第八項 ねこはしる①
少女は夢を見た。何か夢が叶ったような、使命が果たされたような、そんな達成感にあふれた夢。
どんな夢だかはっきりとは思い出せない。しかし、それは誰しもが想像するような希望に満ちたものでなかったのは確かだ。
むしろ、虚無と絶望が支配していた。放り込まれてしまったのか望んでなったのかは判然としない。ただ、恐ろしく後悔と懺悔の気持ちが胸を締め付けていたのを覚えている。
疾走った。ひたすらに闇の中を疾走った。
吼えた。響きもしない虚空に咆哮た。
いつの間にか地を蹴るのは二から四になり、これまでの疾走は助走に過ぎなかったのだと気づく。スピードを上げる、上げる、ぐんぐん上げる。
風よりも光よりも速く、どこまでも疾走っていけるような気がした。そうあってほしいと願った。
何もなく、このまま暗闇のうちに囚われて一生を終えたとしてもかまわない。いや、なんとしても逃れたいのだ。
月を見上げるなんてもうやめだ。首無しなど知ったことか。
九つに分かれた尾の先は闇に溶ける。光の下にさらすなど、あってはならないのだ。
疾走った。終わりの見えない中をひたすらに疾走った。
琥珀の瞳に映るのは、たしかに昨日帰った場所だ。
殺風景で真っ白な部屋に雑に敷かれた薄い布団マットと共に、金糸を纏う少女の姿はあった。
原形を留めないまま床に散々としている赤クレヨンを踏み散らしながら玄関に向かう。
今日は何だったか。そうだ、柊と共に聞き込みをするのだった。満身創痍を押して少女は進む。
傷には包帯。教わったことではないか。彼女よりも上手に巻けなくとも、自分には意味のないものだとしても。
小さな鏡は砕けてしまって、何も映してはくれない。己を映すのはこの琥珀だけなのだと、少女は琥珀色の瞳で部屋を見渡す。
黒く滲んだ、しかし一目見ればそれとすぐにわかるほど大きくはっきりと虎の絵が床一面を使って描かれている。
少女はドアを勢いよく開け放つ。ごうと風が金糸のツインテールを揺らした。
黄と紅と人の波。やはり変わらず琥珀を彩る。駄菓子屋の時計は七と半を指していた。店主は店先の折りたたみ椅子で新聞を広げている。
呼吸を整える。小さな身体をぐっと大きく伸ばしてみる。
「よし、がっこういくぞ!」
「むーちゃん、おはよう!」
言い終わる前に割り込んできた不届き者は当然柊なのだろう。いつもの張りついた微笑みか、いつか見せた悪戯な笑顔をこちらに向けているのか。
しかし、少女が声のした方に振り向いても彼女の姿はない。
もしかして、驚かせてやろうなんて企んでいるのではなかろうか。辺りを見る。
駄菓子屋にも、マンションにも、もちろん「箱」の中にもいない。一体どんな手品を使ったのやら。
挨拶だけなら会ったときにすればいいのに。ため息をつきながら少女は早足で学園へと歩みを進める。
マンション街には珍しく赤とんぼが翅をはためかせて謡う。
コンビニの先にある、あの「心臓破りの裏路地」の手前まで歩いた。さて、どうしたものか。
まっすぐ入れば昨日と同じく学園にはたどり着く。だがどうだろう、知れば知るほど気味が悪く、身の毛もよだつこの道を再び通行するなどあっていいのか。
そんなのはほとんど肝試しである。とすれば枝分かれの右か。
ぐちゃぐちゃにはなっていたが、かろうじてまだポケットに入れていた地図を取り出す。
住宅を抜け、住宅を抜けて行き着くのはやはり住宅。心臓破りの反対側は、どうやら行き止まりらしい。
どうも学園に行くには一度引き返す必要があるらしい。だが、少女の性分がそれを許せなかった。
昨日何事もなく通れたのだ、今日だって。目の前に続く一直線を捉える。
ちょっと薄暗いだけで何もない道。ほんの少し前まではそう思っていた。しかし、今はそこにあるというだけで恐怖の対象。
一目見ても二目見ても何もあるはずがない。何もあっていいはずがない。
爆弾でも抱えたように心音が高鳴る。本当に心臓が弾けて散ってしまいそうだ。
怪事件の現場は何か、少女に語りかけるようだ。記憶が眠っている。根拠はないが、確実にそうだと言える何かがあった。
柊でも咲間でもいい。せめてどちらかに助けを求めたかった。走ってもいないのに汗は噴き出し、息が上がる。
あの子もこんなことを考えていたんだろうか。蒲公英色の瞳が脳裏に浮かぶ。
全てを知ったわけではない。しかし、少女はたしかに見たのだ。
自分が聖生白を喰らうところを。
『霜月さんは死んだ。昨日言ったはずだろう。』
パペット男は冷たく言い放つ。少女は何が何やら、わけがわからなくなった。
柊がいるはずの学園に足を運んだ。警備をすり抜けて中等部の校舎に乗り込んだのだ。
彼女を初めて見つけた本校舎前広場にも、彼女と初めて言葉を交わした数学準備室にも、彼女の恐ろしさを思い知った自販機コーナーにも、仕事をさぼってまで調べると行った大図書館にも。
どこにも、どこにも柊の姿が見当たらないのだ。
咲間の言うことは、はじめ何を言っているのかと思っていた。彼は少女を「箱」まで送り届けたのだ。
柊の死など知りようがないし、第一あの女が挨拶もなしに死ぬなんてことがあるか。
『人間死ぬときはあっという間だ。ドラマティックな死に方なんてものはないのさ。君もせいぜい霜月さんの分まで長く生きるんだな。』
ドッキリだ。実は今日自分は誕生日で、それを知っていた二人は自分に思い出させるためにわざとこんな芝居を打ったに違いない。
あの女も今にフラッシュモブでもやるために出てくることだろう。もう騙されはしないぞ。
待てども待てども、柊はやって来ない。咲間は無駄に大きな図体を引っ込める。
騙されるな。自分の顔がどんなだか、モニターだか何だかで見ているに違いない。
しずくがポタ、ポタと落ちたのに気付いたときはもう遅かった。
気付けば声をあげて泣いていた。周りに奇異の目で見られようとも、もうかまわなかった。
柊は来ない。本当に、現実に死んでしまったのだ。昨日笑顔で手を振った職務放棄教師はもういないのだ。
頼れる人間が一人減ったからではない。初めてできた少女の友達を失ったことに泣いていた。
あのとき、別れなければよかった。引き止めて、「箱」にでも一緒にいればよかった。自分が代わりに死ねば。こんな自分でも、たった一人の友達のために死ねたのなら。頭の中は後悔と自責の念で覆われる。
ひょっこり壁の向こうから飛び出してきてくれないものか。いつものあの微笑みで。
嗚咽が止んだのを確認してから、咲間はあくまで淡々と、彼女の死について話しはじめる。
霜月さんは俺たちと別れた後、確かに学園に行っている。警備の人間も、夜に出る人はあっても入る人は少ないので覚えていたと言う。
学園だ。霜月さんの遺体は、あのひとがいつも使っていたらしい数学準備室に隠すでもなくあったらしい。
俺には捜査できる立場にないから実際遺体を見てはいないんだが、どうも自分で喉を掻っ切ったって話だ。
手には彼女自身の血と、そして聖生白の血がついたナイフが握られていた。
このことから、柊霜月は一連の事件の犯人であり、生徒を手にかけた罪に耐えかねて自殺したのだと結論づけた。
俺は矛盾を指摘した。だってそうだろう。ナイフなんかで首を、いいや指の一本だって切り落とすのは至難の業だと思うぜ。
それに万一犯人なんてことがあったとしてもだ、夜行の謎がそれでは解明されない。
上の言い分はこうだ。すでに捜査は打ち切られた。これ以上手を加えてだれが得をするのだと。
どうも学園内部が怪しい。なんでも、捜査打ち切りは学園長による圧力が原因らしい。
それに、学園長に直接会った幾人かの捜査員は抜け殻みたいになって帰ってきたんだ。
悔しいさ、だが俺にはどうすることもできないんだ。上によれば、学園内はもう警察の出入りができなくなってしまったと言う。
俺はどんなだか顔も知らないが、夜行はヤツだ、学園長に間違いない。
頭が混乱してきた。学園長がもしその伝説の首切りだとすれば、彼だか彼女だかは知らないが、メリットなんてものはこれっぽっちもないじゃあないか。
それどころか、立場上強く出られるにしてもリスクの方が大きすぎる。大量の生徒を入れるのは殺人に興じるため、などと噂が出回ってしまえば築き上げた理想国家が崩壊してしまいかねない。
咲間の過去したプロファイルによれば、夜行はそもそも二人組なのではなかったか。
おそらく柊を殺したのは学園長か、それに近しい何者かには違いなかった。しかし、夜行がそれとはどうも考えがたい。
感情を殺して語ってはいたが、咲間も少なからず動揺しているのを感じ取った。
学園に行ってみる価値はある。影が薄いのか何なのか、誰も少女を止めようなどとは一度とてありえなかった。
「がっこういってくる。」
咲間はただ一回こくりとうなずいた。腕時計は十時十分を示している。
少女は走った。ただひたすら前だけを見て走った。余計なことは考えない。今日が何日の何曜日とか、天気はこれから悪くなるだろうとか、細かいことはどうでもいい。
コンビニを抜け、心臓破りを抜け、望野学園までもう迷うこともなかった。学園の入り口には当然警備がいるが、少女にとっては些末なことだ。
止めに入る者が現れれば、力づくで行ってやると思っていた。
やはり少女には何の障害もなく、校舎内を行き交う学生たちも押しのけて進む。
なぜだか少女はすでに学園長が、彼女がいる場所を知っていた。校内案内図なんて見た覚えもなくてもわかる。
学園長は自室から滅多に出ない女だ。寝食もネームプレートと大量の書類が置かれたデスクでするくらいなのだ。
出てくるときといえば、きまって実験なのだ。一度だけ見てしまったことをきっかけに、箱のような部屋に閉じ込められるようになった。
間違いない、夜行は学園長に従えられている。
「関係者以外立ち入り禁止」と書かれた金属製の重い扉を開いた。
琥珀に映ったのは・・・なんだったか。さっぱり思い出せない。
そうだ、ぼくはしななければならない。だってそうだ、ぼくはあのこをころしたのだから。
いたくてもあのこのくるしみにくらべれば、ないふをにぎれ。
せんせいがしんだのも、ぼくのせい。ぼくがいなければせんせいはしなずにすんだかもしれないのに。
いまそっちにいくからね、ないふをにぎれ。
はくちゃん、むこうではげんきにしてるのかなあ。ぼくはしないふをにぎれ。
ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。屍ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふ似をにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをに他ぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふを九にぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ無。ないふをにぎれ。ないふをにぎ異れ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。ないふをにぎれ。