第329話 神意
水の中に入った、それは事実である。外から見れば、確かに神殿は水に沈んでいた。そしてその境目は実にわかりやすく。気後れするものの、先導するものが意に介さず進んでいく様子に、覚悟を決めて踏み出せば。その感覚はさて、どう形容すればいいのだろうか。
周囲にある物が水かと思えば、水としてはっきりと存在を感じられる。しかし呼吸が苦しそうだと、そう考えれば空気と変わりがない。確かに触れている水が、衣服も、髪も濡らすことは無い。加えて水中、そう思って動けばそうであり。ただ変わらぬようにと願えば、そのようにも動ける。
「流石、そうとしか言葉がありません。」
果たしてこれを為す奇跡というのは、如何なものか。
「向こうにも濡れない水、等というのもありましたが、それにしても浸かって呼吸が叶うものではありませんでしたからね。」
「ええ。それにしても、いつまでも見ていたい、そう思わせる光景です。」
トモエが視線を上げた先、そこでは水球が水を通してより柔らかに。変わらぬ日の光も降り注いでいるが、それが何とも言えぬきらめきを、泳ぐ魚が作る水流や影、花の色どり、それらが外から見るのとも違う顔を見せている。
無論どちらが優れている、そのような物では無いが。
「やはり、百聞は一見に如かず、言葉通りですね。」
「話を聞くだけでも、心躍る物でしたが。」
生前聞いた話で、想像出来た物。つまるところ向こうの常識、これまで見た事がある物を組み合わせた結果でしかないそれは。こちらでしか成し得ない物で、軽々と凌駕されている。異邦の風景も美しいものは多く、神秘を感じさせる場所も実に多かった。だが、ここまで露骨な奇跡のある場所ではなかった。
まだしばらく、そう思う心に逆らうために、一度頭を振ってトモエは歩き出す。少年たちは、気配を見る限り背中を押されて無理に進まされているらしい。
「やはり初めての時は、ゆっくりできるように、そうしたいと。」
オユキとしてはそれが叶わぬ端緒として、責任を感じる物ではある。
「また、伺わせていただきましょう。先に話したように。」
トモエとしても、慰める言葉はない。事実として、それはあるのだから。閉ざされた門、それも王妃の後ろを、それでも周囲を眺めながらついていけば、当たり前のように開いていく。
先触れもあったのだから、誰かがとそう考えていたが。そもそも以前に入るには試しがなどという話を聞いたことを思い出す。確かに、この門はオユキ達の来訪を拒むような物では無いらしい。
「これはまた。」
水中の建造物、その内装はどうなっているのかと思えば、開いた門から見えるそこは、実に優美な礼拝堂としか評せない物である。入口からまっすぐに敷かれた青緑の敷物、その先には説教台、そして背後には神像が立ち並んでいる。奥にはモザイク画が柔らかな光を届けている。生前であれば、ステンドグラスと言えるのだが、生憎こちらでは素材そのものが光ることも多い以上、判別がつくものではないが。
「ため息しか出ませんね。」
「喜んでいただけているようで、何よりです。」
「好み、落ち着くか、そういった差異はあるでしょうが、これを見て美を感じないというものは、極少数でしょうとも。」
「確か、フレスコ画の類もあったように思います。」
「それは是非とも、来歴も併せて伺いたいものですね。」
抑えるつもりではある物の、やはり声に喜色は滲んでしまい。恐らくは王妃にも声が届いているだろう。振り返ることは無いが、先方としては嬉しい興味には違いない。神殿に足を踏み入れれば、既にそこでは一行を待つ者たちがおり、膝を付き頭を下げているものと、一人立ったまま相対している者がいる。ローブの形式は違うが、刺繍の細かさを見る限り、つまりその人物がこの神殿を監督する司教その人であろう。てっきり王城に残っているかと思えば、まぁ、事が事ではある、そちらにも迷惑をかけた様だ。
「お待ちしておりました、王妃様、巫女様方。」
さて、声をかけられてしまったが、どうすればと視線を動かせば侍女から促されて、オユキとアイリスは王妃の傍らに控える。
「司教様にも、今回は何かと労を欠けました。些少ではありますが、頂いた奇跡へ私どもからの感謝、それを示す品をお持ちいたしました。」
「ええ。伺っておりますとも。そちらの持祭アナ、セシリア、それからアドリアーナは、ロナお願いしますね。」
さて、名前を伝えてはいないはずだが。そう考えるのも野暮というものではあるのだろう。名前を直接呼ばれた少女達三人が、名前を呼ばれて体を起こした女性に連れられ、別の場所へと向かっていく。これまでと同じように、そちらでロザリア司教の名代を務めるため着替えるのだろうが。アドリアーナは、さて。これまでを認められたという事なのだろうか。
行儀作法の時に、奇跡を得たからと心を決めたようではあったし、改めて都合が良いということもあるのかもしれないが。そこまで含めて、少年たちも同行させよと語ったのであれば、こちらの神、それのなんとすさまじい事か。
「改めて、感謝を。」
そうした諸々が進んでいる間にも、当然王妃と司教の会話は続く。人払いはされているようで、言葉を過剰に、習慣として残っているものはあるが、伏せる事もないようだ。
「何ほどの事でもありません。幾度もお伝えしましたが、奇跡を祈り、それが叶った。私共にとっては、それで神の御心を知るには十分なのです。」
「ええ。それだけで誰もが納得できればよかったのですが。」
「時期が悪かった、そう言うしかないのでしょうね。お子様だけでなく、皆もそうであったというのに。」
「凶兆を感じ、そこに理由を、そして安心をという事でしょう。」
話題はやはり、既に生まれたはずの新たな王族の一員であるらしい。交わされる言葉そのものは、オユキとしても予測の範疇を出る物では無い。だからと言って、心に乗る重さが軽くなるような話題ではないが。
「では、改めて頂いた奇跡、それにまずは感謝を捧げさせて頂いても。」
「勿論と、そう言いたくはあるのですが。」
そこで司教に視線を向けられる。事ここに至ってはどうしたものかという事も出来ず、王妃が半歩さがったこともあり、二人で前に出る。
「主として祀る神は異なりますが、私どもは皆さまを歓迎いたしますよ。」
「お心遣い有難うございます、司教様。改めて私がオユキ、そちらがアイリス。有難くも戦と武技の神より役目を頂いた身です。」
「ええ、存じ上げておりますとも。さてお二方には早速ではありますが。」
そう、巫女二人、こちらに預けたというものを取りに来ているのだ。
「畏まりました。」
「では、まずは彼の神の御前に。」
そうして、案内されるのは戦と武技の神の神像、その前となる。その何処にもあるだろうと考えていた品はないが、以前指輪を得た時のこともある。預けているが物はこれから現れるという事なのだろう。未だ戻ってきていない少女たちを待ちたい気持ちもありはするが、促されてしまっては仕方ない。
彼女たちを待つために神を待たせた、それをあの子たちこそ許しはしないのだろうから。
案内された先、未だ馴染まぬ作法通りに礼を取れば、それが当たり前とでもいうかのように周囲の風景が変わる。生憎とトモエは一緒では無いのだが。
「改めて、よくぞ使命を果たした。」
「ご下命とあれば、何程の事もありません。」
「うむ。その方らの手によって用意された品も、姉妹たちが実に喜んでいるとも。」
「何よりでございます。」
「何、そう畏まる事も無い。さて、我も許しは得ておるが、やはり異なる領域。そう長々と場を持つわけにもいかぬ。」
そうして、戦と武技の神が、ただ白い空間。思い返してみれば、一度だけ訪れた教会は、こちらを模倣したのだと分かる武骨だが優美な、その空間で数度手を叩く。
そうしてみれば、オユキとアイリスの前にいくつかの品が現れる。
「戻れば、改めて我の像の前、供物台の上に置いてあるのだがな。」
そうして苦笑いをする当たり、やはりこちらは向こうともまた違う場であるらしい。
目の前に浮かんでいるのは、濃い紫色と白の対比が鮮やかな布。恐らくは緋袴と白絹。オユキの方は見た目に合わせた年齢としての物だろうが、アイリスが萱草色だと考えれば、見目に合わせたものなのか。戦と武技の神を表す色はと思えば、白絹の方に刺繍が入っているのが見て取れる。
そして丁寧に畳まれたその上には、それぞれの武器が置いてある。
「私は、やはりこちらですか。」
「うむ。研鑽は喜ばしく思う。しかし。」
「御身の名を示すには足りぬ、それは重々承知の事ですから。」
近頃主として使っている二刀ではなく、太刀が一振り。脇差ではなく懐刀であるのは、衣装に合わせた物であり、祭祀のための物ではあろうが。
「これが、開祖の。」
「うむ。既に聞いておるのだろうが、野太刀と呼ばれるものだ。ハヤトが馴染んだもの、求めた物。そのままの形としている。」
「しかし、そうであれば。」
「その思いは我とて理解はできる。しかし、示さねばならぬ、その方らがまず先に。であれば、それを使えと、我は戦と武技、それとして、そう告げるのみだ。」
あくまで初伝、開祖の求めた武器を手に取る事に逡巡以上の物があるだろう。
「オユキは。」
「是非も無し。あくまで流派の物では無く、戦と武技、その神の名の下ですから。無論、そうでないというのであれば。」
トモエが名を継ぎ、今は孫娘が。その流派の名を語ることは、オユキが良しとするはずも無い。そうだというのであれば、今この場で。敵わぬと知ってはいても、そうではない物の、研鑽の半ばとしての物でも、相手が神であろうとも。
ただその意をもって、アイリスに言葉を返し、戦と武技の神に視線を向ける。