創始祭9
「──!」
声にならぬ絶叫とともに、上段から振り下ろされた斬撃が、音を置き去りにして世界を切り裂いた。
焼け焦げた空気が空間を灼く。炎の尾を引きながら、古錠刀が真っ直ぐに蚩尤を断罪せんと迫る。
その一撃に込められたのは、虎の咆哮でも、獣の本能でもない。建岱という男の、ただ一つの覚悟だった。
斬撃の軌道は、まさに絶を裂く。建岱の古錠刀が放つ炎の尾が、広間の空気すら灼き焦がす。軌道は正確無比、力強く、美しかった。それが──止まった。
「檮杌」
蚩尤が静かに、しかし確信をもって呟く。
刹那、空間が裂けるようにして現れた影があった。まるで元よりそこに在ったかのように。巨体。黒々とした岩のような肌。その全身を覆うのは、簡素な布と腰布のみ。だが、その威容は、鉄壁などという言葉を通り越していた。
巨大な矛の柄が、古錠刀の進路を正確に遮っていた。寸分の狂いもなく。力を籠めたはずの建岱の剣は、まるで水面に触れる風のように止まり、火花すら散らすことなく沈黙する。蚩尤の表情は涼しげだった。むしろ、愉快そうに口元を歪め、ゆっくりと微笑んでいる。
「面白いな、お前は」
声は挑発というにはあまりに冷静で、しかしその奥に底知れぬ悪意がにじんでいた。
その瞬間だった。檮杌の巨腕が閃いた。何の予備動作もなく、ただ腕を振るだけ。それだけで、建岱の巨体が横へと吹き飛ぶ。重量を誇る鎧ごと壁に叩きつけられた音が、広間に乾いた余韻を残す。
建岱はすぐさま起き上がった。だが、その額には鈍く赤い線が走っていた。軽く薙がれただけ。それだけで、地を割るような衝撃を受けたのだ。
周囲の者たちは、檮杌の出現に言葉を失っていた。誰も叫ばない。誰も逃げない。ただ、本能が語るのだ──この存在から目を逸らすな、と。
檮杌は声を発さない。ただ、深く、荒々しく、息を吐くだけだ。だがその一息にさえ、破壊の衝動が込められていた。
彼は、蚩尤の盾であり、狂気の化身だった。
石畳を滑るように転がった建岱の身体が、起き上がるよりも先に、空気が変わった。鎧鳴りが響く。その身を包むは、炎の紋を刻んだ重装の甲冑。白銀のたてがみが、火を宿すかのように逆立ち、瞳の奥に燃える意志が一点を射抜く。
彼は、敗北を認めない。まだ終わっていない。その身に刻まれた信念が、痛みに呑まれることを許さない。
甲冑が光を受けて軋む。その右手に握られた古錠刀が、次の瞬間、猛るように燃え上がる。刀身を走るは炎の龍。その存在自体が威圧となって、広間の温度を引き上げていく。
一閃。建岱の足が地を踏みしめ、瞬間移動に近い加速で檮杌へと肉迫する。炎が唸る。斬撃が放たれる。過熱した空間が裂け、轟音と共に軌跡が弧を描く。火柱の如きその一閃は、まさに灼熱の意思だった。
だが──その一撃を、檮杌は“あしらった”。
巨体とは思えぬ速さで矛を旋回させ、炎の刃を弾いた。熱も、衝撃も、黒き肌に痕一つ刻まない。受け流すのではない。斬撃の圧を“逸らす”という、戦場の本能が生む獣の技だった。
「──オオオオオオッ!」
声にならぬ咆哮が、建岱の耳膜を打つ。巨人が吼えた。怒りでも歓喜でもない。ただ、目の前にある力へ純粋に反応した、闘争本能の衝動。
広間が震える。檮杌が動く。その一歩は山を揺るがすかのようで、天井の文様が微かに震えるほどの重圧を持っていた。
炎と黒鉄がぶつかり合うたび、広間の空間がきしんだ。建岱の振るう古錠刀は、軌道すら灼熱で焼き潰すように空気を裂き、爆ぜる火花が飛沫のように舞い散る。だが、それを迎え撃つ檮杌は、一切の装飾もない巨大な矛を、まるで己の延長であるかのように振るい、その全てを拮抗させていた。
巨体から繰り出される矛撃は重く、速く、そして異常なほどに正確だった。一撃一撃が地を穿ち、建岱の身体をなぞるように殺意の風圧が吹き荒れる。その巨腕が振るわれるたび、空間は呻き、石床がひび割れていく。
建岱は飛ぶ。舞うようにして身を翻し、炎を纏った斬撃を連ねる。動きに淀みはない。だが、そのすべてを檮杌は読み切っていた。矛の柄を軸に回転し、踏み込み、叩き落とす。常識では捉えきれぬその速度と精度に、建岱の剣圧が次第に押されていく。
火花が走る。炎が唸る。そして、衝突の余波が空間を波打たせる。だが、倒れない。退かない。二人はまるで、戦場という名の詩を刻むように、刃と矛を交差させ続けた。
刹那、建岱が重心を沈める。一気に踏み込み、地を爆ぜさせるようにして斬り上げる。炎が牙を剥き、空を断ち割るような閃光が奔る。しかし、檮杌の動きは寸分の狂いもなく、矛の柄がその刃を迎え撃った。
音が消えた。重なった力と力が拮抗し、一瞬、時が凍る。視界が白に染まり、次の瞬間、爆ぜるような衝撃が広間を満たす。
建岱の足が地を離れる。吹き飛ばされたわけではない。自ら跳び退いたのだ。呼吸を整えることもなく、次の攻防に備えて。
檮杌は動かない。ただ、荒い息を吐くだけ。その巨体は微動だにせず、まるで戦場に根を張る神像のようだった。
火の粉が散るたびに空気が唸った。爆ぜる衝撃波が広間の空間を撓ませ、天井の文様すら揺らぐ。だが、その中心に立つ男の背は揺らがなかった。蚩尤の視線は、ただ一つの存在──桔妃へと注がれていた。戦場の嵐が吹き荒れる中、その穏やかな眼差しだけが、異質な静寂を湛えていた。
檮杌の咆哮が広間を裂く。衝撃は波紋のように石床を伝い、遠巻きに見守っていた兵らの肝を冷やす。誰も動けない。否、動いてはならぬと、本能が叫んでいた。あの怪物の一撃に身を晒せば、ただ消滅するだけだと。
だが、桔妃はそこに在った。ほんの一歩先、蚩尤の背の向こう。彼女の衣は塵一つ纏わず、頬は風にすら触れていない。炎の風は、すべて蚩尤が受け止めていた。建岱と檮杌が地鳴りを響かせ激突するたびに、彼は無言でその身を壁と化し、彼女を災厄から遠ざけ続けた。
たとえ刃が雨のように降り注ごうとも、彼の動きに焦りはない。笑みさえ浮かべながら、蚩尤は言葉ではなく、行動で語っていた。「おれの後ろには、お姫様がいる」と。戦場の只中、彼が守ろうとしたものは政治の駒でも、力の象徴でもない。ひとりの人間として、彼女を護るという意志。それは、神話の風景に抗う唯一の人間性だった。
「大丈夫だ、心配するな。上手くいく、今まで上手くいく行っていたようにな」
その言葉は、戦士の虚勢でも、女を宥めるための嘘でもなかった。幾百の戦場を潜り抜けた者が、命より確かに信じる己の感覚。必ず守り抜くという確信。その一言が、桔妃の心に深く響いた。
檮杌の腕が振るわれ、建岱が空を裂くように舞う。炎と鉄と雷鳴が交錯する中、彼女の瞳は、ただ一人を見つめていた。冷たく、けれどどこか哀しげな微笑を浮かべる蚩尤の背中。その背はあまりにも頼もしく、そして──孤独だった。
それを理解した時、桔妃の心に、小さな灯がともる。決して戦えぬ姫が、何かを決意する時。それは静かに、だが確実に、運命の歯車を狂わせ始める兆しとなる。
ただ、桔妃の吐息が微かに揺れた時、彼はそれを感じ取る。
その先の言葉は紡がれなかった。だが、桔妃はわかっていた。だから微かに頷いたのだ。戦いは続く。だが、その中心で微笑む男の目には、誰よりも確かな未来が宿っていた。石畳が砕けるような音が広間に響いた。飛び出したのはラン。野生の咆哮を込めた拳が、真っ直ぐに蚩尤の背を狙う。まるで獲物を屠る瞬間に身を委ねた獣のように、ためらいなど微塵もなかった。




