第一項 ねこのゆめ①
人生とは、暗闇の連続である。
闇の中から埋もれたほんの小さな光の種を手探りで、何度も何度も見つけては拾い集める。その作業の連続が、人生と呼ばれるものらしい。
それにしてもこれは何なのだ。先が見通せないにもほどがある。一寸先も二寸先も、どこまでいっても黒で塗りつぶされたような世界だ。
少女はそこに立っていた。
リボンで左右に束ねられていてもなお有り余る金糸は、襲い来る闇の魔物から少女を守るベールのよう。
金色のカーテンから現れるのは、まるで琥珀を嵌め込んだように美しく煌めく瞳。
体温を感じさせない白肌は校章の入った黒のセーラー服に包まれている。
童話から抜け出したお姫様か、あるいは誰かに都合よくつくられただけの傀儡か。答えは少女自身でさえ知りようもない。
少女は未だ己を知らないのだ。
(なんでもいいから明かりはないのかなあ。)
琥珀の瞳は天に向けられる。やはり、延々と続く黒が支配している。
街を照らす灯り、瞬く星の明かり、虫の発する神秘の光。本当に何でもよかった。
目を凝らして暗闇の先まで見ようとしてみるものの、先などはないと云わんばかりに何も得られない。
やはり少女を導いてくれるものはないらしい。
街の中にしてはあるはずの喧騒はないし、山の中にしても自然の声が聞こえない。
実のところ、少女の耳には今まで全く何の音も入ってきていなかった。当然といえば当然のことなのだ。
きっと閉鎖空間なのだろう。少女の腰まで伸びる金のベールは風に揺れることもなく、ただ少女を包み込んだままだ。
棒立ちのまま、少女はしばらく考えていた。
どこかに囚われているのだとしたら、どこというのは論外にしても「誰に」「なぜ」囚われているのか。
前者については今の少女にはわかるはずもない。第一、自分のことさえ記憶がないのだ。他に思い出せる人物などあるだろうか。
それなら、と理由を探してみる。
暗闇に少女が一人。拘束こそされていないが逃げ道はほとんど塞がれていると言っていい。性犯罪や人身売買といった単語が頭を過る。
想像通りなら、「誰が」というのはひとまず問題外だろう。
しかし想像が現実のものになってしまえば、推理どころではない。・・・囚われているということについて、あまり深く考えないことにした。
琥珀の瞳が映すのは、どんな色さえも塗りつぶさんとする黒。どこまでも深い黒である。
出口はないかもしれない。だがこのままびくびく怯えながら大人しく、というわけにもいかないだろう。
カラクリ人形のようにぎこちなく、恐る恐る手を伸ばす。
指先が黒に呑まれる。自分の一部が闇に溶け込んでいく感覚が、少女にはとてつもなく恐ろしく感じられた。
腕をまっすぐ前に伸ばしたままゆっくり、ゆっくりと上下左右へ探りを入れる。その様はさながらキョンシーのよう。額に札でも貼ればそれらしいだろうか。
最後に後ろを、今度は勢いよく振り返る。
手の届く範囲には何もないらしい。大きく息をつく。震える左の腕を右の手で抑えながら深呼吸する。
眼前に広がる闇は、まるで少女を誘うかのようだ。
(歩くのやだなあ。何か出そう。)
汗が頬を伝う感覚さえ、今の少女には恐ろしかった。しかし、否応なく汗は額から頬を伝い流れていく。
暑いはずはないのだが、少女にはどうしてだか流れる汗を止めることができなかった。
手の汗をぬぐいながら右足を一歩前に出してみる。何もない。
ほっと息をついて、今度は左足を前へ。やはり何もない。一瞬身体から力が抜ける。
手がかりを探して歩きはじめたはずが、何もないということが少女の安心材料になりつつあった。
もし何か見つけたときに、このままでは驚いてばかりで逃してしまいかねない。気を引き締めて一歩、また一歩と足を前に進める。
何もない。左足。何もない。右足。まだ何もない。
このまま何もなく、いずれ現れるだろう終点にたどり着けたら。そんなことが頭の中に浮かびはじめる。
しかし十数歩進んだところで少女は、はてと首を傾げた。
(どこまで続くんだろう。もしかして、ずっとなんてことないよね?)
たしかに何もないというのは安全を意味する。ただし、安全に不確定があってはならない。
今何もないということは同時に明かりも出口も、つまり少女にとってのたどり着くべき場所が未だ不明確であることを表していた。
闇を打ち消す光明が見出せないでは意味がないのだ。
緩みかけていた少女の心はまたしても曇る。眼前の暗闇は一層濃く深く見えた。
永遠なんてものはないということは頭の中でわかっていても、実際状況を打開する道しるべにはならないのだ。
何もない。右足。何もない。左足。案の定何もない。右足・・・
自分の足音さえも聞こえることのない異常な空間を、少女は前とも後ろともつかないまま一歩ずつ歩いた。いや、もう本当に歩いているのかも少女にはわからない。
(なんか眠たくなってきたなあ。)
急に体がずっしりと重くなる。緊張し続きだったせいだろうか。もう一歩、前へ足を出すことができない。
単調で、いつまでも続いて終わりが見えない。力が失われていくのに抗えないのも仕方がないだろう。
体は膝から着地する。勢いよく落ちたはずなのに痛みを感じないのは眠いからか。
何の手がかりも見つけられなかった。だが、そんなことは今議論するに値しない。
肘から手が着地し、最後に頬が暗闇のカーペットに受け止められる。金糸の頂に何か、冷たいものが触れた。
意識が徐々に遠のいていく。頭の先に手をやる気力さえもうない。少女は限界だった。
琥珀にふたが被せられはじめる。
瞬間、真っ黒だった視界の先にうっすらと光るものが映った。しかし、今の少女にとってはどうでもいいことだった。
目を開けた少女の琥珀に映ったのは白。眩しいほどに明るい白一色だ。
ついさっきまでとは正反対の景色に少女は飛び起きた。
(夢だったってこと?それともこっちの方が夢?)
信じられない。少女は首を右に左に振る。
嘘みたいに真っ白で、何もない部屋だ。壁も床も、見上げれば天井までも継ぎ目のない白。
窓はなく、丁寧にドアノブまで白に塗られた扉までまさに殺風景だ。
幸い汚れた形跡は見られないが、必要最低限なものまできれいさっぱり何もない。あるのは、自分の身体と薄い布団マットだけ。
床と同化するほど真っ白な布団マットを一度壁際までどけてみる。
気分が悪くなるくらい白一色だ。押しても引いても叩いても、何も出てきそうにない。
一見しただけでは布切れと間違えてしまいそうな布団マットにも、何かが入っているという感触はない。
不気味なまでの白が少女を取り囲んでいた。
(まるで何か閉じ込めておくための箱みたい。)
ふと思ったことに自分で驚いた。雑に敷かれた布団マットだけのこの牢のような部屋に、まさか自分が。意思とは無関係に、体がガタガタと震える。
死を待つ囚人なのか、屍に足掻くモルモットなのか。少女が知るすべはほとんどないと言えた。
頼れるものはどうやら自分自身だけというらしい。カギは自分の中にあるのだと云わんばかりだ。
なんだ、瞼を開ける前と何ら状況は変わっていないではないか。黒が白に入れかわっただけ。
少女は落ち込むどころかひどく安心した。夢の延長なのだ、これは。
白は己の正しさを他に強いるかのようである。
出口、かどうかはわからないが扉が存在していることも少女にとって大きかった。カギの見当などつくはずもないが、少しは希望も持てるというものだ。
黒の世界とは打って変わって、恐怖ばかりが心を支配するなどということはない。不安で先の見通しが立たないのは確かだが。
他人のものに触れるようで気は進まないが、少女は着ているセーラー服の胸ポケットに右手を突っ込む。
黒地に白ライン、白いリボンの巻かれたごくごく普通のセーラー服。胸には太陽がモチーフと思われる校章が光る。
そういえば、自分はなぜセーラー服など着ているのだろう。夢の中からずっと同じ姿でいるのだ、意味はありそうだ。
胸の校章から推察するに、最も自然なのは学生身分だろう。しかし趣味の可能性も否定できない。それとも、
(霊的な何か、だったりしてね。っと、何かあった。・・・何これ、カード?)
出てきたのは「聖生白」という名の少女の学生証。
白っぽい銀色の髪は長く伸ばされ、蒲公英を思わせる黄色の瞳が美しい色白の少女。同じセーラー服を着ている。
服の本来の持ち主、ということだろうか。とすれば今、少女は他人のものを拝借していることになってしまう。
少女は首を傾げる。
(せいりゅう はく?すごく読みづらい、特に苗字。なんて読むのか、学校の先生も難儀しただろうなあ。)
どうでもいいことを考える。しかし、今はつまらないことに頓着している場合ではないのだ。
いったん名前のことは置いておいて、再度学生証に目をやる。学生証に写る少女は、おそらく他人には違いなかった。
自分の髪は眩いほどに煌めく金色で、彼女の髪はほとんど白といってもいいくらいの銀色。瞳は琥珀と蒲公英。
光の加減だとしても、少女にはどうしても学生証の少女と自分が同一人物とは思えなかった。
自分の名前ではないからこそケチもつけられるというものだ。
だが、他人であることがわかればなおさら疑問なのが今着ているセーラー服である。
学生証が胸ポケットに入っていたのなら、やはりセーラー服は聖生白という全くの別人の制服であるということになるのだろう。
なぜだか知らないが、少女は直感的に自分は学生ではないと確信していた。
そもそも自分が学生服を着ているということに、いまいちピンと来ていない。
記憶の扉が閉じたままなのだ。なんとなく、この制服には他人の記憶が染みついているような気がした。
自分の登校姿もまったくもってイメージできない。本当に学生ならばうっすらとでも浮かんでくるはずだ。
学生証を隅から隅まで見てみる。聖生白と自分に、何かしらの関係性があるのかどうか。彼女の記憶があるのなら、きっかけが掴めたら。
だがわかったのは、学生証にはプリペイド機能が付いていること、そして聖生白という少女は中等部一年生で現生徒会長だということ。
それ以外の情報は学生証から見つからなかった。
間違いなく手がかりではあるのだろう。自分は何らかの理由で彼女の制服を着たまま現在に至るというのだから。全くの無関係なんてことはあり得ないはずだ。
しかし、ヒントがあまりにも少ない。自分と学生証の少女とのつながりを示す証拠が何一つ得られないのだ。
あわててスカートのポケットを探ってみるが、当然のように何も出てきはしなかった。
白くて地味なスポーツブラの下にも、白無地のショーツの下にも。
少女は立ち上がり、壁や床を調べはじめる。床に汗が滴り落ちていく。
隠し扉でも隠し階段でも、とにかく何でもよかった。どんなかたちであれ、今最も優先されるべきは情報なのだ。その先に何が待ち受けていようと、夢の中のように何もないよりはマシだと思えた。
しかし、壁中叩いても床を押してもびくともしない。ただ冷ややかに、これ以上は何もないのだと思い知らせるばかりである。
手がかりはたった一つ。
聖生白という少女の学生証が入った、おそらく彼女のセーラー服。つまりはこの身一つがキーということだ。
結局状況は何一つ好転しなかった。
少女は部屋の端でぐちゃぐちゃになったマットに倒れこみ、大きく息を吐いた。
(これじゃあ一体、ぼくが何なのかもわからないじゃあないか。教えてくれよ、ぼくはキミの何なんだ!)
できるのなら学生証の少女に向かって、叫びたい気分だった。
時の流れさえも感じさせない部屋は、あまりにも冷たい。
だが、万策尽きたわけではない。少女は勢いよく立ち上がると、真っ白な扉まで一直線に進む。
アルミかステンレスか、とにかく金属製の扉。少女の目には今、どんなものよりも重く映った。
たとえばそう、呪いの封を切るような。決して踏み入れてはならない禁忌を犯すような。
イチかバチか、まずは扉の先を考えるな。
ドアノブに手をかける。自然と肩には力が入り、息が上手くできない。
考えるな。考えるな。考えるな。絶対に考えるな。
扉の外、すぐ先は壁に塞がれているかもしれない。向こうからカギがかけられていて出られないかもしれない。
心臓が耳から飛び出してしまえば、この五月蝿い音も止むだろうか。
もうどうにでもなれ、と半分自暴自棄になりながら勢いよくひねった。
思考は瞬間止まり、高速で未来の想像図が流れはじめる。過去を持たない少女にとってそれは、走馬灯と同じことだった。
このまま、気の狂いそうな部屋に閉じ込められて一生を孤独に過ごすのか。最悪の未来予想図が脳内にちらつく。
だが、ドアノブは思っていたよりもずっと軽く、簡単に回った。少女は前につんのめる。
開くドアに導かれるように、琥珀の中はただ真っ白な世界から徐々に外の世界へと移り変わる。
黄と紅に彩られた街路を行き交う車や人の数々、何棟もの高層マンション。青空では鳥が舞う。
少女は思わず自分の頬をつねる。まさか、直接外に出られるとは思っていなかった。
何かの施設の一室であるとか、ドアの先はすぐに壁であるとか。最悪の想定ばかりをしていた少女にとっては、まったくもって予想外だったのだ。
だだっ広くて空気の張り詰めた部屋に囚われてばかりではなくなった。
しかし、外に出られたということは、今自分の背後にある殺風景で白い「箱」には自発的に入った可能性が出てきた。
たとえば、一時的な隠れ家みたいなものなのかもしれない。何かから逃れるための。
未だ監視対象である可能性など、考えられることはたくさんあった。
きっと意味はあるのだろう。だが、今どんな予想を立てたとしてもそれは意味のないことだ。
鳥たちは唄い、虫たちは踊る。彼らは誰として少女を拒まない。
とはいえ、自由の身だ。そばに見える駄菓子屋の時計は午前八時三十分を示している。
少女は大きく深呼吸した。
(学校、行ってみるか。)
胸ポケットから学生証を取り出し、住所を確認しながら歩を進めた。
数多の投稿作品の中から選んで読んでくださり、ありがとうございます。ここから先、少し長いお話にはなりますがお付き合いいただけたら嬉しいです。