洛陽城5
ランは月光に照らされた瓦の上を軽やかに走り抜けた。第一層の屋根伝いを駆ける足音は軽やかで、まるで夜風そのものだった。獣のように研ぎ澄まされた感覚が、風の流れと建物のわずかな傾きを捉え、最適な着地地点を見極める。助走なしに、屋根から屋根へと跳躍する姿は、人間のそれではなかった。
彼の目の前にそびえるのは、巨大な内壁。第二層を囲むその障壁は、貴族と富裕層を守るために築かれた分厚い要塞のようなものだった。しかし、ランにとってはただの「乗り越えるべき障害」にすぎない。わずかに腰を落とし、一瞬の溜めを作ると、次の瞬間には壁に向かって跳躍していた。
壁面に手をかけると、硬い石材が指先に食い込んだ。だが、彼の肉体はそれをものともせず、壁を裂くように指先をめり込ませていく。垂直の壁を駆け上がるように数歩踏みしめ、最後の一蹴りでランは内壁の頂上へと飛び上がった。
目の前に広がるのは、第二層——雅商地区、歓楽街。第一層とは明らかに異なる風景が、ランの目に飛び込んできた。煌々と灯る紅い提灯、艶やかに着飾った人々、香ばしい料理の匂い、酒に酔い笑い声を上げる人々の群れ——どこもかしこも、賑わいと喧騒に包まれていた。
ランは屋根の上にしゃがみ込み、その光景をじっと見つめた。ここに住まう者たちは、第一層で見た人間とは違う。飢えも知らず、寒さも苦しみも知らない。鮮やかな衣装をまとい、満たされた顔をしている。それがどういうことなのか、ランには理解できなかった。だが、一つだけ確信があった。——ここには食い物がある。
彼の腹が小さく鳴る。意識すると、急に飢えが鋭く突き刺さるように感じられた。獲物を見つけた獣のように、ランの目が光る。
この街には、強者がいるのか。それとも、ただの弱者が集う場所なのか。
考えるよりも先に、ランの体は動いていた。屋根の端から滑るように降り立ち、歓楽街の灯りの中へと紛れ込んでいく。
歓楽街の喧騒がランの耳を打った。赤や金の提灯が夜の闇を彩り、酒の匂いと脂の焦げる香ばしい香りが入り混じる。華やかな衣装をまとった女たちが艶やかに笑い、通りを行き交う男たちは酔いに顔を赤らめ、どこか高揚した様子だった。
ランはその光景をしばし眺めた。目の前をふらつきながら歩く男がいた。上等な絹の着物を乱し、肩を抱えるように若い女中を連れている。女は困惑した顔をしていたが、男はお構いなしに絡みつくように腕を引く。
「なあ、いいだろう? もう少し付き合えよ」
男の言葉は呂律が回っておらず、酒のせいで足元もおぼつかない。女中は微かに眉をひそめながら、やんわりと身を引こうとした。しかし、男の手はしつこく絡みつき、今度は無理やり肩を抱こうとする。
ランはそれを見ていた。何かを考えるわけでもなく、ただ直感的に「邪魔だ」と思った。その場の空気や理屈など関係ない。ただ単純に、目の前の光景が気に入らなかった。それだけだ。
次の瞬間、ランの手が動いた。
男の肩をつかみ、無造作に引き剥がす。その動作はまるで紙くずを払いのけるかのように軽いものだった。だが、男の体はあっさりと宙を舞い、背中から地面に叩きつけられた。
「……っ、ぐ、う……!」
酔いのせいで受け身すら取れず、男は苦しげにうめく。周囲の人々がざわめいた。
「て、てめぇ……! 何しやがる!」
転がった男が、怒りに震えながら這い上がる。だが、ランは何の感情も浮かべることなく、その場に立っていた。ただまっすぐに男を見つめている。その視線は、感情ではなく本能のまなざしだった。
「こいつ、何なんだ……?」
男は一瞬、寒気を覚えた。相手が何者なのかは知らない。だが、その眼光に宿るのは、街の喧騒とは別の世界のものだった。理屈ではない。戦うべきか、逃げるべきか——その判断を本能が迫ってくる。
女中は混乱しつつも、ランと男の間に立とうとした。
「お、お客様、申し訳ありません……!」
だが、ランはその言葉を理解しない。ただ、自分が邪魔だと感じたものを払いのけただけだった。だから、男が再び向かってくるなら、もう一度同じことをするだけだった。
歓楽街の喧騒が、一瞬だけ静まり返った。




