第三項 ねこのゆめ③
真っ白な廊下に面した教室は、どれもドアや窓枠に至るまで白に統一されている。何物にも染まらない白の空間は眩しすぎるほどだ。
異常なまでの統一感に、出てきたばかりの「箱」を思い出して気分はよくない。
それにしても、奇妙なくらい人がいない。教室はあるわけだし、学生が何人か通ってもおかしくはないはずだ。
窓は白く塗りつぶされていて、中が見えないようになっている。
空気は凍るようで、話し声さえも聞こえない。もしかしたら今日、中等部は休みなのかもしれない。
(そういえば今日は何月何日の何曜日なんだろう。)
そんなことに今まで気が回らなかった。道中に見えたお店のカレンダーとかで確認すればよかった。
「それでは、こちらで失礼致します。」
いくつかの教室を通り過ぎ、若い女性職員の方が軽くお辞儀をしてから教室に入っていった。
消火設備に隠れて見ていた少女は、老齢の男性職員が曲がり角の先へ消えたことを確認すると、早足で女性職員が入っていった教室まで進む。
他と同じく真っ白な扉には、手書きで教室名が書かれた薄汚れた紙が貼りつけられている。
(「数学準備室」・・・?理科とか音楽じゃあなくて?)
巨大な三角定規でも置いてあるのかな、と少女は冗談ながら妄想する。
どんどんと叩くようにノックしてから、やはり白に塗られたドアノブを回して少女は入室した。
扉の向こうは、やはり気持ち悪いほど真っ白だ。さらに、少女のいた部屋のようにほとんど何もない。
巨大な三角定規も指導用のコンパスも、室内には目立つものは何一つとしてない。あるのはたった一つ、ホワイトボードの前にぽつんと置かれたデスクだけ。
追ってきた女性職員の姿はそこにあった。
薄く青みがかった白の髪は、太陽というよりは月のよう。アクアマリンを閉じ込めた瞳は、夜にこそ映えるだろう。
「ねえ、さっきいりぐちでムシしたでしょ。」
スーツにネクタイ姿の月の瞳に、少女は無理やり映り込もうとする。
月の糸でつくられたポニーテールが少し揺れた。海の色を写したような瞳が少女に向けられる。
白魚のような指は、二人を隔てようとしていたノートパソコンのキーボードに当てられたままだ。
「何かご用でしょうか?えと、貴方のお名前は?」
口元では笑顔を作っているが、眉は困ったと言っていた。
目線はすぐさまディスプレイに戻される。まるで少女を遠ざけなければならない理由でもあるかのようだ。
少女は首を傾げた。話しかけ方に問題があったのかもしれない。
とはいえ、名乗るべき名前も現状持たない少女にとって、身分を証明する手段などないと言ってよかった。
「せいりゅうはくです。てすとのとうあんほしいです。」
学生証の名前を使って反応を見た。
彼女が何らかの事件に関わりがあるのだとしたら、何かしらのアクションがあってもいいだろうと考えたのだ。
決して名前が思いつかなかったわけではない。
それに、この女性職員はかなり怪しい。口調もしぐさもわざとらしい。
依然として月の瞳が少女の方に向けられることはなかった。しかし、聖生白の名前を発したときに一瞬だけ眉がピクリと動いたのを少女は見逃さない。
「ジケンのこと、なにかしってるよね?」
少女はゆっくり煽るように、月の糸がかかる耳元でささやく。
ビクッと一度身を震わせてから、黒のパンツスーツは勢いよく立ち上がった。
「何なんですか貴方は!冷やかしなら帰ってください!」
声を荒げた女の目からは一筋の涙が流れた。
しずくの落ちる先には、スーツには不似合いな運動用の白スニーカー。一滴、また一滴と滴り落ちていく。
しまった、と少女は思った。
相手が中等部の人間であるのなら、事件に生徒が関わっていることは触れられたくないはずだ。
何かの事件に聖生白が関わっているのは確からしい。しかし、今少女はそれどころではなかった。
地雷を踏んでしまったのだ。頭の中は後悔で満たされる。肌寒い教室で汗をだらだらと流しながら、弁明の方法を考える。
高速で案が浮かんでは消えるを繰り返し、ついに少女の頭の中は真っ白になってしまった。
しかし、教室から逃げ出してしまうという選択肢も少女の中にはない。一度逃げてしまえば、手がかり探しどころではなくなってしまう。
考えろ、考えろ。この状況を打開する方法を。
少女は考えた。とにかく考えた。
「ねておきたら、せいりゅうはくちゃんのセイフクをきてたんだ!ほら、ガクセイショウだってここにある!」
言い終えると、胸ポケットからアクアマリンの前に学生証を出す。
少女の解答は苦し紛れとしか言いようがなかった。解決案としては最悪と言ってもいい。
しかし、目に焼き付けろと云わんばかりに少女は自信満々の顔をする。鼻息が荒い。
天からの祝福でも受けたように青く輝く瞳に、聖生白の学生証が映し出された。青の宝石は大きくなる。
「どこで拾ったんですか?それに、寝て起きたらって一体・・・」
大きく見開かれたままの目で少女を見つめる。流れ続けていた涙はいつの間にか引っ込んでいた。
「ききたいのは、ぼくのほうなんだけどね。」
苦笑いしながら、少女はデスクの端に腰かけた。
少女は「柊霜月」と名乗る職員に、自分の今置かれている状況を話した。
記憶がないこと、自分はその手がかりを探しに学園に来たこと、そして唯一の手がかりが学生証の少女であったこと。
あごに手を当てて少し俯いて聞いていた柊という職員は、しばらくしてからゆっくりと、優しい口調で話しはじめた。
九月二十九日、つまり昨日ですね、学園近くの路地で一人の少女が殺害されるという事件が起きました。
聞いた話によると、彼女には首から上がなく、刃物で切られたと思われる跡があったそうです。
身元が割れるのを防ぎたかったのか、あるいは激しい拷問の末か。手首から先も足首から先も切り取られた、とても見られたものではない無残な状態であったとか。
今朝警察の方から、さらに彼女の腹部には刃物で切られたものではない別の傷が存在していることを聞きました。
おそらく単独ではなく、複数人によるものと見られているようです。
死亡推定時刻は真夜中かつ、発見現場である路地は普段から人通りの少ないところでした。
目撃者はなく、付近の監視カメラにも怪しい人物など発見できていないようです。
手口の残忍さや現場に足跡一つ残っていない状況から、反社グループによる計画的犯罪との声も上がっていますが、真相はわかりません。
つまり、犯人については何の手がかりもいまだ得られていないと言えます。
しかし、身元は遺体のそばに落ちていた学生証からすぐにわかったと言います。その名前というのが・・・
「せいりゅうはくちゃんってわけだね。」
少女はむしろ今までになく落ち着いていた。自分でも驚くほどに。
簡単に感謝の言葉を告げてから、デスクから立ち上がる。俯く柊に振り返ることもなく、再び真っ白なドアノブに手をかけた。
待って、と声が少女の耳に入ったのは扉が半分開いたときだった。
「私、聖生さんの事件についてはいくつか疑問を持っているんです。」
琥珀の瞳は、まっすぐこちらを見る柊を捉える。勢いよく閉まったドアに金糸のツインテールの一房が挟まって痛い。
「貴方に事件のことを話したのは他でもありません。実は、不思議なことがあって。学生証についてです。貴方がなぜ彼女の学生証を持っているのかも説明がつくはず。」
そういえば、彼女の身元は学生証によってもたらされたという話だった。同じ学生証が二つ存在することになる。
たしかに疑問に持つべき点だ。
少女はもう一度戸締まりをしてから、アクアマリンの瞳を見つめる。
「遺体のそばに落ちていた学生証は、確かに聖生さん本人のものだと学園側でも確認が取れました。しかし、誰もその事実を受け入れることができなかった。」
柊は今でも信じられません、と当時のことを語った。
「学生証は鏡で写されたように、反転された状態だったんです。警察の方はもちろん、私たちもシステムの異常か何かだと指摘しました。ですが、何度照合しても結果は同じで異常も見られなかった。私たちは疑問に思いながらも仕方なく、反転した学生証を彼女のものだと認めることにしました。」
試してみれば、機能的にもまったく問題なく使用できる。言ってから、柊は椅子に座る。
「で、ぼくがそのコのをもっているリユウってのは?」
話に集中してほしかったから、と柊は臆面もなくそう言った。つまりこの女は早くも嘘をついたことになる。
微笑む彼女に、少女は一抹の不信感を抱いた。
たしかに二つ学生証が存在していることの説明にはなっているのかもしれない。
少女の持つ学生証と反転したもの。たとえば鏡で写された学生証が飛び出したとか、少しファンタジーな現象が起きれば、あるいは。
しかしそれを少女が持っていることの説明には全くなっていない。無論、少女が聖生白本人というのなら話は別だが。
「もう一つわからないのは場所です。」
柊はまた緊張した面持ちをする。
「真夜中で人通りが少ないとはいえ、現場は住宅に挟まれた路地。殺人が起こったとするなら、目撃者が一人もいないのはおかしい。殺されようとしていたら叫び声でもあげるでしょうし、身体じゅう刃物で切っていたのですから相当の時間がかかります。付近の住民は寝ていたとしても、明らかな異常に気付くはず。しかし、誰も犯人はおろか彼女の遺体を今朝になるまで知らなかったというのです。」
たしかに柊の言うとおりだ。
路地の周辺の事情は知らない。だが住民がいるのであれば、恐怖と絶望から上げたであろう被害者の金切り声に知らないというのは到底無理のある話だ。
とすれば、事件の起こった場所というのは他にあるのだろう。それか住民がグル。
「他の場所から運んできた痕跡もなかったと聞いています。それに、あそこは自転車一台がギリギリ通れるくらいの狭い路地ですよ。」
遺体を捨てに来るにしても道が狭すぎる。そもそもリスクが大きい。
しかし住民がグル、というのもいささか無茶が過ぎるだろう。少女も本気で思っていたわけではないが。
たとえば麻酔などを施したとすれば、と考えても犯人が複数なら女の子一人にわざわざ大がかりな殺し方をする必要も感じない。
甚だ疑問ではあるものの、誰にも謎は解けそうにないと柊は首を横に振った。
「貴方はおそらく事件の重要なカギになる、と思ったのですが。」
またカギ。己のことさえわからないというのに、カギかどうかなんてわかりようもないじゃないか。少女は心の中で反発した。
何か考え込むようにして、柊はその場で固まってしまった。
少しの沈黙の後、少女はそういえばと話を切り出す。
「そのロジってさ、ものすごくクラくてなにもみえないところ?」
突然の予想外の質問だったのか、柊は鳩が豆鉄砲を喰らったようになる。
「ぼくのみたゆめ、もしかしたらそこかもしれないんだ。」
何も見えなかったから確証はないけどね、と少女は続けて笑う。
夢の記憶とはあいまいだ、確証など得られようもないことはわかっている。自分で言っていてバカバカしくなったのだ。
数瞬の沈黙の後。柊はまた少し思案してから、少女の方へ向き直った。
「貴方の記憶探し、私にも手伝わせてください。」
にっこりと向けられた笑顔の裏には、何か計算があるのだろう。さっきこの女には一度ならず二度までも騙されたばかりだ。
そのうえで丸めこむ能力まで持ち合わせている。
(まるで初めからこうなるように仕向けられたみたい。目を合わせた瞬間から、ぼくはこのひとの術中にはまっていたってことかなあ。)
正直柊という女は十二分に怪しい。
しかし、少女は何の手がかりもなく一人でフラフラしているよりは、と彼女の提案を受け入れることにした。背に腹は代えられない。
そもそも当てはなかったのだ。少しでも手を貸してくれるというのなら、少女に断る理由はない。
柊は、夢とは記憶からつくられるものだから、少しでも事件の手がかりになる可能性があると考えている、と少女に手伝う理由を話した。
アクアマリンの瞳を一層美しく輝かせながら語る柊の話を、少女はまったく信じていなかった。
(このひと、探偵ごっこしたいだけなのかも。)
会って間もなくの涙は一体何だったのか。
これから生徒の死の真相を追う教師の姿とは思えない、生き生きとした柊に呆れながら共に教室を後にした。
「どんなコだったの、せいりゅうはくちゃんは?」
校舎そばの中庭に設置された自動販売機。缶コーヒーを二つ買ってきた柊は、ベンチに座った少女の隣に来て一つ差し出す。
無糖と白文字で大きく書かれた缶の中身を、少女はにおいをかいでから一口飲んでみる。
黒い液体は少女の舌に乗り、喉を通過しようとした。
「可愛い子、だったかな。」
ごくっと一息に飲んでから柊は答えた。
あまりに想定外の答えに少女はコーヒーを噴き出す。決してコーヒーが苦かったからではない。
少女は柊の方をちらりと見る。どうやら気づいてないらしい柊に、少女はほっと一息ついた。
聖生白の担任だったという柊は、もっと彼女のことを知りたかったと遠くを見ながらつぶやく。
「聖生さんはあまり喋らない子で。いつも休み時間は、教室の隅っこの席で誰とも話さずに一人で座っていました。よく絵本を読んでいたイメージがあります。」
きっと本当に彼女を知る機会はなかったのだろう。柊の語る聖生白像はどこか曖昧だ。
それも普通なら仕方ないのかもしれない。柊によれば、この学園の生徒数は一学年だけでも学校がいくつかつくれてしまいそうな規模なのだという。
おそらくクラス単位でも相当な数の生徒を抱えているに違いない。いちいち一人一人の生徒にかまってなどいられないのは当然のことだ。
しかしだ。琥珀は太陽に照らされる月の瞳を覗きこむ。
学生証の氏名欄の上の方を見れば、「生徒会長」と役職が大きく書かれているではないか。少女は柊に質問をぶつけた。
柊は軽くため息を吐く。きっと同じ質問を幾度も受けたのだろう。
「学園長からの推薦なんです。本人の意思ではなく。」
淡々と事務的に言った柊に、生徒を想うような感情はみじんも感じられなかった。
柊は聖生白が生徒会長となった経緯を少女に話しはじめた。
聖生白は今の学園長、東明白矢というひとの姪っ子にあたり、とてもかわいがられていたらしい。
学園長によれば、「上に立つ者として当然受けなければならない教育の一環」だそうだ。
その証拠に、彼女の学生証の氏名欄上部にはあらかじめ「生徒会長」と大きく印刷されている。
「彼女は誰よりも熱心に生徒会の業務をこなしていました。でもむしろ、彼女には学園長が目指していた主体性とか発言力みたいなものがあまり育てられなかったようで。」
ああ、だからさっき可愛い子だなんて言っていたのか。少女はなんとなく聖生白という少女のイメージ像がつかめた気がした。
だがますますわからないのは、そんな少女がなぜ殺されなければならなかったのかということである。
しかも、全身を切るなどという残酷な手法で。
実行者は彼女に相当明確な殺意を持っていたはずだ。巨大な殺意はどこからどうして湧いてきたのか。
妬み嫉みからのイジメがあったとして、中学生に斬首など可能だろうか。そもそも見せしめのような殺し方をする必要性は感じない。
身代金目当てなら行為はむしろ逆効果だろう。一銭の得にもならないどころか、リスクを考えればマイナスしかない。
ターゲットを絞りすぎているし、犯行の痕跡を徹底的に消している。テロリズムとも考えにくい。
わからない。事件の全貌が全く見えてこない。誰が、何の恨みがあって彼女を。
「まさか、がくえんちょうが?」
思わず少女の口から何の根拠もない憶測が漏れる。手で抑えようと思ったときにはもう遅かった。
「探偵ごっこしてるんじゃあないんですよ。」
アクアマリンの瞳が少女の琥珀を覗きこんでいた。口調はあくまで優しく丁寧に。
だが、少女にはこの柊という女が余計に恐ろしく映った瞬間だった。
怒らせてはいけないタイプだ。いろいろ思うところはあったが、少女は大人しく口をつぐむ。
チャイムが聞こえたのは直後だった。少女の持っている缶にはまだ半分くらい、冷めきった無糖コーヒーが残されている。
「そういえば、せんせいはじゅぎょうないの?」
準備室にいたくらいだ、講義の一つや二つあるに違いない。少女は冗談のつもりで言った。
しかし、いまだ微笑みを絶やさない柊の返答は少女の中にはないものだった。
「私、今日はお休みをいただいているんですよ。」
だから一日付き合えます。柊は軽くそう言った。
缶の中身を一気に流し込もうとしていた少女は思い切り噴き出してしまう。白いカーペットに焦げたような色が染みこんでいく。
驚いてしまっただけで決して不味かったわけじゃない。少女は必死に弁明する。
月のように穏やかなまま、柊は持っていたハンカチを少女に差し出した。
おそるおそる手を伸ばす少女の頬に何かが触れる。見上げると、月の瞳が冷たく突き刺さる。
「次やったら・・・いいですね?」
頬に当てられた手は恐ろしく冷たい。まるで彼女の心を表すかのように。
今にも仕留められかねない。微笑みに隠された氷の刃に、身体じゅうから汗が止まらない。
とにかく、こくこくとうなずく。
しばらくは汗と涙と鼻水をハンカチで拭った。ぐちゃぐちゃに汚れてしまったハンカチの処遇に悩んだが、大人しく後でクリーニングに出すことにした。
(そのまま返したら殺されちゃうかもしれないもんね。)
もしかして、この女が犯人なのでは?
思っても口には出せない少女なのであった。