創始祭11
誰もがその動きを視認しているのに、誰も“ここにいる”と確信できない。まるで記憶と現在の区別が曖昧になるような錯覚。だからこそ──危険だった。
綾の眼差しが白蓮を捉える。動きは止まっている。だがそれは、次の動きを計る者の構え。静寂。刀の銀が微かに光を反射し、白蓮の髪が風に遊ばれる。
戦況が、傾き始めていた。建岱が振るった炎の古錠刀も、檮兀との激突を越えてなお、形を保ってはいたが──その軌跡には焦りが混じり、先の鋭さが微かに鈍る。圧倒的な膂力を誇る窮奇、幻惑と脚捌きの白蓮、無言の圧で敵を抑える檮兀──それら一柱一柱が、広間の空気をねじ曲げていく中、建岱陣営の“統率”が、わずかに乱れ始めていた。そのときだった。
空を裂く音。鋭い矢の群れが、空間を切り裂きながら襲い来る。放たれた矢は一本や二本ではない。編隊を組むように連ねられ、空間の焦点へと集束するように放たれていた。檮兀はそれに応じて動いた。
ただ、矛を軽く払うだけで、正面から来た矢を悉く薙ぎ払う。音もなく、迫力もなく、ただ結果だけがそこにあった。重い鉄のような肌が矢を弾き、破片が辺りに散る。白蓮は違う。矢を受け流すのではなく、まるでそれが“元より向けられていなかった”かのように、回避していた。脚が石床を蹴り、僅かな距離で全軌道をずらす。矢がすれ違い、彼の残像すら捉えずに虚空へ消えていった。
窮奇は、一瞬だけ笑みを浮かべて鉄槌を振るった。空を揺らす一撃が巻き起こした風圧が、周囲の矢をまとめて弾き返す。力と技の融合は、あまりにも容易に脅威を無に帰した。
だが──問題はその後だった。
矢の群れのうち、一本だけが軌道を変えた。それは他のどの矢とも違う速度で、空間を切り裂きながら饕餮──文圍の位置を正確に狙っていた。位置、高度、距離。その全てが異常なまでに“読まれて”いた。鋭い音。空気の裂ける感覚。だがその矢が届く直前、異変が走った。
金属と金属がぶつかるような音。矢は宙で停止した。寸前で止めたのは、光でも力場でもない。遠くから飛来した“投擲物”だった。細く、鋭く、矢よりもさらに研ぎ澄まされた何かが、正確に干渉し、矢を逸らした。
それは、蚩尤の手から放たれたものだった。
彼は振り返らない。ただ、背を向けたまま指先だけで、饕餮に向けられた刃を無にした。
誰にも見えぬ、けれどあまりに正確な軌道。それは守りではなく、戦術だった。誰を守るでもない。ただ、駒として必要な者を落とさせない──それが蚩尤という男の“公平”だった。刹那の沈黙。火薬の臭いが満ちる。
そして、声が上がる。
「撤退しろ、下がれッ──!」
ジットの叫びだった。その声は戦場のざわめきすらも切り裂くように鋭く、命令というより“生還”を求める最後の意志だった。判断は早かった。勝ち筋が見えぬなら、切り上げる。それは敗北ではない。次を繋ぐための選択。冷静で、現実的で──戦場を知る者の声だった。旗が揺れる。誰かの視線が地に落ちる。誰かの刃が、引かれる音を立てる。
空間が静まり返る一瞬。その刹那を銃声が、音の死んだ空間を裂いた。
それは怒号でも、命令でも、誰かの断末魔でもない──機械の咆哮だった。鋼の連続音が火花を吐き、同時に硝煙の渦が巻き上がる。その発信源は、ルナ。彼女の両腕が上がる。細い指がトリガーにかかる。可憐な姿とは裏腹に、吐き出されたのは重厚な破壊音。マシンガンの咆哮が広間を揺らした。金属が擦れ、火花が閃き、跳弾が壁を裂いた。
銃口が向けられたのは、窮奇。巨躯を持つその男へと向かって、精密な弾道が幾重にも重なる。乱射された銃弾は正確に肉体へ向けられたものではない。あくまで足を止めさせ、動線を塞ぐ。逃げ道ではなく、綾とランとの“間”を創り出すための制圧射撃だった。
火花が踊る。鉛の雨が床を叩き、石片が飛び散る。窮奇は眉一つ動かさずに回避する。その動きに怯みはない。だが、目的は果たされた。ルナは後退し、ランとの間に新たな距離を生んだ。
同時に、ルナの視線が僅かに横滑りする。そこには、蚩尤。戦場の軸を担いながらも、未だ一歩も動かぬ男。だが──そこに向けて、ルナの手から何かが放たれる。空を裂いたのは、無骨な金属片。拳ほどの大きさのそれは、螺旋を描いて飛翔し、蚩尤へと向かう。
動きに無駄はない。完全なコントロールが篭った一投だった。だが、蚩尤は応えない。変わらず桔妃の背後に立ち、ただ視界の外からの変化に呼吸だけで応じていた。その瞬間だった。巨影が動く。檮杌。その巨腕が滑るように伸び、蚩尤の眼前で弾道を迎え撃つ。矛ではない。素手でもない。ただ、存在そのものが“盾”だった。だが、そこで終わらなかった。
──爆音。
空気が歪み、光が瞬く。弾かれた投擲物が床へ落ちた瞬間、連鎖的に炸裂が始まる。火と煙が絡み合い、爆炎がその場を飲み込む。
ひとつ、ふたつ、みっつ──数えられぬほどの破裂音が戦場を染め上げた。それは手榴弾だった。ばら撒かれるように仕組まれた爆薬の群れが、檮杌の周囲を中心に制圧するように破裂していく。破片が吹き飛び、炎が天井にまで届く。耳鳴りが残響として広間にこだまする。煙の中から、檮杌の巨体が一歩を踏み出す。燃え殻も煤も、彼の皮膚には届かない。
ただ、光を背負って姿を現したその様は、まるで破壊の只中から生まれた神獣のようだった。攻撃は通らなかった。だが、時間は稼がれた。ルナの目的は、既に果たされていた。爆炎の余波の中で、誰かの心臓が早鐘を打ち、誰かの判断が加速する。




