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or  作者: 真亭甘
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洛陽城9

笑い混じりに囁くと、また一瓶、また一瓶と無理やり酒を浴びせかけた。名家からただの悪漢へと変貌する左紹。遊女の白粉の化粧が荒れ体が震え、ついにはぐったりと力を失う。左紹はなおもその姿に飽き足らず、酒が掛かった顔や体を舐め着物を強引に剥ぐ。座敷の隅で見ていた人たちは、次第に顔を曇らせ、静かに席を立ち始めた。だが左紹は気にも留めなかった。ただ、歪んだ悦楽に溺れるように、夜の底へと堕ちていくばかりだった。


「誰も俺を咎めはしない。この国は、俺のものだ」


低く呟いたその言葉だけが、静まり返った座敷に重く響いた。

しかし、戸を蹴破る音が、酒と汗と女の匂いに満ちた座敷を切り裂いた。左紹が目を剥いて振り返る間もなく、建岱とジットが部屋に踏み込んだ。



「やめろ、すぐに!」


建岱の怒声が響く。縄で縛られ、無理やり酒を飲まされていた遊女は、怯えた目で彼らを見た。建岱は素早く駆け寄り、縛めを断ち切った。ジットは壁際に身を寄せながら、冷たい視線で部屋を一瞥する。


「こりゃまた、呆れる光景だな」


皮肉な声を漏らしながらも、ジットの手は確実に遊女を庇う位置にあった。遊女は解放されると、泣き崩れるようにジットの影にすがりついた。左紹は顔を真っ赤にして立ち上がり、怒りに任せて叫んだ。


「遊びに文句があるのか!俺は招かれた客だぞ!」


ジットが鼻で笑った。


「よく言う。客でも畜生でも、超えてはならない一線くらいあるだろうに」


左紹はなおも喚き立てようとしたが、その時、座敷の隅に置かれた木箱に気づいた建岱が一歩踏み出した。


「……これは?」


問いかけながら箱を開ける。中から現れたのは、色とりどりの菓子が詰められた菓子箱だった。左紹は勝ち誇ったように腕を組んだ。


「見ろ、お菓子だ。何も怪しいものなど――」


だが建岱は菓子の下敷きをひっくり返した。瞬間、どさりと音を立てて、無数の金袋が箱の底から転がり出た。鈍い光が座敷に反射し、場の空気が凍りつく。ジットは肩をすくめて嘲った。


「まぁ、お菓子にしてはやけに重いと思ったんだよ」


左紹の顔から血の気が引いていった。建岱はじっと彼を見据え、低い声で言った。


「これが、遊びか?」


左紹は唇をわななかせながら、なおも言い訳を探したが、言葉にならない。ジットは弓を肩にかけ直し、わざとらしく溜息をついた。


「領主様もずいぶん太っ腹だな。遊女と一緒に、賄賂まで付いてくるとは」


建岱は遊女をそっと背後に庇いながら、最後に一言だけ告げた。


「覚悟はできているな、左紹」


座敷に、鈍く湿った沈黙が落ちた。左紹は酒臭い座敷で、まだ何か言い訳を探そうと口を開きかけたが、それより早く建岱が命じた。


「連れて行け」


すぐに応じたのは、寅の足と呼ばれる建岱の忠実な配下たちだった。岩夫が人懐こい笑みを浮かべたまま、がっしりと左紹の腕を掴んだ。予想以上の力に左紹は抵抗する間もなく体を引き寄せられる。甕が無言で後ろから押さえつけた。威圧感に満ちた巨体が影を落とし、左紹は思わず肩をすくめた。逃れようと暴れるが、まるで岩に押さえつけられているようにびくともしない。


「放せ!俺は洛陽城の宰相だぞ!」


左紹は声を張り上げた。しかしその叫びは、何の効果もなかった。魚杢が一歩前に出て、冷ややかな目で左紹を見下ろした。


「宰相であろうが、やっていいことと悪いことの区別くらい、ついているものと思っていたがな」


その言葉は刃のように鋭く、左紹の胸を抉った。兵似が黙って周囲を固めながら、逃げ道を封じる。視線だけで左紹の動きを制したその態度に、宰相の威厳など微塵も通用しないことがありありと示された。左紹はなおも食い下がった。

「待て!これは誤解だ、そうだ、すべては遊びで――」


だが誰も耳を貸さなかった。建岱は静かに遊女を庇い、その背後に立ちながら、左紹を見据えた。


「世界が認めた十二神獣が、誤魔化しに耳を貸すと思ったか宰相であろうが、やっていいことと悪いことの区別くらい、ついているものと思っていたがな」


その言葉は刃のように鋭く、左紹の胸を抉った。その一言で、左紹は完全に沈黙した。ぐいと岩夫に引き立てられ、無理やり立たされた彼は、顔を真っ赤にしてうつむいた。左紹は唇を噛みしめながら、重い足を引きずった。魚杢が冷酷な視線で背中を押す。兵似は左右の警護を固め、万一の逃亡さえ許さぬ態勢を取った。甕が遊女を運ぶ。

歓楽街の喧騒の中、連行される宰相の一団だけが、静まり返った道を進んだ。道端に人が居ないほどの深い深い夜の出来事であった。

左紹は胸中で絶望を噛み締めた。普通の領主ならまだやりようがあった。しかし、目の前に立つのは建岱――世界に認められた十二神獣。その威光の前では、どれほどの地位も、策も、無力だった。「……こんなはずではなかったのに」左紹の小さな呻きは、誰にも届かず、ただ夜の闇に溶けた。

左紹が引き立てられ、騒ぎが収まった後も、座敷には重たく湿った空気が残っていた。建岱はふと、近くの卓に置かれた酒瓶に目をやり、静かに手を伸ばした。


「ジット、飲まぬか」


そう言いながら盃を二つ取り、片方を差し出した。ジットは少しだけ肩を竦めた。建岱の真っ直ぐな眼差しに押され、やがて手を伸ばした。苦笑いを浮かべながら、ジットは盃を受け取った。建岱は何も言わずに酒を注ぎ、自らの盃にも満たすと、軽く掲げた。

「まぁ、いろいろあったが……まずは、区切りということでな」

ジットも盃を掲げ、軽く打ち合わせる。盃の中の酒が細やかに揺れ、静かに喉を潤した。二人はしばし無言で酌み交わした後、建岱がふっと笑みを浮かべた。


「そういえば、陽気のことだがな」

ジットは思わず咳き込んだ。


「お、お嬢さんのこと?」


建岱は頷き、肩を震わせて笑った。


「城に滞在していた時、弓の稽古を教えていたのだろう?陽気がよく話しておった。ジットは弓の名手だと、目を輝かせてな」


ジットは頭をかきながら視線を逸らした。


「……いや、別に大したことはしてねぇ。ちょっと型を教えたくらいだ」


「いや、あれはただの型ではない。陽気が言っていた。『ジットは弓だけじゃない、話も面白いし、何より一緒にいると安心する』とな」


ジットは顔を赤らめ、酒を一気に煽った。


「冗談じゃねぇ……あんな元気な娘さんに懐かれるなんてな」


建岱は優しく笑い、静かに盃を置いた。


「それでだが……もしよければ、陽気を、お前に託すことも考えている」


ジットは思わず手にしていた盃を落としかけた。慌てて受け止めながら、狼狽える。


「ちょ、ちょっと待て……そりゃ、いくらなんでも――」


建岱は冗談めかして肩をすくめた。


「冗談半分、本気半分だ。お前の人となりは、よく見せてもらった。陽気も、今ではお前の話ばかりだ」


ジットは酒を煽った後、天井を見上げた。苦笑いを浮かべながらも、その胸には、何か温かなものが灯り始めていた。ぽつりと漏らした言葉に、建岱は満足そうに目を細めた。静かな夜風が座敷を撫で、二人の間に、奇妙な、しかし心地よい沈黙が流れた。ジットは盃を指で弄びながら、静かに口を開いた。


「……悪いが、俺には幼なじみがいる」


建岱は動じることなく、ただ静かに聞いていた。ジットは言葉を選びながら続けた。


「まだどうこうなってるわけじゃねぇが、心に引っかかってる女がいてな。だから、その話は……受けられねぇ」


建岱は一瞬、難しい顔をした。盃を指で弾き、酒面に映る自分を見つめる。ジットは視線を落とし、心苦しそうに吐き出した。


「せっかくの話を断るなんて、俺も馬鹿だってわかってる。ただ、嘘はつきたくねぇ」


建岱はふうと深く息を吐いた後、酒を一口煽った。そして、目を細めて言った。


「嫁は一人でなくても、いいのだぞ?」


ジットは盛大に酒を噴き出しかけた。慌てて口元を拭いながら、顔を赤らめた。


「いや、いやいやいや……そういう問題じゃねぇだろ!」


建岱は楽しそうに笑った。ジットは頭を抱えた。陽気の無邪気な笑顔が脳裏をよぎり、ますますどうにもならない気持ちになる。建岱は真剣な顔に戻り、低く静かな声で告げた。


「だが、もし泣かせたら、その時は容赦せん」


その声音には、冗談の色は一切なかった。鋭く光る眼光に、ジットは思わず背筋を伸ばした。


「わ、わかったよ……泣かせねぇさ。絶対に」


ジットは必死に応えた。建岱は静かに盃を持ち上げた。


「なら、今宵はそれで良しとしよう」


二人は再び盃を合わせた。夜風がさらりと座敷を撫で、遠くで祭りの囃子が微かに聞こえた。酒の香りと笑い声が、ふたたび静かに満ちていった。


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