなく“貸す”だけだ!!」





示志は静かに頷いた。一歩踏み出し、わずかに首を傾げる。口端に張り付いた狂気の笑みが深く、鋭く光る。



「うははは……結構結構。責任ってやつは承知の上よ。」



その手が、腰の刀の柄へと滑る。指が柄に絡みつくように握りしめられる刹那、周囲の空気が刃物の切っ先で満たされたような鋭さを帯びた。



「さァて――“刀”が泣いてるぜ。俺に抱かせてみねぇかい?今度は許しませんよ。」


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