6 断罪
自分の恋人が中年の男と寝ていた、それだけでも許しがたいというのに。寄生虫が自分にうつされたかもしれない、しかも出所は薄汚い男だ。別の男から性病をうつされたかのように腸が煮えくり返る思いだった。
「たとえそうだとしても、木村先生は何で亡くなったんだ。木村先生は体に二匹虫が入ったことで亡くなった。それなら相川には虫がいないはずだ」
香本の言葉に坂本はクッと口元だけ笑ってみせる。
「あのオッサンがお盛んで、他の女数人とやってたらどうだよ? お互いその情報を知らず、相手に虫がいないと信じて仲居はあの親父に抱かれる。でも実際は別の女からも移されてたとしたら? 仲居が客の部屋に入るのは、別に当たり前のことだ」
あり得なくはないその内容に全員が黙り込んだ。確かに相川が最初でその後に仲居二人という順番だったら辻褄が合う。
「私そんなことしてない!」
耐えられなくなった様子で相川が叫んだ。しかしその様子は濡れ衣を着せられて怒りや悲しみに満ちた顔ではない。明らかに、動揺した表情だった。それを見て梅沢たちも坂本の推測が正しいのだと察してしまう。同じサークルにいて少し話したことがあれば誰でもわかる、相川はとても顔に出やすい。
「そういやお前、半年位前か、木村の講義の単位やべえって言ってたけどよく進級できたよな。木村、単位やる代わりにやらせろって要求してくるんだっけか?」
「違うってば、そんなことしてない! 単位取れたのは勉強頑張ったからだよ! ふざけないで、最低!」
「じゃあ今から問題出すから答えてみて」
二人の会話に入ってきたのは茜だった。一方的に責められる相川をかばう内容ではない、喧嘩をやめろという仲裁でもない。その内容に香本と梅沢は怪訝そうな顔をする。
「木村先生の試験内容、太平洋戦争における日本軍の戦略と第二次世界大戦の敗北の考察だっけ。なんて書いて、成績なんだったの」
「え、なんで、なんで今そんなこというの」
「単位がやばいってことは出席日数が足りないからか、レポートで良以上がもらえてないかでしょ。試験で相当良い成績を収めないと単位がもらえるなんてありえないでしょ。死ぬほど勉強したんだったら内容はもちろん覚えてるじゃない。あの問題すごく難しくて私も良だったんだよね。なんて書いたの?」
相川を問い詰める守谷の顔は怒りに満ちている。相川の言っていることが嘘だとわかっているのだ。
「私は自分のレポートに自信があったし試験だって何の問題もなくできたと思ってた。でもいつも成績が中の下、納得できなかった。木村先生に聞いても具体的に何が駄目だったのか教えてくれなくて、次はもっと頑張れなんてものすごい適当なこと言われて。大学院から研究チームに入らないかって言われてる私よりもすごい回答だったんでしょ、教えてよ。不正してないって言い張るんだったら」
茜は家が貧しく大学が用意した特別枠奨学金を使っていると言っていた。特別枠奨学金には条件があり常に成績上位でなければいけない。他の成績は目を見張るほどに好成績だったにもかかわらず、木村の歴史文化論だけは成績が芳しくなく奨学金が打ち切られるかもしれない、と。三人で集まった時に泣きそうになりながら言っていたことがある。
茜は顔は悪くはないが振り返るほどの美人かと聞かれるとそこまでではない。化粧気もなく勉強一筋というキャラなのでおそらく木村の好みでは無いだろう。それが今証明されたようなものだ。
生活が、学業が、将来がかかっている茜にとって奨学金が打ち切られるかもしれないというのは未来が真っ暗になるほど重大なことだった。その後どうなったのかは結局聞いていないが、この様子だとおそらく打ち切られた。
「さっきの坂本君の推察通りなら、何も違和感ないもんね。そいういえばエレベーターのボタンに血の跡がついてたらしいよ。あの警察に聞いてみようか、客の指紋で一致する人はいましたかって」
その言葉に相川は震え始める。それを見た茜の表情がさらに険しくなった。
「もしかして虫の話も木村先生から聞いて知ってたんじゃない? じゃなきゃ人が目の前で死んだのに、そういうことしようなんて普通言わないよ、頭がおかしくない限り」
その言葉に相川びくりと体を震わせ、坂本の目がすっと細められた。まずい、と香本と梅沢が焦り始める。これ以上はまずいことになる。
しかし怒りに震える茜は事の重大さに気づいていない。虫を持っている坂本が怒り出したら一体どうなるのか。
「ああ、そう」
坂本の、その言葉が合図だった。相川の髪の毛を掴むと思い切りそばにあった木に叩きつける。その衝撃は凄まじく怒りに震えていた茜が我に返るほどだった。
「自分の身可愛さに俺に虫をなすりつけたわけだ。いい根性してるじゃん」
「ちょっと待って」
さすがに慌てた様子の茜が止めに入ろうとするが近寄ってきた茜を坂本は思いっきり突き飛ばした。
「自分の体に得体の知れないモンが入ってる、どんな気分だと思ってやがるんだ。こいつを殴りまくろうが、殺しちまおうが、それをやるだけの理由がこっちにはあるだろ!」
「摘出する方法があるかもしれないし、今は逃げるのが先だ!」
梅沢の言葉にも坂本は怒鳴り返す。
「じゃあ今すぐ説明してみろ、どうやって摘出するんだよ。どれだけ精密検査を受けても姿を確認できない、そもそも虫なのか病気かもわかってないようなものをどうやって治すって!?」
「それは……」
「この場をなんとかしたいからてきとうに言ってるわけじゃねえなら今説明しろ、今すぐ!」
誰かの返事を待つこともなく坂本は掴んでいた手を離すと相川の顔を思いっきり殴りつけた。相川は泣きながらやめてと叫ぶ。
「恋人だと思ってた奴からウジ虫だか芋虫だかをうつされたのに、仲良く逃げましょうとかどの口が言えんだよ! ああ!?」
梅沢は何も言い返せない。それでも暴力は良くないとか、それ以上やると死んでしまうとか口にしようものならそれの何が悪いんだと言われるに決まってる。それに、こいつの味方をするのかと、矛先がこちらに向かったら。
再び相川に向かって拳を振り上げようとしたがその拳を掴んだのは香本だった。坂本は香本を睨み付けるが香本は静かに落ち着いた様子で言った。
「それ以上やると本当に死ぬかもしれないよ」
「別にいいだろこんな奴、死んだって!」
「ここにいる皆はもし本当にそれが起きたら見て見ぬふりはできない。帰ったらいつか絶対に警察に言うと思う。こんな奴のために一生台無しにするつもり? もったいないよ」
その言葉に坂本は驚いた表情を浮かべると黙り込む。他の者が言っていたらお前に何がわかるんだと腕を振り払っていた。しかし言っているのはおそらく自分と同じ体の中に虫がいる香本だ。彼の言葉には説得力がある。しかも暴力は良くない、などという上っ面の正義ではなく、あくまで坂本の心配だ。
相川は顔をおさえながら坂本たちから離れると梅沢の方に走り寄った。そして泣きながら叫ぶ。
「こんなことして絶対に許さないから! あんたなんてどうせただのキープだし、私に近寄らないでよ寄生虫野郎! 気持ち悪い!」
その言葉に再び坂本に怒りが沸いたようだが香本は坂本の肩を掴んだ。
「ほっときなよあんなの。今はここから逃げることを最優先にしよう」
「……」
坂本は無言だがどうやらこれ以上相川に何かをするつもりはないようだ。香本が女子を「あんなの」呼ばわりしたことが意外だったらしく少し驚いたようだった。相川と言えば梅沢の手を掴んで必死に訴えている。
「梅沢君、早く逃げよう」
その言葉にその場にいる全員から冷たい視線が向かう。もちろん梅沢からもだ。その視線に相川怯えたように一歩二歩と後ろに下がる。
「逃げたければ早く逃げれば? 俺は坂本達と一緒に行くから」
「え」
「旅館の男とヤってまた虫がいるかもしれないし、うつされたくねえから」
ムードメーカーでいつも女の子に優しい梅沢とは思えない、生ごみでも見るかのような目で吐き捨てるように言われた。
「木村の汁がついた手で触んな気持ち悪い」
相川の腕を振り払うと坂本の隣まで移動した。茜も相川を睨みつけている。誰も自分の味方がいないのだと悟った相川はその場で泣き崩れる。
「こいつどうする」
茜が冷たい声で言い放つと、梅沢は大きなため息をついた。
「他の奴らに見つかれば殺されるじゃん。そうなると夢見も悪いし一応連れて行くしかないんじゃない」
「勝手にしろ」
興味を失ったように坂本が一言そういった、見向きもしていない。




