閑話 宿での暮らし
「な、なにいいいいいいいいいいぃぃぃッッ!?」
夕食時、食堂へと下りてきた影治は思わず大きな声を上げる。
周囲には既に食事を始めている他の宿泊客がいたので、目立つことこの上なかったのだが、そのようなことを気にする余裕は影治になかった。
「どうしましたか?」
影治の声を聞きつけたのか、厨房から宿の主人であるドリアンのゼゼーナンが姿を現す。
給仕などの雑務を行う従業員もいるのだが、食事に関してはゼゼーナン自らが作っているようだ。
「この料理を作ったのは誰だあっ!」
「当宿の料理は全て私が担当しております」
「きさまか! きさまは素晴らしい! 戻っていいぞ!」
「は、はあ……」
訳も分からず食堂へと足を向けるゼゼーナン。
しかしここでまた影治の待ったがかかる。
「いや、ちょっと待ってくれ! この料理はなんというんだ?」
「こちららの主品はキャトルミューティドンです。お気に召しましたか?」
「お気に召したし、このキャトルミューティドンに使われている食材のことも詳しく知りたい!」
影治がこうまで前のめりになっているのは、キャトルミューティドンなる料理には米らしきものが使われているからだった。
ただし米の形は見覚えのある短粒種ではなく、細く長い長粒種だ。
キャトルミューティドンは、大きなお椀に米と何らかの肉とネギのような野菜。それから食欲をそそるにんにくのような香りが漂う、炊き込みご飯のような見た目をしている。
「料理に興味あるのですか? 珍しいですね」
この未知との出会い亭は、主にダンジョン探索などを主とする中級のハンターや冒険者がよく利用している宿だ。
周囲で食事をしている者達も、いかにもそれっぽい装備をした者が多い。
彼らはその職業柄、食事に贅沢などいってられないので、とにかく食えればいいという感じで料理に拘るものは少ない。
「興味ありまくりだ! この米……細長い穀物はなんというんだ?」
「それはチャンパですね。ここから東にいった所にあるカウワン王国だと、パンに代わって主食になってますよ」
「なんとっ!」
影治自身としては、別段米に対する思い入れなどないと思っていた。
異世界に転生した主人公が、現地で米を見つけようとする作品を読んだ時も、何故そこまでこだわるんだと、共感出来ずにいた。
しかし実際に米料理を前にし、ひとくち口に運んだだけで、影治は自分が米に飢えていたことを今更ながら自覚する。
「チャンパと一緒に、名前の由来になっているキャトルやミューティを一緒に炊き上げるんですよ。それ以上の細かいレシピは秘密です」
キャトルというのはこの地方で畜産されることのある牛の一種で、ミューティは見た目はしょうがっぽいのだがにんにくの風味がする野菜だ。
「ぬぬう……。では1つだけ教えてくれ! この独特の風味の調味料はなんだ?」
「味付けにはニョクマムを使ってます。魚を塩漬けして作る調味料ですね」
「なるほど! 魚醤か!!」
醤油とはまた大分味は違うのだが、影治がキャトルミューティドンに大きな反応を示したのは、米だけでなくどこか懐かしい調味料を感じ取ったからだ。
「ギョショー?」
「いや、何でもない。しかしこれは大した料理だ。どことなく俺の故郷の味を思い出す……」
「そうでしたか。喜んで頂けたようで何よりです」
「うむ。ちなみに、キャトルとミューティが料理に使われてるのは分かったが、最後の『ドン』とは何を意味している?」
「それは別に材料の名前などではないですね。昔から、このような形式の料理には最後に『ドン』と付くんですよ」
「……そうか。っと、長く引き留めてわりぃな」
「いえいえ。もしお替りが希望でしたら、追加料金を頂けたら対応致しますので。では」
そう言ってゼゼーナンは食堂へとまた引っ込んでいく。
それを見送りながら、影治は心のメモ帳にこのことを記していく。
「カウワン王国か……。その内訪ねてみようじゃねえか」
と影治が決意を固めている脇では、主人の注意が外れてるのをいいことに、ピー助がどんぶりに顔ごとつっこんでいた。
美味しそうにキャトルミューティドンをかっくらっているピー助。
それに対し影治の強烈なおしおきが発動すると共に、給仕をしている従業員に追加のキャトルミューティドンを注文する影治であった。
「今日も修行ですか? エイジさん」
「おう、ゼゼーナン。今日は天気もいいしな。中庭を利用させてもらってるぜ」
「元々そういった目的で解放してますからね。どうぞ好きなだけご利用ください」
未知との出会い亭は、コの字型の形になっており西棟と東棟の間には中庭がある。
宿の主人であるゼゼーナンは、一杯に抱えた布を手にしていた。
木製の硬い底板に、薄い布のシーツとこれまた薄い掛布団しか設置されていない宿のベッドだが、きちんと洗濯は行っているようで、それを干しに来たらしい。
影治は基本的に少し高めの宿に泊まるので経験はないが、安宿では月に1度シーツを洗うかどうかといった宿も多い。
もっとも、安宿の場合はシーツなども付属していないこともあるのだが。
ちなみに影治が中庭に来たのは、闘気術の練習をするためだった。
室内で練習しているよりも、せっかくの天気なんだから陽の光を浴びながらの方が気分も良い。
「むうううん……。ぬうううううううん…………」
とはいえ、相変わらず闘気術の扱いに大きな進展は見られない。
なので気分転換に魔術の練習を行う。
今は無属性魔術と闇魔術を重点的にやっているが、他の魔術も多少織り交ぜつつ練習していく。
「おおお、たいしたものですねえ。エイジさんは魔術師でしたか」
声の主の方へ振り向くと、洗濯物を干し終えたゼゼーナンがその黒目の部分が多い大きな目で影治を見ていた。
「魔術専門って訳でもないけどな」
「何にせよ羨ましい限りです。我々ドリアンは魔術というものが使えませんからね」
「魔術が使えない? それは魔術に向いていない種族ということか?」
「いえ。我々ドリアンなどの異人と呼ばれる種族は、一切魔術が使えないのですよ」
「む、そうなのか」
「ええ。何でも体内に魔力というものが一切宿っていないそうです」
魔力を持たないと聞いて、影治は前世のことを思い出す。
魔法への憧れから魔石を摂取していた影治だったが、結局前世では魔法やら魔術だとかいった現象を起こすことは出来なかった。
「ふうん……。この世界にはいろんな種族がいるから、中にはそういったのもいるってことか」
「……ええ、そうですね。では私は戻りますね」
最後に少し表情を変化させたゼゼーナンが、宿内へと戻っていく。
ただドリアンの生態に詳しくないので、先程の表情の変化がどういったものか影治には分からない。
もしかしたら感情的なものとは別の、生理的反応だった可能性もある。
「それより練習再開だな」
どことなく気になるゼゼーナンの表情を振り払うかのように、影治は再び闘気術の練習を始めるのだった。