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or  作者: 真亭甘
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創始祭6

 空気が凍った。誰もが次の言葉を探すことを許されぬまま、建岱の指が微かに震えていた。拳は握られていたが、それ以上、彼の感情が顔に浮かぶことはなかった。言葉を継ぐこともなければ、叱責もなかった。ただ、静謐にして重い沈黙が場を支配していた。

 その場を破ったのは、無遠慮な靴音だった。ジットが、乾いた息を乱しながら走り込んでくる。周囲の視線を気にも留めず、息を吐き、叫んだ。


「建岱!」

 彼の腕が振り抜かれる。空を裂いて何かが飛んだ。矢でもなく、刃でもなく、しかし真っ直ぐに、一直線に放たれた意志の奔流。それは一瞬、光に包まれたかと思えば、建岱の手に収まっていた。細く巻かれた筒だった。重みのある封が二つ。文圍と左紹――その二人の印が押された書状が、中に仕込まれていた。

 建岱は、まるでそれが燃える火種か何かのように、慎重にその書類を掲げた。


「これは……証か」

 問いではなく、確認だった。ジットは肩を竦め、弓を背にかけ直した。その呟きにジットは鼻を鳴らした。皮肉めいた口調の奥に、奇妙な痛みが滲んでいた。ジットは目を逸らしたまま、続けた。


「善人ぶった理想論なんざ、俺の柄じゃねぇ。だがな、命張って信じた相手が、こんな茶番で貶められるのを黙って見てるほど、俺は冷たくねぇ」

建岱は何も言わなかった。ただ、手元の書類を一読し、そして深く息を吐いた。その言葉に、建岱の眉が僅かに動いた。彼の中で抑え込んでいた感情が、静かに揺らいだように見えた。 遠くで盃の音が鳴る。だが、もはや宴の終わりは明白だった。紙片の上に浮かぶ二つの印章が、すべてを語っていた。


「……左紹、文圍。貴様らの名を、この手で終わらせる」

 そう建岱が呟いた時、静寂は確かな決意へと姿を変えた。誰一人、冗談だと笑う者はいなかった。そこにあったのは、剣より鋭く、炎より熱い、無言の宣戦布告だった。


 巻かれた紙筒を解いた瞬間、空気が変わった。そこに在ったのは、契約ではなく、共謀だった。表面上は交易に関する協議書――だが、その実、条文は互いに矛盾し、常識から逸脱していた。左紹が一方的に領地の租税を全免とし、文圍がそれに代わって軍備を提供すると記されている。しかも、その軍は「自発的な傭兵団」であり、支配権は左紹の外戚にあると、念入りに注記されていた。

 要するに、政の体を取りつつも、それは私兵の譲渡であり、地の移譲であり、王政に対する明確な反逆だった。国の背骨に杭を打ち、名を借りて血肉を奪い取る。言葉という毒で包んだ凶器だった。

 建岱は一枚一枚を読み終えるたびに、静かに、確実に怒りの温度を上げていった。だがそれは炎ではない。凍えるほどに冷たい怒気だった。感情は剣の刃に似ていた。鍛えられた刃は、むしろ静かに敵を断つ。


「これが、貴様らの交わした誓約か……この文書にある内容。言い逃れはできんぞ」

場は凍りついた。誰もが、その書類の意味を察していた。あまりにも露骨で、あまりにも明白だった。もはや弁明の余地はなかった。

その一言が、文圍の顔から仮面を剥ぎ取る。わずかに目を伏せたその瞬間、彼の指が懐へ滑る。慎重な所作。だが、その沈黙の裏にある焦りは隠せなかった。なぜ持っている、なぜここに現れた、その問いを口にすることすら許されぬほどに、追い詰められていた。懐から取り出されかけた紙片の角。わずかに光を弾いたその動きに、建岱の体が反応する。地を裂くように、彼の足が動き、剣よりも鋭い手が文圍の手首をとらえた。ただ、確信だけがあった。次の瞬間、建岱の腕が振るわれる。文圍の手が空を切り、その掌にあった筒が弧を描いた。建岱はそれを空中で掴み取り、高々と掲げた。

 掌の中の紙は、精緻でありながらも、なによりも雄弁だった。偽造であれ、本物であれ、そこに書かれた内容が告げるのはひとつ――この男たちが手を組んで国家の根幹を蝕もうとしていたという事実、それだけだった。文圍の顔から血の気が引く。笑みは消え、表情の残骸だけが残された。周囲にいた文官たちも、口をつぐみ、視線を伏せた。誰も彼の名を呼ぼうとしなかった。建岱はゆっくりと振り返る。その目に宿るのは、怒りではない。哀しみだった。人が権力を持つことの業、理想が堕ちる音。それを彼は、幾度も聞いてきた。


「これが、我らの正義の形か……」

誰にともなく呟かれたその言葉は、虚空に溶けていった。握り締めた書状だけが、その場に厳然と存在していた。左紹と文圍、二人の名が連なり、非現実的なまでに整えられた利益の分配がそこに記されていた。数字は法の裏をすり抜ける術を知り尽くした者の手によるもの。理性では到底飲み込めぬほどの強欲が、理路整然と並んでいた。

 沈黙の空気に揺らぎが走った。文圍の喉が微かに動き、視線が書状から逸れた。建岱の眼差しは鋭く、決して逸らすことなく彼を貫いていた。その眼前で、文圍は小さく息を呑み、まるで沈む舟の中で残された策を探る者のように彭へと手を伸ばす。

 それは意志ではなかった。命令だった。彭の肩に触れたその瞬間、見えざる糸が引き絞られる。次の瞬間、彭の身体がふわりと宙を舞い、袖を翻し舞踏の構えへと移る。瞳は虚ろに染まり、その動きに自発性はなかった。

 文圍の「商談ディール」が発動されたのだ。

場の空気が一気に軋んだ。観客ではなく、参加者ではなく、証人でもない者が、演者にされるというこの強制の構図に、誰もが息を呑んだ。華やかさはない。ただ、歪んだ支配の姿がそこにあった。


「ふざけるな、文圍……!」

 建岱の声が鋭く響く。それはもはや、問いでもなく、怒りでもなかった。自らを欺く者への、絶対の拒絶だった。彼は彭の前に立ち、舞を遮るように両腕を広げる。そして――振り返らぬまま、低く言い放った。

「お前の“利”は人を殺す。喜も、楽も、そんなものは金でねじ伏せるものじゃない」

 文圍の目がわずかに揺れる。その手は、まだ彭を指し示していた。だが、建岱の歩みは止まらなかった。軋む床板、武具のきしみ、次の瞬間には、その巨体がまっすぐ文圍を捉えていた。

 文圍が何かを口にする前に、建岱の手が伸びる。容赦などなかった。彭の背後から走り込むようにして、文圍の肩を掴み、無理やりに地へと引き倒す。文圍の脚が跳ね、身体が軋みを上げた。



彭の動きは、もはや人の域を超えていた。袖が空を裂き、足元に敷かれた絨毯すら、その一歩で波打つような錯覚を与えた。観客の誰もが言葉を失い、ただその舞に魅入られていた。軽やかさと力強さが同居し、身体の軌道は詩となり、呼吸は律動となった。彭の肉体は、音を持たぬ音楽に合わせて精密に奏でられ、もはや舞ではなく“儀式”のようですらあった。

 空間が歪む感覚。時間はゆるやかに引き伸ばされ、誰もが自らの鼓動を数えることしかできなかった。空気は濃密になり、視界が霞み始める。香炉から立ち昇る煙が、無音の蛇のように彭の身体へと絡みついた。それは祝福でも加護でもない、封印を破るもののように。

 彭の動きが、ふと変質した。滑らかだった流れが一瞬止まり、次の瞬間には異様な重みを帯びて跳躍する。足元の床板が軋む。視線を合わせることすら恐れを生むほどの威圧感が、その背に現れた。彭という個は、舞いの中心にありながら、すでにそこにはなかった。代わりに現れたのは、空間そのものを支配するかのような“存在感”だった。

 煙は彭の身体に沿って渦巻き、次第にその輪郭が変わっていく。背筋が伸び、足運びが大地を踏み鳴らすように重くなっていく。袖の揺れすらが風圧となり、周囲の灯が揺らぐ。何かが起きている。だが、それが何かを定義する言葉を、この場の誰もが失っていた。


 彭の衣が闇に染まり始める。頭上に垂れていた装飾が風もなく震え、金具が奏でる鈍い音が場を割った。扇のように広がったその袖先がゆっくりと空を薙ぐ。そのたびに、目に見えぬ圧が降りかかるように、誰もが身じろぎもできなくなる。


 口元は無言で動き、だがその唇のかたちには人の言語ではない響きが宿っていた。祈りにも呪いにも聞こえぬ、古の律動。言葉にならぬ恐怖が、観る者の喉を締めつけた。


 舞はやがて、戦いの型へと変貌していく。踏み込み、捻り、拳を放つような流れの中に、まるで古の戦士の記憶が宿っているかのようだった。目の前で起きているのは、演舞ではなく顕現だった。誰の意志でもなく、誰の命令でもなく、ただ香と舞の交点において、ひとつの“なにか”が姿をとりつつあった。

 蝋燭の火が、彭の周囲で次々と消えた。天井を飾る金箔の龍が、影を深く落とし、その眼孔の中に深紅の煌めきが灯る。煙はなおも彭に絡みつき、もはや彼の肉体が輪郭を持たなくなっていく。人の形をしていても、人ではない。彭という存在は、ここで静かに、しかし確実に変質していた。

 そして、誰もが直感した。 ――これは、“何か”が目覚める予兆であると。 それは祝祭ではなかった。抗うことすら許されない、運命の胎動だった。


祝祭の華やかさが嘘のように沈黙した。彭の舞はもはや芸術ではなく、顕現の儀となりつつあった。香の煙が空より降り、ゆるやかにその体に絡みつくたび、彭の身体はわずかに軋むように変容していく。

 背に広がった装飾は羽根のごとき流麗さを帯びつつも、鋼のような質感を備え、肩の飾りは獣の咆哮を留めたかのような金属の牙を覗かせていた。肌は徐々に青褐色に染まり、筋線はあまりにも完璧な均衡で編まれており、もはや人という枠では捉えきれない迫力を放っていた。

 衣は絢爛。だが、それはただの装飾ではなかった。無数の紋様が織り込まれたその装束は、古の呪符を思わせる禍々しさと同時に、威厳を伴う神性を併せ持っていた。胸元には獣骨と金糸が交差し、鼓動のたびに不協和音のような波紋が視界に揺らめいた。

 瞳には既に、彭の名残はなかった。燃えるような青炎が瞳孔の奥で蠢き、その視線を受けた者は、意識せずとも膝を折りたくなる衝動に駆られた。彼の立つその場こそが支配の核であり、あらゆる秩序の頂に立つ者の風格があった。

 指先が空をなぞると、周囲の煙が波紋のように後退する。彼の気配が一挙手一投足に従って空気を震わせ、衣のすそからは青い燐光が火の粉のようにこぼれ落ちた。数多の戦場を征した者の名残が、今まさに再構築されている。抗う者はすべて無に帰すと直感させる、絶対的な“経験”が、その身体から迸っていた。

 天蓋から垂れた布が静かにめくれ、そこから漏れる光に照らされる彼の横顔は、まるで神話の一場面を具現したような冷たさと崇高さを備えていた。威風、尊厳、凶兆、それらが複雑に交じり合いながらも、ひとつの純粋な“力”として結晶していた。

 そして誰もが気づかぬうちに、観客の誰ひとりとして身動きを取れなくなっていた。まるで時が止まり、空気が凝固したかのようだった。声は失われ、息すら制限されたような錯覚の中で、ただ異様な姿と化した彭がそこに存在することが、この空間のすべてを決定づけていた。

威圧。それは視覚でも聴覚でもない。魂の芯に触れるような、圧倒的な“存在”の実感だった。 舞台の中心に立つその姿は、確かに彭だった。否、彭という記号を宿した“それ”だった。面差しには微かな面影が残りながらも、纏う気配は全く別種のもの。何者かを象った彫像に命が宿ったような異様さが、場の空気を確実に別物へ変質させていた。その光景に、文圍の唇が吊り上がる。滑稽なほどに上機嫌な、勝者の笑いだった。


「──あぁ、これでようやく、整ったというわけか。彭、お前は最高の駒だよ」

 笑いは誇示。言葉は支配。そしてその実、文圍の瞳には焦りが滲んでいた。 彭の瞳に浮かぶのは静謐。怒りでも悲しみでもない。むしろ慈しむようなまなざしが、目の前の男へと向けられていた。それは“蚩尤”としては不自然だった。凶神の顕現であれば、まず最初に刃を向けるのは文圍であるはず。だが、その口から言葉が漏れることはなく、ただ一歩、舞台の端から静かに降りた。神威は崩れず、怯みすらない歩み。むしろ──穏やかだった。文圍は喉奥で唾を飲み込み、笑顔を保ったまま再び右手を突き出す。あの時と同じ、契約の所作。自身の“商談ディール”を行使する動き。


「契約はまだ生きている……!まだ俺の利は切れていない!今度こそ蚩尤様の復活を!」

 次の瞬間、音が消えた。文圍の額から、頬から、目尻から──裂けたように血が吹き出す。鼻孔からの赤が袍を濡らし、彼の姿が膝から崩れた。力の流れが拒まれた。契約が拒絶された。利の網が、断たれた。文圍の手は宙を掴み、血に濡れた顔で呆然と立ち尽くす。“彭”はそこにいた。だが、もはや“彭”ではなかった。異形の神格。だが、その振る舞いは一切変わらず、舞いの終わりを告げるように静かに衣を揺らしながら、整った足取りで姫の玉座の前まで進み出た。

 

 そして──片膝をつき、深く頭を垂れる。沈黙。誰もが言葉を失ったその空間で、ただ文圍だけが、崩れ落ちる視界のなかで絶叫する。


「なぜだッ!なぜ、お前が……まだ意思を持っている──ッ!」

 だが、“彭”は答えなかった。その姿は、ただ一人のための臣下の礼。 まるでずっと、あの姫を見守っていたかのように。 言葉はない。だがその所作が、何より雄弁に語っていた。 これは支配ではない。強制でもない。 これは、“彭”の、意志だ。

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