第八章 竹林精舎の鐘の声、諸法無我の響きあり
ラージャグリハの王宮で近衛兵長がビンビサーラ王に報告していました。
「報告します。修行者の集団約1000人が突然やって来て町で托鉢をしております」
「何、修行者が1000人もか?」
「はい、すごい人数です」
「よし、偵察にいくぞ。近衛兵を100人連れて付いて来い」とビンビサーラ王は言うと早速馬に乗って出かけました。町に出ると修行者集団は大人数なのですぐに見つけることができました。
「誰かと思ったらシッダールタではないか」とビンビサーラ王は声をかけました。
「ビンビサーラ王、お久しぶりです」
「前に会ってから6年ほど経つが、大きな教団になったな。驚いたよ」
「おかげさまで解脱を達成することができ、教団も大きくなりました」
「何! 本当に解脱を達成したのか! それはめでたい。解脱達成の祝宴を開かせてくれないか?」
「祝宴を開いて頂けるとはありがたい。よろしくお願い致します」
ビンビサーラ王は祝宴を開く約束をすると、すぐに王宮に引き上げて行きました。
ラージャグリハの都で仏陀の教団は托鉢をしていました。仏陀が解脱を達成したという噂はすぐに広まり、次々と入門希望者が集まって来ました。仏陀の弟子であるアッサジが家々を托鉢して回っていると、そこへシャーリプトラという修行者が通りかかりました。
アッサジの様子をしばらく見ていたシャーリプトラは「何と気品にあふれ、立ち居ふるまいが美しいのだろう。彼はただ者ではないな。どのような師に付いて、どのような教えを受け、どのような修行をしているのだろう?」と小さな声で独り言を言いました。すぐにでも声をかけたかったのですが、彼の托鉢を邪魔してはいけないと思い、托鉢が終わるまで待ちました。
シャーリプトラは漢訳経典では舎利弗または舎利子と表記され、般若心経にも登場するのでご存知の方も多いと思います。後に彼は仏陀の十大弟子の筆頭となり、知恵第一と称されました。彼は生来聡明であったのでバラモンの跡継ぎとして期待されながらヴェーダ聖典を着実に修めていましたが、次第にバラモン教への不信感を募らせるようになり、隣の村に住んでいた親友のモッガラーナ(目連)と共にバラモン教にとらわれず自由に思考を巡らせて真理を求める出家修行者、すなわち沙門に成りました。初め2人はラージャグリハで名を馳せていた自由思想家であり、六師外道の1人であるサンジャヤ・ベーラッティプッタに師事しました。サンジャヤは真理をあるがままに認識し説明することは不可能であるとする不可知論者でした。シャーリプトラはすぐにサンジャヤの教義を体得してサンジャヤ教団の高弟となりました。しかし、サンジャヤの教えでは解脱することはできなかったので、本当に解脱できる真理の道を探し求めていました。
托鉢が終わったので、シャーリプトラはアッサジに声をかけました。
「すみません。あなたの托鉢の様子を観察していて、立ち居ふるまいの美しさにただ者ではないと感じました。あなたはどのような師について、どのような教えを学ばれ、どのような修行をされているのでしょうか?」
「私は仏陀の弟子です」
「仏陀とは目覚めた者という意味ですね。では、あなたの師匠は解脱を達成されたということですね?」とシャーリプトラは目を輝かせて質問しました。
「その通りです。仏陀は解脱を達成され、生死を超越する法を説かれています」
「生死を超越することが本当にできるのですか?」
「仏陀は実際に生死を超越されました。バラモン教では解脱は輪廻転生からの解脱です。しかし、仏陀の解脱は生死のある現象世界からの解脱です」
「なるほど。実は私もバラモン教の輪廻転生から解脱するという教えには疑問を持っていました。しかし一体どうやったら生死のある現象世界から解脱することができるのですか?」
「生死のある現象世界は経験の積み重ねと心の働きによって形成された迷いの世界なのです。だから瞑想を極めて心の働きを止めると迷いの世界は消失し、悟りの世界を体験することができるのです」
「なるほど、素晴らしい教えですね。私もその教えに導かれて修行をしたいと思います。是非あなたの師匠である仏陀に会わせて下さい」
「わかりました。ご案内します」
こうして2人は棕櫚の森の寺に向かいました。
仏陀に会ってその威光に触れ、【四諦】と【八正道】などの教えを聞いたシャーリプトラは、仏陀が真に解脱を達成した覚者であり、この教えが真に解脱に到達できる道であると確信し、仏陀に弟子入りを願い出ました。そして親友のモッガラーナ(目連)にこのことを話すために、一旦サンジャヤ教団に戻りました。
「モッガラーナ、ついに解脱を達成された師を見つけたぞ!」
「本当か! 本当にいたんだな!」
「ああ、本当だ。私は教団を出て仏陀の弟子になるよ」
「私も一緒に連れて行ってくれ」
「ああ、もちろんだよ。今からサンジャヤ師に話して来るよ」
「私も一緒に行こう」
「もしこの教団に残ってくれるなら、この教団は2人に譲ろう」とサンジャヤ師は2人を慰留しました。
「私達は教団が欲しくて修行をしているわけではありません。真理を知らずして教団を率いたとしても、それは無意味なことです」とシャーリプトラは決意を語った。2人が教団を出ることがわかると250人の教団員のほとんどがシャーリプトラとモッガラーナに付いて来ました。こうして仏陀の教団は新たに250人が加わり1300人を越える大きな教団となりました。
「私もこれから一緒に修行させてもらうことになりました。よろしくお願いします」とシャーリプトラはアッサジに挨拶をしました。
「こちらこそよろしくお願いします。私があなたと世尊のご縁を取り持つことができて嬉しく思います。あっ、私達は仏陀のことをこの世で最も尊い者という意味で世尊とお呼びしています」
「なるほど、素晴らしい呼び方ですね。ところでアッサジさんの立ち居ふるまいが美しいことに驚いたのですが、他の方達もやはり立ち居ふるまいが美しいのですね。一体どんな秘密があるのでしょうか?」
「この教団では修行者は常に観の瞑想を行っています。一挙手一投足を全身全霊で行うのです。更に慣れて来たら行うという意識も捨て去り、無意識のうちに、自然に、自動的に行われなければなりません」
「なるほど、それは素晴らしい修行方法ですね。早く私も観の瞑想を始めたいものです」
仏陀の教団は1300人全員がラージャグリハの王宮に来ていました。仏陀の在家信者となったビンビサーラ王が仏陀の解脱を祝って祝宴を開いてくれたからでした。宴席は王宮の中庭に設けられていました。
宴会が始まって少した頃、仏陀の説法が始まりました。
「今日は在家信者の方達も大勢いらっしゃいますから、在家信者の五戒について話します。私達出家者は多くの戒律を厳格に守っています。しかし在家の信者はそうもいかないでしょうから5つだけ守って下さい。1番目は不殺生戒です。生き物を故意に殺してはいけないということです。出家者は道を歩く時は虫を踏んで殺してしまわないように道を注意深く見ています。在家の信者にはそこまでは言いませんが、できるだけ殺さないようにして下さい。2番目は不偸盗戒です。自分の欲望を満たす為に他人の金品を盗んではならないということです。逆に他人には布施をしてあげられるような人に成りましょう。3番目は不邪淫戒です。道ならぬ邪淫を犯してはならないということです。奥さんを本当に大切にしていれば、そのような欲望が起きることはありません。4番目は不妄語戒です。 嘘をついてはならないということです。嘘とは自分と他人を区別して自分に執着すること、つまり我執から生じるものです。仏道はこの我執を無くす教えですから嘘はいけないのです。5番目は不飲酒戒です。酒を飲んではならないということです。仏道を歩む者は常に雑念を消して、今ここで実際に体験している事実に基づいた正念だけで心を満たしていることが求められます。朝起きてから夜寝るまでずっとです。酒を飲んで酔っ払った状態では正念の相続一貫ができるはずがありません」と仏陀は話され、更に説法を続けられました。
「この場には武人の方達も多くいらっしゃいますから次に仏道と武道の共通点について話します。私は幼少の頃から、剣術などの武道を習って来ました。その武道の気合いで瞑想をすると、とても上達が早くなりました。また、剣術では相手が打って来るのをこう避けて、こう打ち込もうと頭で考えてから行動したのでは遅過ぎます。考える前に行動することが大切です。仏道の場合も武道と同じで、頭で考えることを止めて無意識のうちに自然に自動的に行動できるように修行します」と仏陀の説法が終わると、ビンビサーラ王が話だしました。
「我々のやっている武術が仏道修行につながるとは興味深い話が聞けました。ところで、仏陀の教団に寄進したいものがあります。ラージャグリハの北1里の所に広大な竹林があります。所有者のカランダ長者も仏陀の在家信者と成られ、是非竹林を寄進したいと申し出てくれています。そして私はその竹林に伽藍を建立して寄進させて頂きます」
この素晴らしい申し出に一同から大きな拍手がわき上がりました。
「素晴らしい贈り物をありがとうございます。比丘の皆さんの修行が大いに進むことでしょう。また雨季をどうやって過ごすかという難問も解決しました」と仏陀はお礼を言いました。
早速伽藍建立の工事が始まり、数ヶ月後には立派な寺院が完成しました。竹林は広く約一万坪ありました。池もあり、比丘達が池のまわりで歩く瞑想をするのにちょうど良かった。広大な敷地に点在する伽藍に起床や坐禅などの時間をあまねく知らせる為に大きな鐘と鐘楼も建設されました。
「ゴーン、ゴーン」と鐘の音が聞こえてくると「いい響きの鐘の音ですね」とシャーリプトラは言いました。
「ゴーンという音を鐘の音だと名前を付け、更にはその音を私が聞いていると考えて在りもしない自分をでっち上げるのが迷いの世界の人間です。ゴーンと聞いたら聞いたままにし、聞いている自分がいるなどと考えないことが仏道のありのままであり、その行為者のいないありのままの体験が【無我】の体験なのです」と仏陀が諭しました。
この竹林精舎が仏教で最初の寺院です。その後、コーサラ国に祇園精舎、ヴァッジ国に菴羅樹園精舎と大林精舎、ラージャグリハのグリドラクータ(霊鷲山)に霊鷲精舎が開かれ、仏陀の時代に五つの大きな寺院が建立されました。また小さな寺も各地に多く建立されました。ただし、寺院と言っても今日のように定住していたわけではありません。インドには雨季(6月~9月くらいですが地域によっては差異があります)がある為、雨安居と言って雨季のみ寺院に定住し、雨季が終わると諸国に布教の旅に出ました。
ラージャグリハ郊外の祠のまわりで仏陀達が座禅をしていると、マハーカッサパという出家したばかりで師匠を探している修行者が通りかかりました。
マハーカッサパはラージャグリハからそれほど遠くないマハーティッタ村の出身であり、裕福なバラモンの家庭で育ちました。出家修行をしたいと思っていたので親が勧める縁談を断り続けていましたが、そのような縁談の一つにバッダーカピラーニーという裕福なバラモンの娘との縁談がありました。彼女にも出家の意志があることを知ると結婚することにしました。二人はいつか出家する為に結婚してからも清い関係を続け、子供を作りませんでした。両親の意志に逆らえずに、しぶしぶ家業を継いでいましたが、12年後に両親が相次いで亡くなるとマハーカッサパは全財産を使用人に分け与えて、妻と共に出家しました。二人が別れ道にさしかかった所で、二人が一緒にいれば甘えが生じるので、右の道と左の道に別れて進みました。
マハーカッサパは情報を集めながら師を探していると最近ラージャグリハの都に仏陀という解脱を達成した師が弟子を千人以上連れて現れたという噂を聞きラージャグリハに向かって歩いていると仏陀達の一団がラージャグリハ郊外の祠のまわりで瞑想しているところに出くわしたという訳です。
マハーカッサパは一団の中でもひときわ気高い雰囲気をまとい、まるで後光が射しているかのごとく見える者を見つけました。きっとこのお方が噂に聞く仏陀であろうと思いました。瞑想の邪魔をしてはいけないと思い、瞑想が終わるまで待ちました。
瞑想が終わるとマハーカッサパは仏陀に話しかけました。
「はじめまして。私はマハーカッサパと申します。出家したばかりで師匠を探しています。私を弟子にして頂けないでしょうか?」
「解りました。一緒に修行しましょう」とマハーカッサパの真摯な目を見た仏陀は即座に入門を認めました。 彼は後に仏陀の十大弟子の一人となり、頭陀第一と称されるまでになるのである。頭陀行とは乞食を中心とした禁欲修行のことである。