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or  作者: 真亭甘
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北の大河3

洛陽城の広間は、死そのものが凝固したかのような静寂に支配されていた。そこはもはや、権威や秩序を誇示する場ではなく、絶対的な恐怖が具現化した祭壇であった。床に額をこすりつけ、土下座というよりは五体投地に近い姿勢で平伏する文官や小領主たちの姿は、神の怒りに触れた罪人が許しを乞う光景にも似て、憐れでありながら滑稽ですらあった。彼らが纏う豪奢な絹の衣は、今はただ、主の卑小さを際立たせる装飾に過ぎない。衣擦れの音ひとつ立てることも許されぬかのように、誰もが息を殺し、己の存在そのものを消し去ろうと努めている。その姿は、巨大な捕食者を前にした虫けらが、絶望的なまでの擬態でやり過ごそうとする本能的な防衛反応そのものであった。この広間に満ちる空気は、粘性を帯びた毒のように重く、呼吸すらままならぬほどの圧力を孕んでいる。


その異様な静けさの中で、文圍を除く四凶と呼ばれる者たちが、文官たちの醜態とは対照的な姿を見せていた。彼らは深く頭を垂れてはいるものの、その所作には卑屈さではなく、むしろ厳粛な儀式に臨むかのような緊張感が漂う。その膝は床に折られているが、それは恐怖に屈した結果ではなく、自ら進んで捧げられた敬服の証であった。彼らの貌には、畏怖と崇拝が入り混じった複雑な色合いが浮かび、それは単なる力への恐怖を超越し、ある種の絶対的な摂理に対する帰依にも似た感情の発露である。彼らの視線の先、広間の中央に屹立する存在こそが、この絶望的なまでの静寂と緊張感の源であった。古の戦神、蚩尤。その名が、声にならぬ声として、広間にいる全ての者の脳裏に焼き付いている。


蚩尤の姿は、一見すれば古風な意匠の鎧を纏った壮年の男に過ぎない。その背丈は常人よりもわずかに高い程度であり、威圧的な巨躯というわけではない。しかし、彼がそこに「存在する」という事実そのものが、周囲の空間を歪め、物理法則すら捻じ曲げているかのような錯覚を覚えさせる。素顔は意外なほど若々しく、精悍ではあるが、二十代後半から三十代前半といったところか。だが、その双眸に宿る光は、数千、数万の歳月を経た古木のように深く、全てを見透かすかのような鋭さを湛えていた。その視線は、まるで悠久の時を旅してきた旅人のように、どこか遠い虚空を見据えているようでいて、しかし確実に、眼前に蠢く哀れな存在たちを捉えている。彼が纏う古の鎧は、幾多の戦場を駆け、無数の血を浴びてきた歴史の証人である。その表面に刻まれた傷の一つ一つが、壮絶な戦いの記憶を物語り、鎧の隙間からわずかに覗く肌には、常人には理解し得ない力が脈打っているかのようであった。彼が一歩を踏み出すまでもなく、ただそこに立つだけで、場の空気は張り詰め、密度を増し、凝縮されていく。それは、超新星爆発の寸前のような、途方もないエネルギーの圧縮を予感させた。


「……」


蚩尤は、何も語らない。だが、その沈黙こそが、何よりも雄弁な威圧であった。彼の口が開かれる瞬間を、広間の誰もが息を詰めて待っている。それは、裁きの宣告を待つ罪人の心境か、あるいは、神託を待つ信徒のそれか。


階段の上、玉座が設えられた壇上から、桔妃がその全てを静かに見下ろしていた。玉座の主であるはずの彼女は、しかし今、この広間の真の支配者が誰であるのかを、痛いほどに感じ取っている。漆黒の長髪が、玉座の背に彫られた龍の意匠を隠すように滑り落ち、床に届かんばかりに揺れている。その表情は、幼さの残る顔立ちには不釣り合いなほどに複雑な陰影を帯び、読み解くことは容易ではない。恐怖か、憎悪か、それとも、心の奥底に押し込めていたはずの、ある種の期待か。彼女の細い指先は、玉座の冷たい瑪瑙の肘掛けを微かに抓むように触れ、そのわずかな震えが、彼女の内面の動揺を物語っていた。彼女の唇が、何かを形作ろうとして微かに動いたが、結局、言葉となって紡がれることはなかった。ただ、熱い吐息だけが、か細く漏れた。


蚩尤の周囲には、不可視の力が渦を巻いている。それは物理的な圧力ではない。魂を直接鷲掴みにするような、根源的な恐怖。存在そのものの格の違いを、否応なく叩きつける絶対的な威圧感。それは、まるで深淵の底から響いてくる音のない咆哮のようであり、聞く者の精神を根こそぎ揺さぶる。文官たちの額には、玉のような汗が浮かび、次々と床に滴り落ちていく。その小さな水音が、この死のような静寂の中では、不気味なほど大きく響いた。一人の小領主が、限界を超えた恐怖に耐えかねたのか、あるいは一縷の望みを託そうとしたのか、僅かに顔を上げようと試みた。その瞬間、蚩尤の視線が、ほんのわずかに動いた。それは、虫けらを見るような冷ややかな視線でもなく、怒りを込めたものでもない。ただ、そこに「在る」ものを認識しただけの、無機質な動き。しかし、それだけで十分であった。小領主は、見えざる鉄槌で脳天を打ち砕かれたかのように、再び床に頭を叩きつけ、今度は嗚咽ともつかぬ呻き声を漏らしながら、震える両手を地面に強く押し付け、己の存在を消し去ろうと必死にもがいた。


「…あ…ぅ……」


か細い、意味をなさない声が、恐怖に染まった空間に虚しく響き、そして消えた。


四凶の三人は、依然として静かに息を潜めている。彼らは、蚩尤という存在の絶対性を骨の髄まで理解していた。窮奇の顔には、普段浮かべている飄々とした笑みのかけらも見当たらない。その瞳の奥には、かつて蚩尤と共に戦場を駆け巡った日々の記憶と、目の前の存在がもたらす圧倒的な力の奔流に対する、純粋な畏敬の念が宿っている。檮杌の、岩塊を思わせる巨躯ですら、蚩尤の前にあっては矮小な影のように感じられた。彼の内なる破壊衝動も、この絶対者の前では鳴りを潜め、ただただ主の命令を待つ忠実な獣のように、静かにその時を待つ。


玉座の上で、桔妃が再び微かな息を吐いた。それは、諦観か、あるいは決意の萌芽か。彼女の視線は、蚩尤の広く逞しい背中に注がれている。その背中には、彼女の幼少期から続く、断ち切れぬ因縁の糸が見えるかのようであった。それは、憎しみと、そしておそらくは、それだけでは割り切れぬ複雑な感情の交錯。この洛陽城の主として、彼女は何を思い、何を成そうとしているのか。彼女自身にも、まだ明確な答えは見出せていない。


広間の片隅では、いつの間にか燭台から崩れ落ちた蜜蝋が、くすぶるような小さな煙を上げていた。その細く白い煙が、まるで魂が天に昇るかのように、ゆっくりと高い天井へと吸い込まれていく。それは、この場の停滞した時間を象徴しているかのようでもあり、あるいは、これから始まるであろう何かの予兆のようでもあった。文官たちの荒い息遣い、恐怖に引き攣る喉の音、それら全てが、蚩尤という圧倒的な存在感の前に吸収され、無意味な残響となって消えていく。世界から音が消え、色が褪せ、ただ、絶対的な支配者の意思だけが、この空間を支配している。



やがて、蚩尤が動いた。その一歩は、大地を踏みしめるというよりも、空間そのものに重石を置くかのような、絶対的な質量を伴っていた。驚くほど静かな足運びであったが、その一挙手一投足が放つ無形の圧力は、広間を満たす空気を震わせ、床に平伏する者たちの意識をさらに深く沈黙の底へと引きずり込む。古の戦場で鍛え上げられた肉体と、それを包む歴戦の鎧が、微かに軋む音を立てた。それは、永い眠りから覚めた巨獣の骨がきしむ音にも似て、この場の静寂を切り裂く唯一の音源であった。その音は、死に絶えたかに思われた時間の中で、新たな運命が胎動を始めたことを告げる産声のようでもあった。


彼の視線は、ただ一点、玉座に鎮座する桔妃へと寸分違わず注がれている。その双眸に宿る色は、深淵の闇か、あるいは黎明の光か、判然とはしない。ただ、そこには揺るぎない意志と、ある種の神聖な諦観にも似た光が湛えられていた。そして、彼は跪いた。鎧に覆われた頑強な膝が、冷たい石の床に厳かに触れる。ゴトリ、という硬質な音は、儀式における献祭の開始を告げる合図のように、広間の隅々にまで厳粛な響きをもって伝播した。それは、単なる臣従の礼ではない。一つの時代を築き、そして滅ぼされた戦神が、永劫の時を経て再び絶対的な忠誠を捧げるという、神話的行為の具現であった。


「桔妃様、我れらが命は貴女のもの」


蚩尤の声は、地底のマグマが沸騰する音を思わせるほど低く、それでいて清冽な泉の水のように澄み渡り、広間の全ての者の鼓膜を震わせた。その言葉は、古の時代に交わされた血の盟約の再現であり、己の存在の全てを賭して捧げられる、絶対不可侵の忠誠の宣誓であった。玉座の周囲に影のように控えていた侍女たちが、思わず息を呑む気配が伝わる。彼女たちは、目の前で繰り広げられる光景が、歴史の転換点であることを本能的に悟ったのだ。床に平伏していた四凶の三人もまた、その身に電流が走ったかのように、無意識のうちに姿勢を正していた。彼らが真に畏敬する主が、今、新たな主を選び、その魂を捧げようとしている。その事実が、彼らの内に眠っていた闘争本能と、忠誠心を同時に呼び覚ます。

そして、蚩尤は、その誓いの真髄を言霊として紡ぎ始めた。


桔妃、洛陽城の主。我れらは今より、この身と魂を汝に捧ぐ。

古の誓いを以て、我が剣は汝の敵を屠り、我が盾は汝の命を護らん。

炎天の戦場より蘇りしこの身は、もはや亡霊に過ぎぬ。

されど—— 汝が望むならば、再び鬼神と化し、千の軍勢を蹂躙してみせよう!!!


汝の庭を守る番犬として、この城の礎として、

我が命の灯火が尽きるその日まで、

——桔妃、我が主よ。この誓い、天地に刻まん。



その言葉は、もはや単なる音声の羅列ではない。一つ一つの言の葉が、意志の力を宿した刃となり、空間に刻み込まれていくかのようだ。それは、かつて彼が戦場を支配した際に用いた、言霊による呪にも等しいものであった。彼の魂の叫びが、広間の空気を震わせ、床を揺るがし、天井の梁を軋ませる。それは、太古の神々が交わした契約の再現であり、人の子の理解を超えた、運命の選択であった。亡霊と自らを称しながらも、その言葉には、再び戦場に立つことへの渇望と、主を守り抜くという鋼の意志が漲っている。



玉座の上で、桔妃の長く美しい睫毛が、蝶の羽のように微かに震えた。玉座の冷たい瑪瑙の肘掛けに触れていた彼女の指先が、血の気が引くほど白く、そして力強く握りしめられる。その小さな手に、どれほどの重圧がかかっているのか。彼女の漆黒の髪が、玉座の背もたれに滑り落ち、窓から差し込む月光を浴びて、まるで濡れているかのように妖しく、そして神々しく輝いた。その黒曜石のような瞳には、跪く蚩尤の巨大な姿が、寸分違わぬ鮮明さで映り込んでいる。その姿を見つめるうちに、彼女の脳裏には、幼い頃から断続的に聞かされてきた古の物語、そして、この男との間に横たわる、血と宿命に彩られた因縁の記憶が、走馬灯のように駆け巡っていた。それは、恐怖と憧憬、憎悪と信頼が複雑に絡み合った、解きほぐすことのできぬ感情の奔流であった。



「蚩尤……」


彼女の唇から漏れた名は、囁きのようにか細い。


「これからも、我を支えてくれるか……?」


その声は、戦神の宣誓に対するにはあまりにも儚く、微かな震えを伴っていた。それは、広大な砂漠で唯一の泉を求める旅人のような、切実な問いかけであった。しかし、そのか細い声の奥には、洛陽城の主としての、そして一つの運命を引き受けようとする者としての、揺るぎない決意が灯っていた。玉座の肘掛けから、白く細い手がゆっくりと離され、まるで深淵に手を差し伸べるかのように、跪く蚩尤に向かって、恐る恐る、しかし確かな意志をもって伸ばされる。その指先は、古の戦神の魂を、その強大な力を、そしてその忠誠を、自らの手で掴み取ろうとするかのように、微かに震えていた。それは、少女の純粋な願いと、若き君主の冷徹な決断とが、奇跡的な均衡をもって混ざり合った瞬間であった。


蚩尤が、ゆっくりと顔を上げた。その鋼色の瞳が、桔妃の黒曜石の瞳を真正面から捉える。二人の視線が、虚空で鋭く交錯した。それは、魂と魂が直接触れ合い、互いの深奥を検分するかのごとき、激しくも静謐な瞬間であった。時間すら凍てついたかのような静寂の中で、運命の糸が、確かな音を立てて結ばれていく。


「誓って」


蚩尤の返答は、ただ一言。しかし、その短い言葉には、千の誓約よりも重く、万の軍勢よりも強固な、絶対的な忠誠が凝縮されていた。彼の頭が再び深く垂れられ、月光を鈍く反射する鎧の腕甲が、その揺るぎない決意を象徴しているかのようであった。その姿は、かつて天地を揺るがし、神々にすら戦いを挑んだ無敗の戦神の面影を色濃く残しながらも、今はただひたすらに、選ばれた主君に仕える忠実なる臣下としての静謐な覚悟に満ちている。


広間の隅で、この一部始終を凝視していた窮奇が、その爬虫類を思わせる瞳を興味深そうに細めた。その唇の端には、微かな、しかし確かな笑みが浮かんでいる。それは、新たな遊戯の始まりを予感した者の笑みか、あるいは、古の盟友の新たな門出を祝う、彼なりの歪んだ祝福か。隣に控える檮杌は、相変わらずの一言も発さぬまま、その岩のような巨体で、ただじっと、玉座と蚩尤の姿を見据えていた。その無言の圧力は、肯定か、あるいは静観か、その真意を読み解くことは誰にもできない。ただ、この洛陽城に、新たな、そして決定的な変化が訪れたことだけは、そこにいる全ての者が理解していた。

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