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or  作者: 真亭甘
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創始祭10

「──背中貰った!」


その声が空気を震わせる。

だが、拳は届かなかった。打突の直前、その前に別の腕が滑り込んだ。布の擦れる音、肉の弾ける衝撃。軌道を遮ったのは、先ほどまで隣で笑っていた“九”だった。受け止めた腕には、細かく刻まれた古傷が浮かぶ。そのどれもが、過去に刃を交えた証明だった。

そして今、その手が守ったのは──蚩尤だった。


「──お前、何故だッ!」


怒りではない。混乱でもない。ただ真っ直ぐに、納得できぬまま放たれた声。その問いに対し、蚩尤は薄く笑った。風のように軽く、だが意味深に──。


「窮奇」


その一言が、空気を変えた。


「すまねえな。また大将が来られてはじっとしてられなくてな」


軽口のような、けれどどこか懐かしさの滲む声音で九が言った。その言葉の意味を、ランは深く考えなかった。ただ、本能が告げていた。この男は、敵だ。だが、かつての友でもあった。激突の音。地面に拳が叩き込まれる。九が後方に跳ぶ。ランが追う。肉体同士のぶつかり合いが、武具の一切を超えて広間に雷鳴のような衝撃を撒き散らす。

九の体は重い。だが、その動きは驚くほど柔らかい。拳を弾き、膝を捌き、逆に背後に回り込む。そしてランもまた、それを跳ね返すだけの力と反射を備えていた。突き上げられた肘が、九の顎を掠めた。笑みが零れる。


「お前、力ぁ増してやがるなァ!」

一瞬の距離。その隙を突くように拳を振るうが、九はそれを予測していたかのように身を沈め、床を蹴る。二人の肉体が天井へ向けて舞い上がる。


乱打。蹴撃。そして血飛沫ではなく、火花すら散るその衝突に、広間の空気が歪む。音すら追いつかぬ速さに、観客は目を見開いたまま、ただ、息を飲む。


蚩尤は振り返らない。ただ、桔妃の横顔を横目に捉えたまま、戦況を背で感じていた。彼にとってそれは、計算の内でもあり、予測を超えた想定でもあった。窮奇が“戻ってきた”という事実。それは、戦局が未だ動いている証だ。ランの拳が吼える。九の腕がそれを迎え撃つ。力と技が拮抗する中、それでも彼らは声をあげない。叫びではなく、身体で語る。それが彼らの対話だった。


熱気と衝撃が広間を満たす戦場。その隅、紅を帯びた瓦の陰、綾の視線は火花の渦を越えて一点に注がれていた。焦点の先には、激しくぶつかり合う肉体と、そこに立ち尽くす存在があった。己の刃を抜くまでもない。


ただ、必要なのは“そこにあるべきもの”──それを綾は知っていた。


だが、肝心の“それ”は、己の手の内にはなかった。軽く息を整え、わずかに首を回す。隣に立つ少女が頷いた。青い髪が揺れる。


「ルナ、刀を」


一言。それだけで足りた。言葉に込められた信頼は、短くても明瞭だった。ルナは迷わず手を掲げる。その掌に光が滲み、空間の膜が歪む。絵を描くように、あるいは写真を焼き付けるように、存在が“生成”される。


そしてその様子を、彼は見ていた。蒼穹と霧とが交差する、あの誰にも干渉されぬ心象の地にて。荒野にただ一冊の本を開いた子供──又が、深く溜息を吐く。濃藍の空に、一つ小さな不満のような風が吹いた。ページをめくる手が止まる。小さな指が、挿絵の刃に触れる。


「……愚か者が」


呟きは、誰にも届かぬ心象の彼方でひとつ浮かび上がった。まるで呆れと諦念を混ぜたようなその響きは、どこか温かみさえ含んでいた。


なぜ気づかない。あれを見たはずだろう、と。先程、建岱が顕現させた古錠刀。その力の深さと重さを知ったばかりでありながら──なぜ、己は“ただの刃”を求めた。本は静かに閉じられる。風がやみ、霧が立ち込める。又は顔を伏せた。刃を呼ぶ者の未熟を叱るわけでもなく、ただ、遠くから見つめる者としてそこにいた。


現世では、光が集約される。ルナの掌から伸びた一条の輝きが、刃の形を成す。やがて綾の手に重みが戻る。刀身は透き通るような銀、空気を裂く気配だけが先行する。その刀が真に役目を果たすか否かは、まだ先の話だ。


彼の瞳は冷えていた。静かに、そして確実に。敵を討つための刃。その正義は、感情とは別の座標にある。だからこそ、彼は躊躇わず歩を進める。人はその手に、何を握るかで試される。綾は今、“刃”を選んだ。だがその選択の背に、誰にも届かぬ叱責があることを、彼はまだ知らない。


刀身が鳴った。空気を裂く清音が、空間に線を引く。綾は既に駆けていた。光が形成した刃は、未だ重さを知らぬまま主の腕に馴染み、ただ一つの目的に向かって一直線に進む。視界は一点に収束し、余計なものを捨て去る。ただ、貫く。それだけで十分だった。足音は石畳に沈み、衣が風を割く。

その走りにはためらいがなかった。まるで一切の現実を切り捨てて突き進む純粋な意志──復讐にも似た静寂な激情が、彼の心を満たしていた。刀を構え、踏み込む。狙いは臓腑、あるいは心臓。その距離を測るまでもなく、綾の身体はそれを正確に認識していた。僅かに刃を傾け、殺意をそのまま押し出すように体重を乗せる。次の瞬間、銀の軌跡が閃いた。だが──その流線は、途中で断ち切られた。風が裂けた音。気流の逆巻く感覚。そして何より、耳元で鳴るはずのない気配。遅れて綾の脳がそれを“攻撃”として認識したときには、すでに遅かった。


「よォ、気が立ってんね、兄さん」


声と同時に視界が弾けた。回転する世界。身体が傾き、そして重力が強引に右へと引っ張る。次に感じたのは、側頭部から頬骨にかけての鈍い衝撃だった。


白蓮の回し蹴りが、鋭角に綾の顔面を打ち抜いた。放たれた軌道は正確無比、しかも“気配を消していた”。先読みでも直感でもない。完全に死角を突かれた。


視界がぶれる。地面が仰ぐように傾き、刀が手から滑り落ちかける。だが、綾の指はそれを放さなかった。衝撃の余波を左足で吸収し、すぐさま態勢を立て直す。だが、既に白蓮の姿はそこにない。足音すらない。まるで風と共にあらわれ、風と共に消えたかのようだった。その手には武器はない。ただ、その脚──舞踏のようにしなやかで、猛禽のように鋭かった。一度だけ、肩越しに綾が振り返る。眼差しには怒りも、驚きもない。ただ、静かな警戒心と、見えざる殺意の所在を探る眼光だけが残った。刀を再び握り直す。その刃には血もつかず、ただ銀の反射だけが揺れていた。


空気がわずかに震えた。あの一撃の余波ではない。もっと静かに、内側から崩れるような──世界の底に触れるような異質な気配。綾が刃を握り直したその瞬間、別の視線が彼の背へと向けられていた。沈黙があった。だが、それはただの無音ではなかった。戦場を包む熱と音を抑え込むほどの濃密な“意志”の介入。まるでこの場に流れる因果そのものが、手でねじ曲げられるかのような。一歩、踏み出す音。それは誰のものでもなく──蚩尤の背後で響いた。彼の唇がわずかに動く。その声は小さく、されど確かにこの場を貫いた。


「……混沌」


その呟きは、名ではなく“現象”を呼ぶ呪文のようだった。広間の温度が一瞬にして変わる。火ではない。冷たいわけでもない。ただ、何か根源的な“ズレ”がそこに生じた。影が差す。否、影ではない。光を拒む何かが、背後に立っていた。しなやかな足運び、見紛うことなきシルエット。黒髪が揺れ、軽やかな気配が空間に漂う。その存在が発する気配は、舞いながらも、命を奪う獣のそれだった。蚩尤が振り返らずとも、それが誰かを理解していた。その直感に、声が重なる。


「──白蓮?貴様?」


空気が軋んだ。まるで誰かが、その名を口にしてはならぬと拒絶するかのように。だが、本人は気にも留めず、ゆっくりと笑う気配だけが前に進む。

そして、静かに、けれど確実に距離を詰めながら、彼は言葉を放つ。



「悪いが、それ以上は進まないでくれ。次は昔の好とはいかない」


その声音には、愛想も憎しみもなかった。ただ、薄く張った膜のように感情のすべてを遮断し、理だけが立っていた。足音を響かせることもなく、白蓮は前に出る。


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