第1223話 印状に至るには
トモエにしても、失念していたことがある。
己が流派の全てを掌中に収めているのは事実ではある。
既に、他の、孫娘に皆伝を授けているというのも事実。
だが、才があるものに伝えただけであり、トモエよりも差異があるとはいえ、孫娘ほどでは無いオユキに対して伝えていなかったことがある。
そんな事に、今更にトモエにしても気が付く。
「オユキさんは、ある程度自然と行っているようにも見えますが」
「はて、何がでしょうか」
改めて、トモエがその場に腰を下ろして。
こちらでは、やはり未だに良い顔をされる事は無い。
それはそうだろう。
余所行きとまではいわないのだが、それなりに高価な衣服にトモエもオユキも身を包んでいるのだ。
その様な身形で、鍛錬の為にと土が露出した場所に膝を降ろすのだから。
衣服の洗濯を行うものだけでなく、座るのであれば椅子にと考えるこちらの者たちにとってみれば、随分と奇異に映る物だろう。すぐ近くに、オユキの為にと、オユキが始まりの町で肝いりとして誂た四阿によく似た施設も用意されているというのに。
しかし、トモエにとっては。
同様に、オユキにとっても。
こうして、流派の事を口の端に挙げる時には、差し向かいでひざを突き合わせるという形が、やはり必要でもあるのだ。
「印可を与える時、そこに進むためにはそれぞれの物として学ぶだけでは、やはり足りないのです」
「成程、そういう話ですか」
トモエが、言葉を選んで口にする事柄。
成程、オユキにしてもそうして話を聞いてみれば納得のいくものではある。
そもそも、流派として至上とする得物が存在している。十全にその得物を扱うために、随分と迂遠な事柄を学んでいくというのが、印状の手前。
では、そこから先に進むためには何が必要になるのかと言われれば、組み合わせる事こそが肝要だと言われてもなっとくがいくものではある。
「ですが、その、暗器術と当身術であれば間合いも近いので応用も効きそうなものですが」
そして、つい先ほど寸鉄の装備を言われたオユキとしてはトモエの言いたい事というのも予測がつく。
寧ろ、オユキが印状を得る事を考えているという前提を思えばこそ、思い当たることも確かにある。
トモエにしてみれば、どうしたところで肉体に不測の多すぎるオユキである以上、当身術を利用するというのであればそこには暗器術を前提としたいと、そうした話なのだとオユキも確かに理解が及ぶ。
しかし、それに理解が及んだからとはいえ、流派としての武器、トモエが基本として振るう、あと一歩もすれば大太刀にと呼べるような、最早オユキにしてみれば大太刀としか見えぬ今のトモエの得物を見てみれば。
やはり、暗器や当身とは根本的に理合いが違うのだと、そのようにしか見えないものではある。
「そのあたりは、そうですね、内伝に含まれることにもなってきますので、また別の機会とします。ですが、現状オユキさんが暗器術と当身術の関連を、私の懸念を確かに理解していただけているようですから」
「その、かつての事ではありますが」
「こちらであれば、問題はなさそうですが」
「流石に、仕合以前の場では、私も気が引けるのですが」
「私が、怪我をしないだろうとしても、ですか」
オユキにしてみれば、トモエがそうして進めているのだと理解が及んだ。
だが、実際にオユキが暗器、この場合であれば鉄菱を握りこみ、寸鉄を扱ってトモエに対して。鎧を身に纏ってはいない、素肌物のトモエに対してそれらを使ってというのは気が引けるのだ。
如何にトモエがオユキの師であるとはいえ、オユキにしてみれば圧倒的にとまではいわないが、そうした武器を持つということ自体が明確な差になるのだと散々にこれまで聞いているからこそ、トモエと対等であることを基本として望んでいるからこそ。
「オユキさんは、当身術の中で、父から幾つ拳の構えを習っていますか」
オユキのそうした逡巡を置いて、改めてトモエが当身術をオユキに教えたことが無いなとそんな事を考えて質問を変えてみる。
確かに、トモエがオユキの師であるのは事実。
しかし、それはやはり限られた分野でしかない。
オユキがトモエの父が構える道場に来た頃は、トモエにしても所詮は印状を手に入れたばかりの頃であったのだ。トモエの父の代理を行うことが出来る。所詮はその程度の頃。
トモエがオユキに基本として教える事になったのは、やはり今もオユキがこだわる形としての、太刀もて向き合う二人での時間。それ以上でも、それ以下でもない。
父が亡くなる前、トモエが皆伝を得るころには、オユキにしても当身術はもはや十分とばかりに刀の扱いに専念していたものだ。だからこそ、オユキの実施あの進捗に関してはやはりトモエにしても抜けがある。
「四つ、です」
「でしたら、印状のためには後三つは覚えねばなりません」
「そう、なのですか」
「そうなのですよ」
さて、トモエにしてみれば、三つばかりと考えていたのだが、考えているよりも一つ多い。
成程、これがトモエの父によってオユキに与えられたものなのだろうかと、そうした疑いを覚えながらも向かい合って座るオユキに覚えている拳の形をそれぞれに作らせる。
指を軽く折る掌打。指先までをまっすぐに伸ばす手刀。親指で人差し指と中指を抑える形に握りこむ拳打。人差し指と薬指を中指に隠すように、さらには親指までをそちらに添わせるようにする貫手。
この中で、そもそも目録の範囲で教えないのは、一番最後にオユキが己の手をその形にした貫手。
寸鉄を使えるだけの知識を持っているというのに、やはりトモエの父がオユキに伝えていないものがある。
「では、一先ずあと二つ、でしょうか」
「あの、三つではないのは」
「そこは、印状をオユキさんが得てからとしましょうか」
ただ、こうした話にしてもオユキとしては僅かに疑問も覚える。
そも、トモエはこうした話というのを人前で行うのを良しとしていなかった。
過去にしても、こうして話をするときには場を選んでいた。
だというのに、オユキが印状を得るためにという話を、触りだけとはいえ耳目のある中で流派について、先に足を進めるための事柄をオユキ相手にとは言え語り聞かせる事にどうしたところで違和感という物が付きまとう。
そして、やはりオユキのそうした感情に、表に出てはいないものとはいえ気が付くのがトモエでもある。
だからこそ、こうして居住まいを正しているのだと言わんばかりに。
「前にも話したかとは思いますが、私にしても改めて思う所があります」
「その、こちらで改めてという話でしょうか」
「それも含めてと言えばいいのでしょうか」
トモエにしても、トモエだからこそ。
オユキは、最早こちらに長く在るつもりが無い。
だが、トモエとしてはかつてに比べればこちらの世界というのは、好ましい事ばかり。
何処まで行っても評価の根底に置かれているオユキの事があるため、最終的な評価どころか、大前提としてトモエもオユキと同様ではある。
だが、それ以外の場面では、こうして考えが違うのだと言う事を示しておくのも大事だと考える様になっている。
トモエに対して、どうにもオユキの説得を試みる様にと、そうした話が多いのもある。
だが、トモエにしてみれば、それはトモエの行うべきことでは無い。
こちらで生きる者たちこそが、オユキに対して働きかける必要があると考えているからこそ、トモエとしてはこちらに残るつもりがあるのだと示し。
そして、トモエとオユキが異なる人間なのだと言う事を、強く他にも示さなければならないと改めて考えたこともある。そして、オユキには正しくトモエの考えというのも伝わる事だろう。
こちらの人間は、こちらの世界は。
オユキがこちらに残ると決めたのだとして、あまりにも己の伴侶に対して無体を行うのだとトモエも既に理解をしている。その改善のためにも、これが必要なのだとトモエは考えているからこそだと。
そうした考えを、オユキとしても汲んだうえで、僅かな苦さを表に浮かべながら。
「その、手の作り方と、暗器術にどのような関連が」
「当身術にしても、基本として得物を持つと言う事は、オユキさんも理解はして頂けるかと思いますが」
他の流派では、一体何を言い出すのかと言われることもあるだろう。
「はい、それについては義父からも」
「オユキさんの覚えている手の使い方は、やはり太刀に依った物になっています。足の使い方などは、一応棒術の気配も見られますが」
「そう、なのですか」
「はい。そもそも、当身を使う距離であれば、やはりそこは暗器を用いる距離でもあります」
そうして話しながらも、トモエが手を差し出せば。
オユキもそれが分かるからこそ、トモエに用意されている暗器のいくつかをそのままトモエに渡す。
振り返ってみれば、トモエは基本として身に付けないというのに、トモエは良くオユキに暗器を渡すのだ。
てっきり、オユキが身を守るために、それこそオユキの向かう先では基本として帯剣を許されない場面もままあるために、心配の一環としてかなどと考えていたのだが。
「鉄菱に関しても、こうして軽く握りこんでおくといった方法もありますし、寸鉄も極め技の時に利用できますから」
そうして話しながら、トモエから改めて暗器の取り扱いに関する話を聞く。
懐剣にしても、オユキの考える以上の扱い方があり、さらにはいつの間にやら用意していたらしい角出などを改めてトモエによって手にはめられながら。
「オユキさんでしたら、物理の範囲として理解は頂けると思うのですが」
「確かに、もう少し先をとがらせて置けば、確実にとも思いますが、その場合は」
そして、親指を揃えて握った指の上に。その間に、寸鉄をもって。
「体を締めてもどうにもならない箇所というのが存在しますから、基本はそちらを狙う事になります」
「関節の周囲、ですか。ですが、そちらにしても」
「私も試したことはありませんが、曲がる側と言えばいいのでしょうか。腕であれば、肘ではなく、その内側を。ひじなどを狙う場合は、極め技として狙いますので」
「なんと言いますか、私にしてもついつい考えてしまいますが」
オユキが暗器を好まなかった理由として、いまトモエの口から語られている内容というのが存在しているのだ。
そして、漏れ聞こえる声を聴いているからだろう。
シェリアなどは実に興味深げに聞いているのに対して、エステールは基本として顔色が宜しくない。




