第1116話 ウニルの夜
「と、まぁ、前公爵夫妻から、こうした提案がありまして」
「私としては、領都よりも王都のほうが確かに好みといいますか」
「そうでしょうとも」
ウニルの町では、始まりの町よりもさらに水が身近にある。湯船にしても、より贅沢なといえばいいのだろうか。どこかで温められた水が、かつての世界でもあった様にかけ流しのように使われている。排水については、オユキの分かるような仕組みはどうせ使われていないだろうと、すっかりと諦めて。ただ、心地よさとでもいえばいいのだろうか、それを喜ぶだけ。
トモエとオユキが好んでいる、正直それだけではあるのだろう。こうして用意されている湯船に、例えばこちらの世界の貴族たちが使ってと言う事をそこまで聞いた覚えも無い。かつての世界でよくあった様に、入浴の結果としてのぼせるのが早いのだろうなと、そんな記憶を辿りながらトモエと浴槽の中で肩を並べて。
オユキに合わせてとなると、どうしてもトモエは半身浴といった様相を呈してしまうため、侍女たちの手によってオユキ用のいすがしっかりと用意されているので、湯船の中では、オユキには随分と深い浴槽の中では腰かけて。
「オユキさんは、どうしたいですか」
「特に、これと言って思いつくところはありませんが、そうですね」
トモエに言われて、オユキも改めて考えてみる。
オユキ自身、自分が特別どこで暮らすのかを特段気にする事は無い。それこそ、求める物は書斎程度。そこに、多くの本を集めて、徒然に手繰り。こちらで改めて用意したコーヒーでも側にあれば、そしてトモエがいればそれで十分と考えている。勿論、それがかつての世界でも相応に贅沢な行為だというのは知っている。こちらでは、尚の事。
オユキが、そんな事をゆるりとトモエに話せば、トモエのほうは知っていたとばかりに頷いて。
「始まりの町、私たちが頂いた屋敷に用意はしましたが、あまり仕えていませんからね」
「その、書籍によくない事といいますか」
オユキとしても、己の性質が困ったことに書籍を痛める事を理解している。どうにも、氷の乙女というよりも冬と眠りに連なる者たちの特徴とでもいえばいいのだろうか。冬と眠りすら、誰かとの交流を求めるというのに、当の本人の力がそれを許しはしない。そうした、好むことから遠ざけられるという何とも皮肉な特徴を引き継いでいる者であるらしい。
「オユキさんは、始まりの町が好きですものね」
「それは、ええと、はい」
「ですが、暫くは」
「困ったことに」
始まりの町に、ファンタズマ子爵家の本堤があると言う事を、隠してはいない。そもそも、オユキにしても領地を持つつもりがない以上は、やはり誰かの量で屋敷を構えなければならない。そして、寄り親であるマリーア公爵の領都では用意が間に合っておらず、現状は仮の者としてリース伯爵領でとなっている。
そのあたりについては、マリーア公爵も隠しておらず寧ろ、そうした無理を頼んでいるからこそリース伯爵へと配慮をする形をとっている。要は、ファンタズマ子爵家が始まりの町に屋敷を持つ。それが、メイに対して公爵の孫を供出するのに都合のいい理由として扱えるからというもの。
「オユキさんは、少々気配りをしすぎているかと」
「そう、でしょうか」
オユキが、そうした理屈をトモエに話してみれば、しかしトモエはそれをただ笑って。
「ええ。すでに動いていることであれば、問題が無いというよりも、他の理屈を使えるでしょう」
「それは、どうでしょうか」
「例えば、王都に向かったとして、オユキさんの懸念は間違いなく」
「はい。あの無法者どもが、またと考えると」
「今度ばかりは、神国の、国王陛下のお膝元ですから。それに、オユキさん、忘れてはいませんか」
「何を、でしょうか」
楽し気に、くすくすと。声を出して、音をたてて笑いながら、流れる水を掬って流してと、少し手遊びなどをしながらトモエがオユキに話す。
「マルタ司教に頼めば、ええ、より簡単にとまでは言いませんが」
「それも、そうですか」
「はい。屋敷から、あの闘技場の併設されている教会に。そうしてしまえば」
「トモエさんも、なんと言いますか」
「父が、オユキさんに何度も伝えたでしょう。巻き込める人間は、巻き込んでしまえばいいのです。何も、私達で解決しなければならない問題でもありませんから」
そうして、トモエがそれを当然とばかりに言い切るのだ。
言ってしまえば、教会に隠れて、そこで生活を。そして、戦と武技の巫女、神国の抱える戦と武技の巫女に対する挑発だ。前回の大会の優勝者と、準優勝者。そんな相手に対する挑発だ。神国の騎士たちは、己の誇りにかけてそれこそ一切の容赦をせずに武国からの者たちに向かう事だろう。もしくは、トモエとオユキに敗れる事になった騎士以外の者たちにしても。
すぐ隣には、相応しい舞台があるのだから。
そこは、必要な願いが、必要な祈りがあれば、致命傷すらも問題がなくなる場だ。さらには、加護の一切を排して、戦と武技の国、そこの者たちが加護ばかりを頼みにしているというのはあまりにも分かり易い者たちに対して。トモエとオユキに敗れていこう、戦と武技の言葉があり改めて見直しを始めている神国の騎士たちが、トモエが何度か技術を改めて伝えた騎士たちが。やはり負けてほしくないと、そんなことくらいは考えるのだ。
「トモエさんは」
「自信があるのかと聞かれれば、少し難しくはありますが」
「そう、ですか」
「武国の方々の内、こう、まともな方とでもいえばいいのでしょうか。それを名乗る以上は、間違いなく過去の誰か、ともすれば私よりも優れた方が遺した物もあるかと考えていますし、イマノルさんの事もありますから」
「ああ」
トモエが、少々不安だとそれを示す様子に、オユキは自分が平静であるとそうした風情ではあるのだが。トモエから見れば、まるで迷子にでもなったかのような、揺れる視線でトモエに訴えるのだ。どうか、その様な事を言わないでくれと。
まったく、これまでトモエがこの機体の視線に応えるためにと、どれだけの苦労があったのか知らぬのかと、何処かにくくも思いながら、それを超える信頼という嬉しさを覚えて。甘えてくれるのだと、こればかりはオユキが見せるのはトモエにだけだとそんな優越をしっかりと得て。
「ですが」
「そう、ですね。私としても確約できるようなことではありませんが、それでもオユキさんの期待にはなるべく応えたく思います」
「その、トモエさんが今回参加を選んだ層というのは」
「流石に、私としても事前に情報位は欲しいのですよね。恐らく問題はない、ええと、カリンさんがかつてのゲームで上位という話は聞いていますので、彼女程度であれば問題はないのですが」
ここで、トモエとして問題になるのは上位という言葉そのもの。抜きんでていた、そうオユキは言わないのだ。カリンにしても、それを語る時にどこか苦々し気にそう話すのだ。最初の頃は、それこそオユキに負けたままだとそうした話かと考えていたのだが、どうにもそうでは無い様子。
つまり、カリンを歯牙にもかけない相手が当時からいたという事には違いない。
問題としては、オユキがそうした場を好まないこともあって、父から言われて渋々と向かっていたという程度であったために、他の名前がほとんど出てこない事だろう。オユキの口からきいた、かつての舞台で対人戦に明け暮れていた者たち。そして、オユキが名前を覚える程度には抜けていたものというのはカリンとハヤトの二人を除けばあと五人ほど。
「オユキさんから見て、そうですね」
「難しい事を、また聞かれますね。ええと、かつての世界では、その、今でいえば加護ですね。それも、武技もありでしたから」
「それは、確かに条件が変わりそうなものです」
「ですが、私が覚えている範囲で、過去に最も上と言われていた方に私でも勝てましたから」
「それは、オユキさんとしては」
「確かに、私のほうが加護の領都でもいえばいいのでしょうか、そうした物が多かったとは思いますが」
ただ、オユキとしては、どうにも記憶が定かでは無いといえばいいのだろうか。
「その、こちらに来るにあたって」
「それは、私も自覚はありますが」
「ただ、覚えている範囲だと、その、当時の私でも勝ててしまえたので」
「オユキさん」
オユキの言葉に、何とはなしにというよりも、はっきりと自覚したうえでトモエは頬を押し込んでみる。
カリンがあそこ迄こじらせている理由、それはお前にあるのではないかと。
「ええと、トモエさん」
「仕方のない人ですね」
「その」
「これでわかっていただけるのであれば、このような事にはなっていないものでしょう」
まったく、これでは、カリン以外にも厄介を運んでくる相手がいると、そう言ってるも同じではないかと。トモエとしては、ため息一つどころではすまず。湯船にしっかりと体を沈めて、肩に乗っていたオユキの頭に、己の頭を当ててみる。今後も、オユキの知らぬというよりも、かつてもそうであったように一切意識を向けていなかった相手から、カリンのようなものが出てくる可能性がありそうなものだと。
「それで、ええと、トモエさんはサキさんと時間を使っていたようですが」
「話を、ええ、そらされてあげましょう。あの子は、私たちの記憶から三十年程時間が立ってこちらに来たようです」
「時間の経過が不明とはいえ、流れる物であるには違いありません。とすると、動機をするとなれば最新の地点となるでしょうから」
「はい。オユキさんが確認するようにといった中で、今のところ最も新しい方は私たちの死後六十二年が経過してから、ですか」
「係累は残っているでしょうが、さて、かつての話であればいよいよ祖霊に、大きな一つに還って。それ以上の時間ですね」
「本当に」
これからも調べていけば、平然と一世紀以上の時間が流れてと、そんな話が出てきそうなものだ。
「オユキさんは、並行世界でしたか」
「それも、最初は考えましたが、恐らくないでしょう。どうにも、私たちの世界に随分と前から干渉を行っていたようですから」
「オユキさん」
「トモエさんの、その、仰りたい事は分かるのですが」
「それを、確かめてみますか。今度は」
オユキは、この世界の神々に対して、予測が、推測が確信に変わったからこそ抱いている疑念がある。
己の両親を事故に合わせた、犠牲としたのは果たして誰かの思惑の結果なのかと。こうしてオユキが、トモエがこちらに来るようにとそれを考えての事なのかと。




