第四項 ねこのゆめ④
「そういえば、貴方のこと何とお呼びすればいいでしょう?」
真っ白な廊下を歩きながら、海色の瞳は少女の琥珀に注がれた。
「さあね、しょーじょエーでもビーでも。すきなようによびなよ。」
電球の交換忘れか、真っ白なはずの壁や床が何度も白黒する。
記憶の手がかり探しの第一手として、少女は柊に連れられて図書館に向かっていた。
一つの国家といっていいほどに広大な望野学園の図書館である。小中高それぞれの校舎そばに専用のものが一棟ずつ。そして中学校本校舎と高等学校本校舎を一直線に結んだちょうど真ん中に位置する大図書館。
目指しているのはそこだ。
大図書館には、おびただしい数の本がセキュリティつきの本棚に収納されている。主にセキュリティ解除と学生たちの調べ物のために利用されるパソコンが、ほぼ常時稼働していた。
柊が第一手に図書館を選んだのには理由があるという。
まず一つは少女の持つ、聖生白のものらしい学生証の照合。本来は別で存在する専用のパソコンを使用しなければならないのだが、少女の得体が知れない以上やむなしという結論だった。
教員であれば、パスコードを入力しさえすれば一応アクセス自体は可能らしい。
もう一つは少女自身の身元特定。学園内や周辺地域での情報を集めるのだという。
(図書館に置いてあるパソコンなんかでそんな芸当、できるとは到底思えないけれど。)
柊の言う理由というのにはいまいち納得がいかなかった。
信用はできないが、彼女の好きにさせておくのが今はベストだろう。好き勝手やっているだけなら少女にとっては無害である。
あの女に反抗でもすれば何をされるかわからない。
柊がパソコンで調べている間、少女は黙って本でも読んでいようと本棚を見回る。
絵本コーナーで少女は立ち止まった。
ロックがかけられているはずの本棚から何冊か、黒のマットの上に叩きつけられている。
面倒に思いながらも、散乱している本を一冊ずつ拾い集めていく。
中にはページの折れ曲がってしまっているもの、装丁が傷ついたり汚れてしまっているものもあった。破けたものがないというのが唯一救いだ。
(高いんだろうなあ、この本の山。こんなことしてて、ぼくが犯人扱いでもされちゃったりしないか心配だよ。)
わざわざ生徒証明と、別で専用のパスコードを入力までしないと閲覧もできないくらいなのだ。値段など聞きたくもない。
幸い授業中だからか、周囲に人の気配はない。少女はほっと一息ついた。
雪のように美しい姫、老婆に化ける狼、自らの嘘に殺された少年・・・。どれもこれも聞いたことのある物語だ。
ここの生徒ではないし、片づけ方はわからないからあとで柊に聞いておこう。拾った絵本を、自分の体の横にきれいに一つずつ積んでいく。
彼女もこのコーナーによく立ち寄ったのだろうか。柊はたしか、聖生白は絵本をよく読んでいたと言っていた。
童話や伝説を描いたものに混じって一冊だけ、少女の聞いたことがないタイトルが目に入った。
(『首無し男』・・・?何だろう、知らないなあ。)
作者名の記載もない。学生創作のオリジナルといったところか。
もしかしたらあの子が描いたものかもしれない。気になった少女は、赤いタイトル文字だけの黒い絵本の表紙をめくった。
中は闇でも閉じこめたように真っ暗で、光を当ててみても何も見えない。上から塗りつぶした跡などもない。
少なくともこのページは初めから黒一色らしい。不思議には思ったが、一ページ目だからとあまり気にしないことにした。
次のページ。やはり一面に黒が広がっている。少女は不審に思いながらも中身を確認していく。
次のページ。黒。次のページ。黒。次のページ。ただただ黒。
ページをめくってもめくっても、仕掛けも何もなくただ黒いだけの世界が延々と続く。
何か、頭の中で引っかかる感覚がした。
「もしかして、ゆめでみた・・・?」
うっすらと浮かびはじめる夢の記憶。冷や汗が止まらない。
震える手で次の、最後のページをめくろうとする。全身がガタガタと震え、心臓の音はうるさい。
見たくない。でも、見なければ。
「何を見たんですか?」
勢いよく頭を上げると、柊が訝しげにこちらを覗きこんでいた。
どうやら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。手元には『不思議の国のアリス』が閉じられたままある。
はっきりとした記憶はないが、どうやら絵本コーナーにいたのだけは確からしい。
「たしか、不思議の国の結末は・・・」
何か言いかけて、柊は思案するしぐさをする。
時計の針は十二と六を指していた。思っていたよりも随分と時間は経過しているらしい。
休み時間になったからか、周囲には学生の姿が見える。少女と柊が休憩室代わりにしているのは、洋書コーナー奥の閲覧スペース。
涎を垂らしながら眠りこけている学生も珍しくないからちょうどよかった、と柊は笑った。
「さっきの話の続きなんですけど。貴方の名前、このままではお互いに不便でしょうから。」
夢うつつだった少女にしてみれば、どの話の続きなのかと思うところだ。しかし、わざわざつっこむ必要もないだろう。少女はただ無言でうなずいた。
柊のアクアマリンはきらきらと輝きを放つ。嫌な予感しかしない。
「夢の女の子、ということで『夢子ちゃん』というのはいかがでしょう?我ながらとてもいい案だと思うんですが。」
最悪だ。思わず口が滑りそうになるのを両手で抑えこんだ。
あなたの人生は夢物語だ、とでも言いたいのか。第一、自分が見ている夢はあまり気分のいいものじゃない。少女はしばらく黙りこむ。
柊が貼りついた笑顔の隙間から、少女を飲み込もうと海色の瞳で見つめていた。否定は絶対に許さないと訴えている。
真っ向から拒絶することのできない状況で、なんとか妥協点を模索した。
「じゃあ、ぼくのことはこれから『むーちゃん』ってよんでよ。」
ユメコちゃんでもユメちゃんでもなく、むーちゃん。どんなときでもそう呼んでほしい。少女は半笑いで提案する。
自分でも、考えられる中で一番愚かな策だとは思った。だが他に名案が浮かばなかった少女には、ニックネームというのが限界だったのだ。
当の柊は、太陽に照らされた月のように瞳を輝かせる。二つ返事で承諾した。
「でもどんなときでもって、なんだかお友達みたいですね!」
月は太陽に成り代わろうかというほどの笑みを「むーちゃん」に向ける。
その笑顔は今までのどれよりも美しく、どれよりも偽りのないものだと少女には理解できていた。
しかし現実にはただ、はははと愛想笑いを絞り出すので精一杯だった。
「むーちゃん」だなんて、ネコちゃんのナマエみたいでちょっとかわいいけどぼくはもっとエレガント?なナマエがいいなあ。あのひとはそんなの、ゼッタイおもいつかないだろうけど。
つぎのおはなしは『ねこうつつ』だよ。
・・・うーん。なんかいいナマエない?