創始祭8
地に伏した男の姿は、あまりにも無様で、そして静かだった。破れた袖口から覗く指先は、震えることもなく、ただ床を掴むようにして止まっていた。咳き込むことも、呻くこともない。空虚の中で、ただ敗北の輪郭だけが、薄靄のように漂っていた。
衣の下から滲み出る血は、乾く気配もなく、床に濃く濃く染みていく。豪奢な幕の陰、王族の気配が立ちこめるこの場に、もはや彼の策謀は存在しない。戦火の記憶、盤上の駒として人を使役してきた日々──それらすべてが、今この瞬間に意味を失った。
踏み込んできた二人の衛兵の靴音すら、彼の意識には届いていなかった。拒絶も、威嚇も、抵抗の素振りすら浮かばない。それどころか、その背を押すような己の異能《商談》の感覚すら、どこかへと失せていた。
何かを取引しようにも、“利”を得る意志が、もはや彼の内には存在しなかった。野望を具現するための術は封じられ、崩れ落ちた思考の残骸の中で、文圍はただ呆然と、見上げていた。舞台の上に残る彭──否、蚩尤の影を。
圧倒的な存在感、圧政の化身のようにすら見えたはずの己を、彼は何の武力も使わず打ち砕いた。憎悪でもなく、怒りでもなく、ただ黙して佇むその姿が、全てを奪っていった。
その沈黙こそが、何より雄弁に語っていた。これは報復ではない。陥落でもない。選ばれた敗北だ。天を欺いてまで築いた体系のすべてが、名も告げられぬ者の一礼によって潰えた。
その事実が、彼を打ちのめしたのだった。
手を伸ばそうにも、指は動かない。声を上げようにも、喉は焼けていた。かつて無数の命を等価交換してきた文圍の理論体系は、その根底から瓦解していた。感情ではない。痛みでもない。これは、意志の死だった。
衛兵の手が肩を掴み、その身を引き起こした。彼は抵抗しない。ただ、上を見たまま、何も語らぬ瞳で天蓋を眺め続けた。
重く湿った沈黙が、場を支配していた。衛兵の手が彼の肩を強く掴む。生気のない体は、まるで人形のように揺れただけだった。重症を負い、反抗の意志すら捨て去った文圍を、ただ形式として引き起こす。その様子は、すでに終わった劇の余韻に過ぎないようにも見えた。
「…立て」
言葉は儀礼。声に怒気もない。ただ命令として紡がれたその一言は、場の空気をわずかに震わせた。
「お前の罪、すでに天地も知っている」
もう一人の衛兵が背後から鉄の枷を取り出し、文圍の両手に掛けようとした、その刹那。
風を裂く音が響いた。瞬間、空間が歪んだ。
一条の銀が、雷の如く奔る。誰も反応する間もなかった。剣だ。飛来したそれは、寸分の狂いもなく衛兵の胸元を貫いた。肉を割き、骨を穿ち、命の光を奪い去る。
呻き声すら漏れなかった。衛兵の一人は目を見開いたまま倒れ、もう一人も、数瞬遅れて身体から剣が引き抜かれるように崩れ落ちた。鮮血が舞台の檜を濡らす。散った赤は花弁のように静かで、同時に、異常の兆しとして強烈に場を支配した。
文圍は動かなかった。驚愕も恐怖も、もはや彼には無縁の感情だった。ただ、風が吹いた先を見た。視線の先にあるはずの主は、そこにはいない。あるのはただ、決して理解できぬ力の余韻だけだった。
沈黙が戻る。が、それは先ほどの沈黙とは異なる。死が満ち、剣の軌跡が刻まれた世界。そこには秩序も、正義もない。あるのはただ、不可視の意思によって齎された断罪。
空間が一度、息を呑んだかのように静止した。鮮血に濡れた舞台。貫かれた衛兵の死体。剣の飛来を誰も理解できぬまま、祭祀の空気はそのまま恐怖へと沈んだ。
誰からともなく走り出す音が、群衆の堤を崩した。悲鳴が交差し、懇願の声が天蓋を震わせる。祈りを捧げる者、逃げる者、嘔吐する者、座り込んで名を唱える者。荘厳なる祭祀の広間は、瞬く間に阿鼻叫喚の修羅場へと変貌していた。
その中心で、ただ一人、凶相の存在はまるでそれすらも愉悦とするように顎を突き出す。
「ぬるいぞ──饕餮、もっと極めろ!欲を高めろ! 馬鹿がァッ!」嘲りと嗤いが入り交じった咆哮が轟いた。その声は地の底から響くかのように重く、聞く者すべての脊髄を震わせる呪詛にも等しかった。場を蹂躙する圧倒的な気配。だが、その隙。まさにその瞬間だった。
火花のような衝動が、空間を裂いた。
重装の鎧が咆哮する。建岱だ。白銀の鬣を逆立てた獣の如く、檻を破った意志が疾風となって蚩尤の懐へと飛びかかる。
虚空へと振り上げたその掌には、何もなかった。だが、その無が咆哮を上げる。世界が追いつく前に、古錠刀が、まるでそこにあるべきだったかのように、顕現した。
その刹那、構えなど存在しなかった。ただ、魂が命じるままに、建岱の肉体が動いた。
怒りではない。義ではない。ただ、守るべきものを貫くために。




