空虚を目指すことになった理由
夜空は異様だった。
グロテスクな雰囲気を漂わせる、まだら模様が広がっていた。緑色と赤黒い色が混ざり合わさったような色で縁どられ、その内側は九九.九九九パーセント以上の光を吸収する真っ黒な虚空が、口を開けているかのようだった。
その周囲や手前に点在する恒星の瞬き、星雲たちの輝きは、どこか不安を訴えているようにも思えた。
この異常空間領域は、依然として出現と拡大を続けていた。その分布は、まったくもってランダムであった。
対策局には、当域銀河のみならず、近傍遠方含めた各地から、状況報告の通信が山のように届き、職員もコンピュータも仕事に忙殺されていた。
幸運にも、我々の母星が存在する銀河内における異常空間領域の発生率は、他と比べて低いほうだった。
だが、すでに何千億という数の同胞、盟友たちが消息不明となっている現状があった。彼は皆、領域の向こう側へ飲み込まれたのだ。
異常空間領域は、周辺に微弱な重力傾斜がみられたが、それ自体に引力があるわけではなかった。事実、多くの観測隊や調査隊が、ぎりぎりまで接近して観測装置を投入したり、各種の計測を行ったりしたのだ。ただ、得られた結果は、対象が我々の理解を越えた存在ということだけである。
さらには、確認されているものは例外なく、完全な二次元平面で構成され、厳密な表裏があった。つまり、見えている領域の反対側からならば、通常の宇宙空間が見えるのだ!
数光年程度の大きさの広がりもあれば、数十億光年と離れた場所では、数百から数千光年単位という大きさで、四方へ広がっているものもあった。
そして、空間と領域は相対的に移動しているために、その移動線上にあるものは誰彼構わずに飲み込んでいった。
これらの発生要因として、考えうる唯一で最大の理由は、並行宇宙との重力差を利用した膨大なエネルギー利用だった。それが、多元宇宙とそれを内包する高次大空間における絶妙なバランスを崩壊させたのであろう、ということだった。
とある空間工学博士はこう語った。
「私達は、いわば複雑精緻に織られている、宇宙という巨大な高次元の衣服に、いくつもの切れ込みをつくったようなものなのです。そこには常に力が働いている。ゆえに、いずれは無残にも引き裂かれることになるでしょう」
また別の者は、ただ一言
「我々は神の怒りに触れた」とだけつぶやいた。
とにかく時間の問題であった。異常空間領域の割合は、観測結果によると、指数関数的増加の傾向をみせていた。
公にはされていなかったが、ある試算によれば、最短で十年以内に全宇宙が異常空間領域に飲み込まれる可能性がある、というものもあった。
こうした事態に、別の宇宙へ避難するという意見が出ていたが、懐疑的な見方が多かった。
そもそも、別の宇宙との開口部を作った、という点が問題の根源だからだ。それに隣接する並行宇宙が、同じ状況に見舞われていない、という保証もなく、次元が異なる宇宙へ行くこと自体、この宇宙と共通の物理法則が保証されているのかも不明という、根本的に不確定要素が多すぎた。
「考えてもみたまえ、我々を構成している物理定数と同じところなのかどうかさえ、分からないのだ! 遠方の銀河や宇宙の果てに行くのとは訳が違う。違う宇宙なのだ!」
異常空間領域がどのような性質を持っているかさえ、まったくもって不明だった。
「もしかすると、内部でも生存可能かもしれない」と楽観的意見を述べる者もいたが、それを確認するために中へ進入を試みるのはあまりに無謀だった。
なにより探査自体が、ことごとくすべて失敗していた。戻ってきた事例は一つも確認されていない。不幸にして飲み込まれた者たちも、いまだに帰ってきてはいないのだ。
いくつもの知的種族が、緊急会合で知恵を出しあうも、決定的な打開策は出てこなかった。
進行を止めるすべはなく、さらに厄介な事態も起きはじめていた。
突発的空間短絡および質量移動と名付けられた現象は、異常空間領域よりもタチの悪い状況をもたらした。
それは恒星や惑星を、いとも簡単に破壊した。
前触れもなく、机の引き出しの中が別の惑星の海中に繋がったり、天体や恒星系がまるごと別の場所へ瞬間移動したりするようなことまで、その規模は大小さまざまだった。
発生頻度は、ごく稀である、というのが唯一の気休めであった。
考えうる、ありとあらゆる手段を講じていたが、成果はなにもなかった。人々の混乱も、ただただ広がるばかりだった。
***
対策局の本部では、局長と教授の二人が話し込んでいた。
「外宇宙へ向かう天然の出口? 教授、それはどういうことだ? そんなものが、この宇宙に存在するというのか?」
「はい。私の研究に基づけば、一部のボイドにおいて、存在の可能性が示唆されています」
「ボイド……宇宙の大規模構造の、超空洞部だな」
「そうです」
教授は落ち着いた口調で続けた。「そして、そこへ向かうとしても、スキップ航法は使えません。と言いますか、使ってはなりません。通常動力宇宙船を用いるべきです」
「通常動力? ということは、最大出力でも光速未満となる、核パルス、あるいは対消滅反応の利用による、反作用推進方式しか使えないと?」
「そうです」
「だが、加速には時間が必要だ。今から宇宙船の準備をしていたのでは、とうてい間に合わないだろう」
「今から、となればそうです。実は、過去に使われていた大型実験宇宙機のレストアが、もう少しで完了します。使うならこれしかありません」
「しかしそれでも、時間の猶予はあまりない」
「もちろん、付近までの移動には、残っているスキップ航路を利用するしかないでしょう」
「とは言ってもだ、実験用の機体となると、乗員は少ないだろう」
「ええ、そうですね。二名ないし、三名です」
「それでは……まるで、まるで足りない」
「なにがです?」
「少しでも多くの仲間を、同胞を、種族を、救わなければならん。我々の責務だ」
「局長、お言葉ですが……それについては、無謀だと言わざるを得ません」
「いとも簡単に言ってくれるね」
「この状況下では、できる限り多くの記録を、各種生物の遺伝子情報も含めて、膨大なデータベースを載せて送り出すのが優先かと思います」
「教授。それは、」局長は、少し言葉に詰まった。「今の私達の、ほとんどは見殺しにするということになる」
「そうですよ」
「だが他にも、なにか手立てがあるはずだ」
しかし、教授は静かに首を横に振り、局長は頭を抱えた。
「世界は……いや、この宇宙は非情なものになったものだな」
「局長。私だって、怖いのですよ」
その静かな一言には、言い様のない感情が、すべて詰まっているように思われた。「できることなら、私も、無理にでも乗員に加わりたいくらいなのですから」
「まあ……分かった。それで、その実験宇宙機とやらの操縦士はいるのか?」
「男女一組と、最適化した超コンピュータが一台。彼らは適任です」
「ほんとうに、任せても大丈夫なのか?」
「もちろんですとも。宇宙機のレストア作業自体にも参加してしますし、シミュレーション訓練も重ねてきています」
「まあ、それはともかく、間に合うのか? 時間に猶予はあまりない。レストアが完了したとしても、他にも準備することは少ないくだろう」
「それですが……実は私の独断で、かなり進めていました」
「なんだって?」
教授は少しばかり、得意げな笑みをみせた。
「局長。必要な準備は、ほぼ揃え終えています。レストア完了後、試運転ができ次第、指示をいただければいつでも発進できます!」
***
「我々が、この宇宙の一つにおいて、確かに存在したという歴史を、いわば、ある種の大きなマイルストーンを残すために行動するしかないのです」
「自分たちで自分たちの墓標を作る、といったところか」
「局長、あまり悲観的になるのはよくありません。我々が存在した事実を、新たな世界に託すのです」
「あるいは、わずかでも存続の糸を紡ぐわけだ」
そのとき、職員の一人が報告を携えてやってきた。
「局長、観測部門からの速報です。宇宙収縮の速度が、急激に加速している兆候があると、観測データから予測が導かれました」
「そうか……」
前々から予想はされていたことだった。もっとも、この宇宙が閉じていることは、過去の観測結果らも明白な事実であった。ただ本来なら、それが収縮に転じるのは、はるか未来のことのはずだった。
「その予測だと、全宇宙が異常空間領域で満たされるのと、特異点レベルまで宇宙空間が収縮するまでの時間と、どちらが早いのだね?」
「この報告に、全ての資料が添付されています。局長ご自身の目でお確かめください」
「そうか……。ほかには?」
「それから、宇宙政治局が統率力をほぼ失ってしまった状況です。各地では混乱が起きています。せめて、対策局から、なにか声明を出してほしいとのことです」
「声明……と言われてもね」
「なかには、危険を承知のうえで、異常空間領域へ向かって出発しようとしている集団もあります。せめて皆の自由行動の許可を」
「分かった。出されいる制限は撤廃を発表しよう。残された時間は多くない。各々が自分の判断で行動してくれ。あるいは、悔いのない時間を過ごせるよう」
そして、この小さくも壮大な作戦は順調に進んだ。
宇宙機は目標点近傍まで、スキップ航路を複数経由して移送され、航行エンジンが点火された。
ついに発進までの計画は成功した。しかし、最終結果を知るすべはなかった。
***
「私は最期まで、ここで過ごすよ」
「局長、そんなことができるのは、酔狂な独り身だけではないですか? 局長にはご家族が」
「ああ、」局長はしばし口を閉じ、険し気な表情をみせた。「だが、私の妻と娘は、あの異常空間のせいで行方不明のままだ」
「それは……ええと、そうだったのですか? 申し訳ないことを言ってしまいました」
「まあ、気にすることはないさ。私だけのことでもないからな。それより教授のほうこそ、一緒に過ごす相手がいるのかね?」
「愛猫が家で待っています。気まぐれなように見えて、けっこうな寂しがり屋なんですよ」
遠くから眺める都市は、今は夕日に照らされ、どこか絵画のように美しく見えた。
しかし、そのじっさいは、惨憺たる状況だった。懸命にいつも通りの日常を送ろうとしている者もいれば、理性を失い、やり場のない怒りの感情に任せて暴徒と化す者、悲愴と絶望と悲しみに、抜け殻のような状態になった者、全てを諦め、受け入れたような表情をしている者、ただ意味もなく祈り続ける者……
その状況は、酷い有り様という表現を通り越し、どこか喜劇のような、滑稽な出来事に映ってみえた。
教授には妻がいた。だが、この宇宙規模での騒ぎが始まる前に病気で亡くなっていた。子供はいなかった。
ある意味で、それらは幸運なことだったのかもしれない、と教授は思った。
猫は、いつもとおなじように、小さく鳴き声を出しながら彼の足元にすり寄ってきた。
「よしよし、夕食にしようね」
空が暗くなるにつれ、そこには星々と、日に日に面積が増えてゆくグロテスクな模様が浮かび上がってきた。
また一機、宇宙のどこかへ向かう船が、鋭く輝く軌跡を残して飛び去っていくのがみえた。
教授は呟いた。
「私たちは、少しばかり余計なことに、欲が過ぎたのかもしれないな」